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[到達]

 それから三時間は経ったであろうか。


 ナーギニーはいつの間にか、揺れる小舟に身を任せうたた寝をしていた。


 が、それも岸に着けられた軽い衝撃で打ち破られる。少女は俯かせていた(おもて)をもたげ、静止した船上からくるりと辺りを見渡した。


 自分の右側にはなだらかな地面が見え、それは緩やかな上り坂を描きながら奥まで続いているようだった。先に降りた使者がおもむろにナーギニーの右腕を掴み、降りろと相変わらずの無言で促す。船の揺らぎに翻弄(ほんろう)されたバランス感覚は、上陸と共に次第に落ち着きを取り戻したが、依然(ほの)かな光だけが漂う薄暗がりの中では、なかなか意識は鮮明になれずにいた。


 坂を進むにつれ、目指す先がほんのりと明るさを伴い、「出口」が近付いていることが感じられた。やがて目の前に現れたのは、人一人が通れる程度にくり抜かれた通路と、この洞穴との境界を示す一枚の扉だった。


 見た目も動きも重みを感じさせる金属板を手前に引き開き、まずは一人の使者が内部へ、続けてナーギニーを進ませ、もう一人の使者がその後を追った。


 扉の内側はアーチ状のトンネルで、冷気と湿気を含んでいた。先程までの岩壁ではなく、コンクリートのような強固な雰囲気の素材が辺り一面を取り囲んでいる。良く見れば細かな気泡状の穴が無数に開き、その全てに溢れんばかりの水分が満ちている。四方八方からせせらぎのような水音が響き、ナーギニーは水のある空間とはこれ程までに心地良いものかと、初めての感覚に驚いた。


 数十メートルも進んだだろうか、入口に似た金属扉が再び現れた。前方の使者が同じように引いたが、今度は目を(つむ)りたくなるばかりの(まばゆ)さが視界を塞ぎ、思わず少女は額に手を(かざ)していた。


 朝、いきなり窓辺のカーテンを寄せられたような柔らかな陽差し。暖かく肌を包み込む優しい空気が、ナーギニーの緊張を軽やかに解きほぐしていく。


 『砂の城』とは余りにもお粗末な呼び名だと諭された。其処はまさに楽園であった!


「……あっ……」


 少女は唇から感嘆の溜息を落とし、目の前に広がる雄大な景色につと立ち尽くした。何しろ物資の乏しいこの時代、文献も写真も殆ど朽ち果て、(いにしえ)の華麗な世界を知ることなど難しい。けれどまさに今、忘却の遺産が蜃気楼でも幻影でもなく、自分の目と鼻の先に完璧な造形を成して実在しているのだ。


 砂の城の広大な領域は、透明なドームで覆われているとの噂であった。しかしナーギニーの見上げた天井はそのような限りを見せず、あたかも永遠に続く空間を描いていた。夕暮れ時を演出する見事な太陽が、大画面をそろりそろりと降下していく。甘橙(オレンジ)色に照らされた大地は、背の高い椰子の木が配された大通りを中心に、右側に住宅地・左側に農地と牧草地が整然と並び、それは余りにも秩序立って、むしろ不自然なようにも感じられた。


 空気は()くまでも澄み渡り、砂の臭いなど微塵も感じられない。けれど不思議とアグラの街のような活気も賑わいもなく、広々とした一つの国がただ静かに横たわっている(さま)は、不気味ささえも漂わせていた。


 そして──それらの遠く、視線の真正面でありながら遥か先に『砂の城』は在った。


 ナーギニー達が辿り着いた西側からは、右を向いた白大理石の宮殿と左を望む黒大理石の王宮が、ちょうど背中合わせに見て取れた。両宮は一寸の狂いもなく同じ形状をして、更に一寸の狂いもなくタージ=マハルを模している。まるでムガール王朝の栄華復活を思わせる優美な姿と、シャー・ジャハーンの望んだ愛しい未来が完璧に再現された世界──それがあたかも国家の、否、世界の中枢を集約するかのようにこの地に君臨していた。


 ナーギニーは大通りの端に停められた迎えと同型のジープに乗せられて、今度は城を目指した。半分ほど開かれた窓から、幾らか冷たくなった風が髪を掻き乱す。頬に当たる爽やかな流れは、夕焼けに点火されたような火照(ほて)った心を落ち着かせてくれる心地の良いものであった。


 車輌は城を左手に見て南下し、白大理石の宮殿へ向かっていた。徐々に黒大理石の王宮が白い対宮へと重なり消えてゆく。さながら白宮の背後に潜む影のように──反面、近付くにつれ大きくなる白大理石は、鮮やかな夕陽に照らされ染められ、反射した光が複雑な色彩を醸し出した。そのような美しい背景を楽しむように、檸檬(レモン)色や黄緑の小さな生き物が空を飛び交って見える。が、それらがインコやオウムといった「鳥」であることに気付くには、少女にはそれなりに時間が必要だった。


 夜の戸帳が降り始めている所為(せい)か、街並には数人の人影が見受けられるだけだ。男達が野菜を荷台に乗せ、車を押している横を通り過ぎる。皆不思議と会話もせずに、黙々と歩き続けている。ジープが接触しそうなほど近くに寄っても何の反応も示さず、此処が『砂の城』と呼ばれても仕方のないことが、ナーギニーにも少しずつ分かり始めた気がした。


 十分程度で車輌は宮殿を囲む境界に到着した。其処はまさにアグラの街のタージ=マハルであった。しかし砂漠の中ではなく、以前水を湛えていた「生きた」時代の傑作として、だ。赤砂岩の大楼門を抜けた先には緑色に輝く庭園が広がり、その地を十字に仕切る水路の中心では、噴水から透明な水が滔々(とうとう)と溢れている。墓廟(マウソレウム)ならぬ宮殿の左右には、しっかりとモスク(マスジド)迎賓館(ミフマーン・カーナー)(そび)えていた。


 ナーギニーは楼門の下、再び立ち(すく)んだまま言葉を失っていた。いや、憤慨をしていたのかもしれない。このように水と食料と美しい住居が砂と遮断された快適な世界にありながら、貧乏人には万に一つのチャンスもなければ与えられることは叶わないのだ。そしてそれを手に入れるには努力ではなく、天性の美貌のみが必要とされることも……。


 使者に背中を押され、少女は止まった時を進めるように幾段かの階段を下りた。長いプロムナードを歩き出すや、遠く小さな人工物だった筈の宮殿が、いきなり威圧するようにその存在を顕わにする。背後の黒宮は見事に隠されていたが、おそらくジャハーン帝が望まれた通り、宮殿と王宮を繋ぐ橋が架けられ、その下にはヤムナと呼ばれる人工河が流れているに違いなかった。


 やがて目前と化した宮殿を見上げた。夕闇に包まれた白大理石は、脳裏に遺されたあの夜のタージ=マハルとクロスし、途端胸が高鳴り出した。青年(シヴァ)と出逢ったあの夜──。


 基壇への階段を上り、宮殿の入口を飾るアラビア語のコーランを刻んだ象嵌(ぞうがん)の下、内部へ(いざな)う開放されて「いるべき」空間には、本来ある筈のない大きな扉が立ちはだかっていた。植物を(かたど)った繊細な浮彫細工(レリーフ)と、全てを映してしまいそうに磨き上げられた滑らかな壁面、しかして奇妙な呼び(りん)の音が聞こえる。僅かにきしむ音を立てながら、ゆっくりと迫りくる扉に身を退けたナーギニーは、墓廟の中に違う世界を見た。いや、此処は「墓」などではないのだ。絢爛(けんらん)豪華な宮殿の中身は、シャニの為だけに存在する選ばれし娘達の「後宮(ハーレム)」だった──。




挿絵(By みてみん)




◆以降は2015年に連載していた際の後書きです。


 いつもお付き合いを誠に有難うございます!


 今話文末のタージ=マハルは、無料使用OK画像から頂いた物に、黄昏(たそがれ)らしい加工を施してみました。さすがに綺麗な写真です♪




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