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[再会]

 麗しい朝がナーギニーを出迎えていた。


 細長い三枚の窓から差し込んだ煌めく光は、まるで金粉を混ぜ込んだ流砂のようだ。それはただ静かに室内を揺らめいていたが、ナーギニーを包み込むシルクの衣擦(きぬず)れと響き合い、さらさらと音色(まぼろし)を奏でながら愉しそうに舞い散り出した。


 そんな音楽に呼び起こされたのか、ナーギニーはふと目を覚ました。導かれるように窓辺に立ち、温かな朝陽のシャワーを浴びる。昨夜の夕食の後、寝台に置かれた寝着に気付き、湯浴みで清らかに戻った肌をその(ころも)でくるんだ。柔らかく清涼感のある素材は、彼女の疲れを芯まで癒し、やがて爽快感に満たされたその身を現実へと(いざな)った。


 バルコニーの向こうで何か小さな物が行ったり来たりしている。


 ナーギニーは好奇心に背中を押され、硝子(ガラス)戸の向こうの囲われた空間に足を踏み出した。涼やかな風が艶のある黒髪を背後へ流す。大理石の滑らかな手すりへ恐る恐る近付き、じっと声を出すことも身じろぎすることも我慢して、欄干の隙間をすばやくすり抜ける茶色い生き物に目を見張る。それは過去のインドでは良く見かけられた尾の長いシマリスだった。が、少女はそれを書物でも見たことがない。(註1)


 人の気配に気付いたのだろう、リスが急に立ち止まり、愛らしい瞳を向けた。が、合わされた視線にナーギニーの大きな瞳は、困ったように瞬いてしまう。何を食べるのだろう? 夕食の残りに何か分け与えられる物があっただろうか? そう考えを巡らし脳裏に記憶を浮かべてみたが、途端昨夜と同じく二度のノックが聞こえ、リスはあっという間に壁を伝って逃げてしまった。


「あ……」


 驚きと残念な気持ちが声を洩らさせたが、少女は我に返り、慌てて部屋に戻るや応答した。


 昨日と同様二人の女性が入室し、今度は朝食を整える。再度昼食会についての予定を述べたが、今回はそれと共に会食の為の衣装を手渡した。


「ありがとう、ございます……」


 少し遠慮がちなお礼と表情で受け取ったのは、淡いオレンジ色のサリーであった。(すべら)かな絹の地に同色の繊細な刺繍が施されている。この色を与えられたのは、夕陽の如く舞い踊るナーギニーに、シャニが見惚れた所為(せい)かもしれない。


 礼に応えるよう小さく会釈を返した女性達は、それ以上何も話すことなく退室をした。が、その時昨夜の残した食事ごとワゴンを回収されてしまい、少女は今後の対処に悩んでしまった。この朝食もきっと昼食会の間に片付けられてしまうのだろう。けれど食事を隠しておく場所など何処にもない──ならば他に方法は?


 それでもナーギニーは唯一の光明を見つけ出した。シュリーと約束したのは「真夜中のみの密会」だ。もしこのまま夕食は翌朝に回収されるのであれば、せめてそれだけでもシュリーに提供することが出来る──その希望を抱いて、もちろん突然日中に再会出来ることも願い、昨日のように食卓の半分だけを胃に収めることにした。


 それから朝の湯浴みを済ませ、自宅でも欠かさず行なっていたシヴァ神への祈りを捧げた。身支度をしている内に、もう時刻は会食の間近となっている。約束の三十分前に迎えにくると告げられた通り、きっかりその時間に三度目のノックが響き渡った。開かれた扉に今回は彼女らではなく、夕焼け色のサリーに身を飾られたナーギニーが近付く。吹き抜けをぐるりと巡る回廊には、色とりどりのサリーを(まと)った美しい少女達が、侍女達に連れられて螺旋階段に集まっていた。


 一番端の部屋の為、ナーギニーは最後尾となった。もしも此処にシュリーが居たら、彼女は隣室であっただろうか? この移動も仲良く並んで楽しい時間となっただろうか? 目の前で黙々と歩く少女達の背中を見つめながら、彼女は胸元の衣の(ひだ)をそっと握り締めた。


 階段を降り、一階の集団と合流する。白宮の正面扉から外へ出された行列は、東から反時計回りに外壁を進み、宮殿の背後──ヤムナ河上に架けられた橋のたもとに導かれた。白大理石の向こうから徐々に現れた黒大理石の王宮が視界を侵略する。空の蒼さも消し去られる程に黒々と輝く漆黒の城は、畏怖すらも伴い見る者を圧倒した。


 白宮を美しく優雅な白鳥に例えるならば、黒宮はあたかも気高く雄々しい黒鳥のようだ。


 橋は見事にその真中で白から黒へと切り替えられていた。


 黒大理石の敷地に踏み込んだ途端、暖かな陽の温度が数度下がった気持ちすらしてしまう。渡りきった黒い基壇の床は素足に冷たく感じられた。


 白宮と同様外壁を巡り、回り込んだ正面の大扉は既に開かれていた。


 が、内部は吹き抜けではなく、人が余裕ですれ違える程度の廊下が一直線に貫かれていた。両端には幾つもの小部屋らしき扉が並んでいる。少女達の一団は案内されるがままに、その通路を奥まで進み、右手の階段を二階まで登った。折り返された階段をもう一階分越えて、先に見えたアーチをくぐれば其処は王宮の屋上であった。


 中央の大きな丸屋根は守られるように、四つの小楼(チャハトリ)に囲まれている。上空の風がそれらをかいくぐりながら、彼女達の髪を悪戯(イタズラ)に巻き上げる。偽物の空は見上げてもずっと遥かまで碧く、眼下を彩る牧草地の緑の海は、匂い立ちそうに鮮やかだった。


 そうして振り向いた南には、白大理石の丸屋根が陽に(さら)されて(まばゆ)く輝いていた。背景は密集する小さな住居の凹凸(おうとつ)だ。見えなくとも路地のあちこちでは、沢山の人々が働いているに違いない。


 屋上に連れてこられた意味はすぐに判明した。二人の侍女が丸屋根に据えられた扉を開く。再び整列した少女達は、沈黙のまま順に中へ消えてゆく。決められた通り最後はナーギニーの番だった。内部は思った以上に広く、天井は丸みを帯びて高く明るい。内壁は黒大理石ではなく、白宮と同様の白大理石であるからだ。


 ところどころに青いタイルが用いられて、神秘的な幾何学模様が描かれていた。そのような白地に青のドームの(もと)、空間を左右に分かつ長いテーブルの先には──『王』が居た。


「全員揃ったようだね」


 ずっと向こうでありながら、耳奥に直接響く低い声。シャニは組んだ両手指の上から、真っ直ぐ前方に現れたナーギニーを、嬉しそうに見つめていた。少女は一瞬捕らえられたように全身が硬直したが、案内の女性に連れられて、シャニから一席を空けられた左手長手の席へ着いた。


「美しきお嬢様方、長く困難な旅を良くぞ制覇し辿り着かれた。本日より六日間、どうぞごゆるりと我が地をご堪能あれ」


 静まり返った室内を、再びの低音が否応なく支配する。と共に掲げられた祝杯に視線は集められ、全ての少女達は魔法に掛けられたかのように手元のグラスを持ち上げていた。


「お嬢様方に多くの幸いが降り注がれんことを」


 乾杯の言葉を発したシャニの分厚い唇に、見る見るうちに吸い込まれていく紅い液体。対して少女達に与えられた琥珀色の液体は、甘く芳醇な香りを漂わせ、(つや)やかで華のある唇を潤した。


 全員がシャニの放つ力強い存在に魅了され、憧憬(しょうけい)(まなこ)を向け微笑んでいた。全員の──いや、ナーギニーを除いた全員の、だ。


 数名の給仕が準備に取りかかろうと少女達の背後に立ち、まずは目の前の器に温かなスープが注がれた。再びシャニの勧める声に促されて、皆がスプーンを手に取ったその時であった。


「遅くなりまして、申し訳ございません」


 入室した扉の外から、ふいに現れる澄んだ声音(こわおと)


 全員の瞳が、そしてナーギニーのまどかな双眸が、映し出した眉目(みめ)麗しきその姿は──




 ──闇夜に月光の恵みを与えてくれた、シヴァと名付けた青年だった──。




[註1]インドのリス:タージ=マハルやアグラ城などでも気軽に見掛けられますが、狂犬病を保菌していることもあるそうなので、ご旅行の際にはお気を付けください。




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