[越夜]
白亜の宮殿は次第に宵闇に溶け、藍色の大気の中へ沈み始めた。しかしその入口は大きな魔獣が餌を狙うかのように、金色の口腔をぽっかりと開けて少女を待ち構えていた。ナーギニーは唇を引き締め、自分を押しやるように一歩を踏み出す。刹那冷たさを含んだ外気が逃げ去り、蜂蜜のようにねっとりとした暖かい空気が、彼女を「捕らえた」とばかりに包み込んだ。煌びやかで贅沢な、貪欲な色と匂いの隠された独占的な空間──。
辺りは静まり返り、人の気配も感じられなかった。が、全ての照明はナーギニーを迎える為だけに輝いていた。円形に広がった吹き抜けの大広間には、其処で舞う少女を愉しむシャニの為に、立派な玉座が設えられている。それを囲うように、均等に据えられた幾重にも続く柱の向こうには、碧い扉が扇状に並び、おそらくその内部には先に到着した妾妃候補者達が留められているものと思われた。
ナーギニーは中央奥の螺旋階段を上がった先、回廊を右手に進んだ一番端の個室へ案内された。正面に最も近い東南の角部屋だ。海を思わせる鮮やかな扉を目前にして、背後の二人に礼を言うべく振り向いたが、仕事はとうに終えたものと、使者達は既に階段を降り始めていた。
一人取り残されたナーギニーは、いつの間にか深い溜息をついていた。それは何に対するものだったのだろう。自分のこと・家族のこと・シュリーのこと・シヴァのこと……? 立ち尽くしたまま何度となく溜息が続く。この幾重にも分かれた静寂には、明日を夢見る何十という美姫が、打ち寄せられるが如く朝を待っている。しかし彼女達の零す溜息は、ナーギニーのそれとは全く異質な物に違いない。幸いが身に降り注ぐその時までの緊張が、震える吐息を洩らさせているに違いなかった。
数回の嘆息の後、特に変化のない状況を諦めるように、少女は銀色に光るドアノブに手を掛けた。開くと共に心の扉もカチッと音を立てたような、不思議な時の流れを感じた。
広大な面積を有するとはいえ、これだけの部屋数を持つともなれば、やはり広さを要求するのは無理というものだが、それでも一人では十分と思われるスペースを誇っていた。
高い天井の真中では三枚羽のファンがゆっくりと回り、閉め切りで少々濁った空気を掻き混ぜている。その真下にはきめ細やかなペルシャ絨毯が敷かれ、一足立ちの丸テーブルに椅子が二脚、奥の壁際には天蓋付きの寝台と可憐な鏡台が置かれている。対する逆側の角には仕切られた小部屋があり、大理石の化粧台と素材の同じバスタブが小綺麗に並べられていた。
壁を彩る淡い植物の紋様、正面に配された縦に長い三枚の窓は、いずれも色硝子や細かな鏡で縁取られ、星のように瞬いている。その外には小さなバルコニーがあり、東南の尖塔が驚くほど近くに見える。真中の一番大きな窓から出入りが可能であったが、ナーギニーはその内側で空を仰いだものの、バルコニーに出てみる元気はなかった。
「シュリー……」
呟くや、何とか押し潰していた孤独が心に溢れ、涙が零れてしまいそうになる。が、その直後、背後の扉から二度のノックが聞こえて、少女の心臓は飛び出しそうなほど打ち震えていた。
「ど……どうぞ」
か細い応えは部屋の外まで聞こえたとは思えなかったが、それを機に二人の中年女性がワゴンを押しながら入室した。温かな食事をテーブルに供し、並べ終わると同時に「明日十二時より、黒宮にてシャニ様を交えての昼食会。それまでは各自、部屋にて休養のこと」と必要な事柄だけを述べてそそくさと退出し、足音も立てずに去ってしまった。
一族の従者は皆、感情を出さないように訓練でもされているのだろうか? 黙々と使命を果たし、最低限の会話のみを交わす姿は異様とも思われる。けれどあの賑やかな祭りの中、あれだけの盛り上がりを見せながら、彼らは歌い踊り騒がなかったのだろうか。今となっては知る由もないのだが。
しかし例外があることも忘れてはいなかった。月夜の墓廟で出逢った青年。彼にははっきりとした「個人」があった。が、此処で舞い踊る寵姫達にも自己は存在するのだろうか? シャニに我が身を選ばれたのち、自分もあの何物も映すことのない虚ろな瞳を持つことになるのではないか? あの青年の笑顔さえも映せない瞳に──では、ならば彼は何故、自分が此処へ来ることを望んだのか──そう思えばこそ、小さな希望の灯火を宿し、少女は見えない未来への不安をどうにか落ち着かせることが出来るのだった。
部屋の中央から漂う夕餉の匂いは、この数日質素な食事を強いられた身を誘惑した。気持ちはもちろんシュリーへの心配に苛まれ、その欲求に反発するが、やはりこの状況で体力を消耗している場合でないことは察せられた。仕方なく席に着き、懐に隠しておいた昼食のアル・パラタを食卓に並べ見下ろす。それは此処までの旅路が幻でないことを明らかに物語っていた。
銃声と共に溢れ出た金色の光。その波から煙のように消えてしまったシュリー。生きているのか、死んでいるのか──もしも銃弾が彼女に怪我を負わせていたら、痛みと傷はシュリーの身体を自由にはさせないだろう。例え無事に逃れていたとしても、ナーギニーの連れていかれた街まではまだ遠い。残されたラクダの脚ではいつ到達出来るものか……更に砂に隠された地下洞穴をどうやって見つけ、あの河をどのようにして渡るのか──考えれば考える程、出口の見えない渦に呑まれてしまう。が、もはや探せる術もない。シュリーからの連絡を待つより他はなかった。
今までの経緯を思い出しつつぼんやりと見渡した食事の中に、この道中力を与えてくれた人参菓子のガジャール・ハロワを見つけた。シュリーの手作りよりも上質の人参を使っているのだろう、鮮やかな橙色をして形も美しい。ナーギニーは懐かしさと共にそれを一口含んでみたが、舌の上で溶ける甘さと味わいは、シュリーの物の方が格段上だ。
「シュリー……」
今一度呟いた名が部屋に微かに反響した。きっとこの打ちひしがれた自分を見たら、シュリーはあっけらかんと笑うのだろう。「心配する暇があるのなら、精をつけてちょうだい、ナーギニー」そう言われた気持ちがして、ナーギニーはスッと背筋を伸ばし、冷たいパラタに手を伸ばした。温かな食事の半分はシュリーの為に──そう決めて、自分の分の食事を済ませたのち、砂にまみれた身を清める。今まで貰ったシュリーからの励ましを反芻しながら、ナーギニーは寝台に身を横たえた。
柔らかい上質の羽毛が、優しいシュリーの笑顔を思い出させる。その和やかなぬくもりを抱いて、少女はいつの間にか事切れたように、深い眠りへ導かれていった──。




