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「随分掛かったではないか。乾杯は済ませてしまったぞ」


 しばらく視線は一切青年(シヴァ)(おもて)から離れることは出来なかった。が、その音声と共に全ての時が動き出す。シャニの台詞(セリフ)──シヴァに向けられた不機嫌そうな声色。


 ──あ……──


 零れ落ちた吐息はほんの少し音を立てていた。それはシャニに気付かれはしなかっただろうか? 慌ててシヴァから逸らした瞳は、シャニの顔色を確かめられるほど振り向かせるにはためらわれた。ナーギニーはただ俯いて、テーブルの上のスープを見下ろしてしまった。


「失礼を致しました。母が急に発作を起こしまして……」


 シヴァも一瞬ナーギニーに視線を合わせたものの、すぐさまシャニへの謝罪と理由を述べながら、右手一番奥──シャニの斜め左横となるナーギニーの(はす)向かいに腰を下ろした。


「マーヤーが? 先日のアグラへの旅が影響したか……後で見舞おう」(註1)


「お願い致します……」


 僅かに視界に入る彼の上衣は、光沢のある淡いベージュのシルクだった。遠目で見えた白いターバンは、今回は髪をきっちり隠していて、いつになく精悍(せいかん)な装いに感じられた。


「さて……お嬢様方、大変無礼をしてしまったが……紹介をしよう」


 突然現れた美しい青年に、少女達は多少の興味は(いだ)いたものの、さすがに王を目の前に色めき立つことなど有り得なかった。そんな沈黙をシャニが打ち破る。どうして寵姫(ちょうき)候補の少女達の中へシヴァが招かれたのか? 彼は一体何者なのか──心臓の高鳴りが徐々に大きくなり、雑音が思考を妨害する。ナーギニーは見えない膝の上で両手を握り締め、シャニが再び口を開くのを待ち侘びた。


「名はイシャーナという……まだまだ不肖者でお恥ずかしいが──私の『息子』だ」


 再び時が止まった気がした。目線の先のスープが揺らぐ。それは驚いた少女達がテーブルを震わせたのか、自分の(まなこ)が潤んだのか……ナーギニーには判断出来なかった。


「さて……食事を始めよう」


 その開始の声の前に、シヴァが──イシャーナが立ち上がり、少女達に優雅な礼を捧げたのが(かす)かに目に入った。再び腰掛け、シャニのリードの(もと)、騒めきを含んだままの(なご)やかな昼食が始まった。


 イシャーナ=クルーラローチャナ。シャニは自分の『息子』と言った。それは真実なのだろうか? 二人に共通するものなど、何一つ見出すことは出来ない。


 タイミングを見計らって、下げられては供される贅を尽くした料理の数々、時折話題を提供しては、少女達の頬に笑みを生み出すシャニの戯言(たわごと)。背後と食卓の先をクルクルと巡る給仕達の姿は、まるでカラクリ人形のようだ。全てが現実でありながら、さながらフィルターの向こう側で行なわれているかの如く、(おぼろ)な映像に思えてしまう。けれど自分の右手が繰り返し口へ運ぶ欠片(カケラ)は、明らかに高級な薫りと味わいをもたらしていた。


 結局イシャーナもナーギニーも食事が一通り終わるまで、一度も言葉を発することはなく、一度も目を合わせることはなかった。特にナーギニーは──息苦しいほど胸の詰まる想いの喉元に力を込め、必死になって食を進めた。皆に合わせることに集中しなければ、動揺に気付かれてしまいかねないと──。


「食事はお口に合われたかな?」


 全ての料理が片付けられると共に、取って代わられた幾種類ものカットフルーツ。断面の輝きはあたかも宝石のように美しく、(ほの)かな香りが芳醇さを示していた。それらを目前にして、全ての少女が笑顔で頷く。


「イシャーナ、良く見なさい。これほど愛らしい女性達が、集う光景はなかなかあるまい」


 シャニは機嫌を宜しくしたのか、満足の笑みを湛えて息子に自慢をした。途端向けられた褒め言葉に、姿勢を正した少女達の表情は誇らしかった。


「はい。このような場に同席させていただいたことを光栄に思います」


 反面イシャーナの声には僅かに戸惑いの兆しが見えた。普段はこういった席に招かれていないのかもしれない。


「彼女達は皆、厳しい旅を制した幸運の持ち主だ。お嬢様方も気付かれたかな? 数席空きがあるだろう……それは辿り着けなかった不運な姫君の分なのだよ。それに比べて此処に坐した各々方は……つまり運をも味方につける女神のような存在といえる」


 シャニは不敵に微笑み、あの祝杯と同じ紅い液体を呑み干した。


 確かにナーギニーとシャニの間の一席の他にも、ちらほらと埋められていない席が目立つ。少女達はそれらをキョロキョロと見回しながら、更なる誇りを我が身に感じた。──しかし。


「ナーギニー」


 いきなり呼ばれた名に、ナーギニー本人は心臓が止まりそうなほど驚いた。刹那集中する、妬みを含んだ美姫達の瞳。


「君はこの……私達の間にある空席に座る筈だった。君が座っているのはシュリーの席だ。彼女はどうしたのかね?」


「は……はい」


 蛇に睨まれた蛙のように、ナーギニーは身動きの出来ぬまま返事をした。席順はきっとあの許可証を元に決められたのだと気付かされる。だからこそ『シュリーとして入国した』ナーギニーの席は此処だったのだ。


「旅の途中……ドールに襲われて、しまいました……」


 か細い声を何とか紡ぎ説明をした。同時に心から溢れ出すあの襲撃の惨劇とシュリーへの銃撃。かろうじて涙は押し留めたが、語尾の震えは止まらなかった。


「おお、恐ろしい目に遭われたのだね、ナーギニー。シュリーには残念なことをしたが、君が救われたのはやはり強運を身に秘めているからだ……が、その傷ついた心を慰めて差し上げたい」


 大袈裟に抑揚をつけたシャニの台詞は、一瞬彼女を萎縮させた。その言葉にはシュリーへの謝罪も(あわれ)みもなく、ただナーギニーを取り込む為だけに利用されたに思えた。極力シャニの姿を視界から遠ざけたが、衝撃で強張(こわば)った眼の端に暗い影が貼り付いた。


「伴に旅した仲間を想う姫とは何と麗しいものか。イシャーナ、そう思うだろう?」


「はい……」


 突然投げられた同意に、消極的な応えを返すイシャーナ。


「……お前ももう二十(はたち)を越えた。そろそろ伴侶を選びたいのではないかと思うてな……この(うたげ)へ呼んだのだ。此処にお前の心を射止めた女性が居るのならば、私の姫となる女性と同等の待遇を与えてやろう……言ってみるがいい」


「……」


 このシャニの質問には少女達もナーギニーも、そしてイシャーナさえもが驚きを示した。……が、イシャーナはしばし口を閉ざし、誰も名指しをすることはなかった。


「有難き幸せです、父上。ですが……皆様同等にお美しく比べようもないというもの……わたくしなどに選べる権利はございません」


 ナーギニーは他の少女が選ばれなかったことに安堵し、と同時にそう答えた彼の声が、苦しみを含んでいることを察した。


「たった一人も選べぬとは、お前は意気地(いくじ)がないのだな。もちろん……お前が選んだ女性こそを、私が(めと)るつもりだと気付いたからであろう? 勘の鋭い奴だ……!」


 シャニはそうほくそ笑み高らかに笑った。耐え忍ぶように俯き沈黙するイシャーナを、したたかに一瞥(いちべつ)する。


 そして次に移された王の眼差しは、絡め取るように陰湿に……驚愕したナーギニーを見つめていた──。




[註1]イシャーナの母マーヤー:インドで母のイメージは? と考えた結果、仏教の開祖 釈迦ゴータマ・シッダールタの母親マーヤー(マヤ)に思い到り戴いてみました。




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