[密会]
三時間弱の会食が終わりを告げた。
ナーギニーも含め、まだ到着したばかりの少女が多いこともあり、本日の予定はこれにて終了と知らされた。一同は再び同じ道を、同じ順に戻り始める。が、軽快な足取りの少女達に対して、ナーギニーの歩みはゆっくりと重かった。
そんな足先を見つめながら機械的に前進するナーギニーには、行きとは違う唯一のことに気付けずにいた。前を歩く全員が、チラチラと彼女を振り返っているのだ。その視線は冷たく鋭く、嫉妬と憎悪で歪んでいた。
白宮の二階に部屋を持つメンバーが、静々と螺旋階段を上っていく。ナーギニーもぼんやりとしながらその後に続いたが、数段先で一人の少女が立ち止まったのは目に入らなかった。危うく背中にぶつかりそうになるも、何とか踏みとどまり慌てて謝罪をする。そのまま後ろへバランスを崩していたら、階下まで転げ落ちるところだったに違いない。
「す、すみません!」
深く頭を下げたナーギニーは、上から降り注がれた耳を疑うような残酷な台詞に、咄嗟に顔を上げていた。
「落ちてくれたら、良かったのに」
「え……」
真上の唇は嘲笑うように片側だけが吊り上がっていた。そそくさと走り去る残像が眼に焼きつく。ナーギニーはしばらく階段の手すりに寄りかかって、時が心を落ち着かせてくれるのを待つことしか出来なかった。
ようやく自分を取り戻したナーギニーは、とぼとぼと自室に戻り寝台の長手に腰を下ろした。きつく握り締めた両手をじっと見つめる。会食の時もテーブルの下では出来得る限りそうしていた。
王の何もかも見通したようないかがわしい視線、青年の正体と彼の抑圧された立ち位置、少女達の容赦ない仕打ち……全てがナーギニーを中心として、暗黒の渦を描いているように思えた。この中からどのように光明を見つけたら良いのか、いや……この中にそもそも光などあるのだろうか? もしも選ばれたなら、その先の生きる希望は何処から求められる? もはや何も見出せそうになく、ひたすら俯いて溜息だけが零れた。
食後はおのおの自由時間を与えられ、宮殿の敷地であれば何処でも立ち入って良いと許可を得ている。が、先程の事件からも、ナーギニーに外へ出ていく勇気は生まれなかった。となれば逃げられるのは夢の中のみで、やがて会食の緊張から疲れが出たのか、少女はそのまま横になり眠りについた。
それから数時間、気が付けば窓から夕陽が差し込んでいた。照明を灯し、退屈凌ぎに壁際のキャビネットを覗く。上半分の硝子戸の中には、幾つかの上品な茶器が飾られ、下半分は二段の引き出しが計四列、その中身を右から順に確かめた。古典文学や聖典の分厚い冊子、誰に宛てるのか質の良い封書と便箋に、それを書く為の筆記用具も揃っている。インド神話の神を描いたカードゲームや、ナーギニーには分からない駒を動かすボードゲームも一揃い用意されていた。けれど最後の引き出しを開いて、ナーギニーの漆黒の瞳は黒真珠の輝きを帯びた。其処には白地の美しい布と、沢山の色に染められた絹糸、そして裁縫道具が小綺麗に纏められていたからだ。
「刺繍……」
少女は柔らかい糸の束を手に取り、嬉しそうに呟いた。けれど彼女に刺繍の作法など教えてくれる人物はいない。シュリー──この発見は彼女との再会を予兆する出来事なのかもしれない──ナーギニーは切なる願いにすがるが如く、一式を胸に抱き締めて、内なる震えをとどまらせた。
陽が暮れて小一時間が経った頃、昨夜と同様に侍女が夕食を運び、独り静かな夕餉となった。しかし昼食を無理矢理詰め込んだ胃は、それを受け入れてはくれなかった。ファンの回る音以外、何物も奏でることのない静謐な空間。あたかも今まで暮らしてきた我が家での「何もさせてもらえない時間」に似ていた。こんな時は何度も繰り返し目通しした本をめくるか、外の砂に煙るタージ=マハルを眺めたものだった。が、今はそのタージに勝るとも劣らない宮殿の一室に閉じ込められ……見える物は尖塔の一つのみだ。
それでもその先にアグラの街では見られなかった、星の瞬きが溢れているに違いない。ナーギニーは闇夜のバルコニーに身を移した。暗がりにぼおっと光る白大理石の欄干。その上に手を添えて、東南の景色を黒々と遮る尖塔の上を見上げてみた。
濃紺色の夜空に小さな小さな光の粒が煌いている。それはまるで撒き散らした砂粒のように、一面に幾千幾万と存在していた。が、其処から少し視線を戻した尖塔の上部に、星よりも大きな光源を見つけた。光は定期的に明滅を繰り返し、まるでナーギニーに気付いてくれと訴えているようだった。
少女は言葉もなく、ただひたすらその意図を読み取ろうと集中する。意識を奪われていたそんな数秒の間に、するりと何かが自分の指の上を掠めた気がした。今朝遭遇したリスの長い尾だろうか? けれどこんな夜に動ける動物なのか? おもむろに視線を落とし、闇に眼を凝らす。其処には──愛らしいリスなどではなく、頭部をそそり立て、頚部のフードを立派に広げた──インドコブラが佇んでいた。
「……きゃ」
ナーギニーは思わず僅かに声を上げてしまった。これ以上刺激を与えてはいけないと、両手で唇を覆い一歩を下がる。コブラは細い舌をちろちろと出しながら少女を見据えていた。襲う瞬間を見極めているのか、身じろぎもせずに鎌首をもたげていた。
けれどコブラから聞こえてきたのは、シュウシュウと獲物を狙う息の音ではなく、れっきとした人間の優しい声だった。
『ごめん、ナーギニー。夜に動かせる動物が、コブラしかいなかったんだ』
「え……?」
と、同時に先程視線を向けていた光の点滅が止まり、ナーギニーの顔を微かに照らした。
『その子の名前は蛇の王。見た目は怖いけど、大人しいから心配しないで』
「シ……イシャーナ様?」
ナーギニーは青年の名を呼び、目の前のコブラと光の先を、驚きの眼で交互に見返す。と、明かりはナーギニーから尖塔上部のバルコニーに移り、其処に立ったイシャーナらしき影を灯した。
『良かった。君の声も良く聞こえる。ナーガラージャにちょっとした細工を持たせていてね……少しの時間、大丈夫?』
ナーギニーは落ち着いたイシャーナの声に、心の安寧を取り戻した。コブラは依然体勢を変えないまま、少女を真っ直ぐ見つめているが、良く見ればそのつぶらな黒い瞳も、リスのそれと変わらぬように感じられた。
「はい……大丈夫です」
イシャーナもまたナーギニーの穏やかな返答に安堵したようだ。小さく吐息が聞こえた後に少しだけ間が空いて……まず彼は謝罪と哀悼の意を述べた。
『ナーギニー……宴の席では大変失礼をしてしまいました。今まで自分の素性を隠してきたことも含め、深くお詫びを申し上げます。それから……シュリーという同行の少女は君の友人だったと思うのだけど……今回のこと、心から……ご冥福をお祈り致します』
「あ……」
思わずナーギニーの唇から驚きと感嘆を含んだ一言が流れ落ちた。ナーガラージャの許から聞こえてくるイシャーナの言葉には、芯からの贖罪の気持ちとシュリーへの偽りない祈りが捧げられていたからだ。
そしてあの墓廟で初めて出逢った夜、自分が小さく呟いたシュリーの名を覚えていてくれたこと──それこそがシュリーの存在を夢でも幻でもなかったのだと証明してくれているようで、孤独に苛まれていた少女にはたまらなく嬉しく思えた。
「温かなお心遣いを誠にありがとうございます、イシャーナ様。あの……再びお目に掛かれましたこと……」
──幸せに存じます。
ナーギニーは込み上げる喜びを伝えたかった。しかしその時何かがそれを阻んだ。もし自分の想いをぶつけてしまったら──もう引き返せないのかもしれない……そのような不安が恐怖となり、彼女の言葉を刹那に途切れさせていた──。




