[嫉妬]
『砂の城』滞在三日目──二度目の朝。
あれから満たされた気持ちに身を纏われたナーギニーは、初日よりも安らかな眠りを知ることとなった。会食後の酷い仕打ちも、今抱えている全ての不安も、もちろん消し去られた訳ではないが、僅かな時間でも心を自由に出来たことが、此処での救いとなったのだろう。
日の出と共に自然と目覚め、昨夜思いついたことに早速取りかかった。残しておいた夕食の小皿から、カシューナッツを数粒摘まみ上げる。掌で転がしながら「これならあの子も食べられるだろうか?」と思案して、朝食のノックに邪魔されぬ内にと早々にバルコニーへ踊り出た。手すりの下の窪みにそれをそっと置き、しゃがみ込んでじっとリスを待った。
朝陽が東南と東北の尖塔の間から、幾重にも重なる光をターバンのように巻き付け現れた。その刹那、視界の中に小さな茶色い揺らめきが映し出される。昨朝来てくれたシマリスだろうか? ナーギニーは息を殺して瞳の先に集中した。
リスはカシューナッツの存在と共に、少女の気配にも気付いたようだった。警戒しながらそれでも少しずつ距離を縮める。おどおどとしていても、あどけない表情はナッツを食べたくて仕方のないようだ。目標に注がれた視線を時々ナーギニーに向けつつ、立ち止まっては歩みを進め、やっと手の届く距離に辿り着いた途端、全てのナッツを急いで頬袋に詰め込んだ。
その余りの慌て振りに、さすがのナーギニーも吹き出してしまい、彼女も慌てて口元を塞いだ。気付いたリスは恥ずかしそうに欄干に隠れ、二度程ナーギニーの様子を覗いたのち、やってきた方向に去っていった。きっと自分の巣や隠し場所にナッツを持ち帰るのだろう。また明日も来てくれるだろうか? 昨夜現れたナーガラージャのように……。
閑散としてしまったバルコニーで身を立ち上げ、目の前の尖塔を先端まで仰ぎ見た。あの暗がりにイシャーナが佇み、こちらを見下ろしてくれたことなどまるで夢のようだ。けれど確かに彼の柔らかい声は自分に語りかけた。そうして約束した今宵の秘め事。それこそが今日一日を乗り切る為の活力と成り得た。
流れくる朝のそよ風と共に、次々と思い出されるこの地へ来てからの出来事。孤独に苛まれていた筈の我が身は、しかしそうではないことに気付かされた。優しく見守ってくれるイシャーナの存在に、その懸け橋となってくれたナーガラージャ、先程のリスでさえ淋しい気持ちを忘れさせてくれた。そして……ナーギニーの為に身を引いたシュリー──会えなくともその存在こそが力となり、会える日を信じることが一歩を進ませてくれる──それを今一度胸に刻んで、少女は煌めく陽光に彼女の無事を祈った。
本日は午前に庭園の散策と、昨日と同様の昼食会、午後には大広間にてサリーの仕立てをしてもらえるという。昨朝と同時刻に侍女達が現れて、今回は散策を気軽に楽しめるようにとの配慮なのか、淡いレモンイエローのパンジャビ・ドレスが渡された。その色は「庭園の黄色い薔薇となれ」ということなのか──黄薔薇の花言葉は「ジェラシー」──もしそうであるならば、嫉妬の嵐は既に巻き起こっているであろうに──。
まるでもう何十日も繰り返されたルーティーンのように、朝食と湯浴みと祈りを終え、迎えに応じて扉の外へ出た。と途端、階上に集まった全員の視線が一同揃ってナーギニーを貫く。同時に賑やかだった筈の回廊は沈黙の波紋を漂わせ、それは明らかに責め立てるが如く少女の肌に突き刺さった。
ナーギニーは身を縮込ませ、深く俯いて列の最後尾に付いた。宮殿の正面扉を抜けて、この度は基壇を降り、時計回りに王宮の方角へ向かう。白宮と黒宮の西側には、人工河を挟んだ広大な庭園が整備されていた。
各城の中央を飾る、敷地を四分に仕切った精密な十字水路池ではなく、街路樹のように整列した沙羅双樹が、挟まれた自由な空間を見守るように林立している。その木々の真中を進み河岸に辿り着く手前、小さな白い背中が見えた──シャニ。
「昨夜も良くお休みになられたかな、お嬢様方」
川面を見渡せるよう置かれた玉座から立ち上がり、振り向きざまに質問を投げた王へ、満面の笑顔と頷きを返す少女達。それからシャニは全員を誘いながら、この西の庭園・その隣に建つモスク・宮殿を彩る四分庭園・東に配された迎賓館を案内し、西側と同型の涼やかな空間を造る東の庭園で彼女らを休ませた。
シャニを取り囲むように青い草地にしゃがみ込んだ面々は、沙羅双樹がたわわに咲かせる白い花房をうっとりと見上げた。大振りの葉に対して、花弁は小さく可憐だが、集まれば香り高く豊かだ。無邪気に花々と戯れる風の神ヴァーユが、ジャスミンのような芳香を彼女達に降り注いでくれた。
「ご堪能いただけただろうか? 明日は王宮の庭園を案内しよう」
昼食までの時間は自由に、と言いつけてシャニが立ち上がる。続けて身を起こした美姫達の中、真後ろの少女にいきなり背中を押され、ナーギニーはシャニの足先で、両手を地に突き四つん這いに倒されてしまった。
「大丈夫かい? ナーギニー」
頭上からゆっくりと声が響き、目の前に分厚い掌が差し出される。その指の全てには大小色とりどりの宝石が輝いていた。
「は、はい……大丈夫です」
慌てて背後に下がり、その手には触れることなく起き上がったナーギニーは、仇でも見るような周囲の眼差しに耐えながら、極力シャニの許から遠ざかろうとした。
が、三方を少女達に囲まれ、鼻先すぐ傍には王の含みのある微笑み。まるで獲物を追い詰めたドールの群れと化した幻に、ナーギニーは今一度地面に身を丸めたい気分だった。
「手を取ってくれても……良かったものを」
其処へ投げ込まれる更なる妬みのエッセンス。執拗な欲望を湛えた声の主から逃げるよう、ナーギニーは深く一礼をし、人垣を縫って河の方向へ走り去った。
やがて心落ち着かせた少女は、足元の水面に映る怯えた自分の姿を見た。
そして振り返った先には──全員の手の甲へ順に口づけをする、満足そうな王が居た──。




