[藩王]
たかが一介の商人の娘が、このような荒れ果てた時代に、このような貧しさと汚れの中で、終日働くことなく清潔に暮らしていられるのは、ただひたすら傷物にしないという配慮の一語に尽きる。枯れ朽ちていく地球上で僅かな水と財産を使い、少女を可憐に留めておくには、両親の並々ならぬ汗と涙が陰に潜むことは隠せない。そこまでしてナーギニーを美しくする必要は何処にあるのか──それは二十五年もの歳月を遡ることになる──。
ウッタルプラディッシュ。アグラの街が所属するこの州には、領主── 一人の藩王が居た。ヴァーラーナスィーの大部分を占有する『砂の城』を構えた、シャニ=アシタ=クルーラローチャナ三世。砂漠のオアシスにも似た、恵みの泉を湛える存在──。
その五年前より始められた彼の統治の下、二十九州に分かれたインド大陸で唯一、この地は不思議と安寧を保ち始めた。信用を勝ち得たシャニは次第に贅の限りを尽くし始め、やがて自分の城を建造、タージ=マハルに勝るとも劣らない、白大理石と黒大理石の対をなした円屋根状の宮殿を完成させる。
先の時代、タージ=マハル廟の創主シャー・ジャハーン帝は、妻の墓廟の隣に自分の墓として、黒大理石で出来た同型の廟を造り、タージ=マハルに挟まれたヤムナ河上へ橋を架けるという壮大な計画を設けたが、夢のまま死後も叶えられることはなかった。それを遥か彼方の未来、王宮として実現させたのがシャニによる『砂の城』だ。
外界の黄砂を完全に遮断する透明なドームに囲まれた砂の城は、独自の世界を描く地球上唯一の楽園であった。黒宮では州治を操り統べらせ、白宮には美しき寵姫達が舞い踊る──いわば王の為のハーレムが其処に存在した。
二つの王宮の周囲には選ばれた民が居住し、あたかも城を守るように同心円状の街が発達している。いや、もはや街などとは語ることの出来ぬ、既に国家として君臨し得るシャニ王国であろう。インド経済の大部分を賄うのは、この砂の城であるのだから──。
選ばれることのない貧しい人々は、いつしかこの城を『砂の城』と呼ぶようになった。城は人々に快楽を与え、その報いとして人々の心を吸い尽くす。心を砂で満たされた城──砂の城。現実は水で潤された楽園ではなく、砂に覆われた大地の中にあるのだ。楽園は砂で出来た蜃気楼。砂に隠された幻。しかしそんなひがみ根性は一部分の民だけに限られ、大衆の多くは豊かな城の生活に憧れていた。
が、夢の如く一夜にして覚める民間の望みも、三年に一度、夢が夢でなくなる時が来る。『寵姫選良披露』──その名の通り、シャニの妾を選出する一大行事と化した式典だ。
一州につき一名、選ばれた十二歳から十八歳までの健康な生娘を、一週間シャニの目の届く宮殿へ住まわせ、その後披露式において心に決めた少女を妾妃として迎え入れるというものである。もちろんシャニの何十、何百という妾の内の一人であったが、娘だけでなくその家族も郊外へ受け入れることで、この多数の妾を持つというシャニの傲慢な振る舞いは、時の過ぎゆくまま続けられていた。そしてそれから二十五年、もはや六十を越える老体となったが、彼の類まれなる好色は一向に衰える気配を見せずにいる。
十七年前、ナーギニーの母親が涙を飲んで決意したこととは、この生まれて間もない赤子を、何万分の一の確率によって選ばれる妾妃に仕立て、自分達もドームの中で砂に脅かされることもなく、快適に暮らそうというものであった。毎年行なわれてきた選良披露によって人口過密となった数年前、選出は三年に一度と回数を縮小された上、十四の時、高熱に浮かされ出場出来なかったナーギニーにとっては、今年が最初で最後の機会となる。その始まりが……あと一週間というところまで迫っていた。
お陰でいつになく専念される母親の心配りが身に沁みて、彼女の外界への恐怖心は更に深まっていった。
シャニなどという強欲な老齢の者に嫁ぎたくなどないが、両親への恩は忘れられない。それにもし寵姫として選出されなければ、彼女はどんな運命に苛まれることか。どちらにせよその眼前に現れるのは「不幸」の二文字に過ぎなかった。
少女は一息小さな伸びをして、一旦ずらしていた視線を再び窓の外へ戻した。依然として砂の気が漂い、少しずつタージ=マハルの影が淡くなっていく。どこまでもどこまでも続く砂漠。終わりという文字はなく、ただひたすら起点へ戻る為の前進。血を固めたような黒々とした紅い空と、砂や墓廟の白さの対比は妖しい鮮やかさを放ち、彼女の滑らかな頬を照らした。
このように不気味さを醸し出す外の世界も、選良披露の予選を兼ねる祭りの開催で、一週間後には活気に満ち溢れることだろう。そして州代表となれば──未来が決まる選良披露が待っている。彼女にとって全てはあと二週間程の時間でしかなかった。
しかし執拗とも思えるほど完全隔離され育て上げられた少女が、果たして王宮という未知の環境に上手く順ずることが出来るのか──小さな弧を描く白い肩に圧しかかる、大きな不安をひしひしと感じながら、ナーギニーは溜息混じりの息を吐いた。
「シヴァ様……」
頼る者は神のみの現代、彼女ですら破壊を求めるのか?
時代の流れは、砂のように弱い風にさえ吹き飛ばされ、移ろいながらもしっかりと砂紋という結果を刻み、ゆっくりと形を変えつつ方角を『砂の城』へと向けていた。
そして神のみぞ知る偉大な力は、見えざる触手に絡み取られ、複雑な螺旋を描きながら『二人』の許へと既に放たれていた──。




