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[流動]

 ナーギニーの入れられた箱状の金属は、実際には遠い過去に良く見掛けられた四輪駆動の車輌であった。


 開かれた扉は後部座席の物で、其処から乗り込んだナーギニーの前方、運転席と助手席には使者の二人が席に着いた。突然足元から振動と重低音が響き、少女は思わず耳を(ふさ)ぎ身を強張(こわば)らせた。いきなり自分を囲う物が一気に砂の丘を登り出した時には、ナーギニーの心臓はあわや止まるかと思う程の驚きを感じていた。


 この時代、砂漠を移動する手段はもはや、ラクダ・馬、時に稀少な象がお目見えする程度で、そのような生き物に頼る他はない。もちろんナーギニーもこの走る箱が生きているとはさすがに思わなかった。砂の城を築いたシャニの世界には、アグラの街には存在しない、とてつもない技術や設備があるのだろう──ナーギニーはただそのように想像して、自身を納得させるしかなかった。


 三人を乗せたジープはやがて、砂だらけの地平線から現れた静かな街へ吸い込まれていった。(いにしえ)から『アラハバード』と呼ばれるその街は、以前であれば中核都市の規模であったが、今は砂の城の衛星基地といったひっそりとした佇まいだ。


 ナーギニーを(いざな)う使者達は、その中心部で一旦車を停めた。一人は小さな店先で給油を始め、もう一人は店の奥へ進み戻ってくると、少女に無言で何かを手渡した。戸惑いながらも受け取ったのは、バナナの葉にくるまれた食糧と、素焼きの器に入れられたぬるいミルクティー(チャイ)。広げてみればパロタと呼ばれる平たいパンの間に、スパイスで炒めたジャガイモ(アル)が挟まれている。シュリーを想えば食欲など出てくる筈もないナーギニーであったが、もし彼女とすぐに合流出来たならば──動ける自分でなくてはならない──そう思えばこそ、かたくなに閉じた唇に力を込め、何とかそれらを喉へ通した。が、再会出来た時のシュリーの為、パロタの半分は残して葉に包み直し、使者達に気付かれぬよう(ふところ)へ隠した。


 再び乗せられ発進したジープは、砂の城のある東方を目指した。中心部から六キロほど進んだ先に、今まで道標(みちしるべ)の役目を果たしてくれたヤムナ河と、あの偉大なるガンガーの合流地点(サンガム)がある。遥か昔であれば、雄大に流れる豊かな水景が広がっていた聖なる地だ。もちろん他と異なることはなく水流は涸れ果て、もはや中洲らしき地形が残されているのみだった。


 ジープはそのサンガムの手前で急にスピードを緩めた。やがてまさしく二つの河が合わされた真中らしき場所で車輌は停められた。エンジンも切られ、ただ静寂だけが辺りを包み込む。使者達は少女を振り向くこともなく、また車外へ降りる気配も見せない。ナーギニーには次に何が起こるのか、何が始まるのか、ただ不安だけが心に広がっていった。


 そうした間もなくにふと砂の流れるようなサラサラとした音が耳奥に響いた。スモークの貼られた暗い窓の外へ目を向ける。その眼下の砂がまるで自分達から逃れるように、放射状に散っていくのが微かに見てとれた。周りには風の吹いている様子もないのに、あたかも砂が命を持ち、自身の意志で逃げ去ろうとしているようだ。その勢いは徐々に大きく激しくなり、飛び退(すさ)る砂は窓の高さまで視界を(はば)んでしまった。いや、砂が吹き上がったのではなく、車輌が沈み始めているのだと少女が気付かされたのは、そう時間の経たない頃であった。大地に呑み込まれるように、ジープごと砂に絡め取られていく三人。どれだけ深く潜ったのだろう、すっかり真っ黒になってしまった窓を見つめ、ナーギニーは数回息を呑んだ。それでも数分の内に車窓は薄っすらと光を取り戻し、座席の下から着地を示す僅かな振動が感じられた。


 運転席の使者がおもむろにエンジンを掛け、車輌は後ろ向きになだらかな斜面を降りた。下がるにつれ、闇に(まと)われていたフロントガラスから、凝らせば判る程度の光景が広がっていく。其処はセピア色に染められた地下深くの洞窟だった。再び停まった車輌から降ろされて、すっと吸い込んだ涼しい空気は、今までに感じたことのない十分な水の()を含んでいた。


 使者達の眼は正面に立つナーギニーの真後ろを見据え、その方向へ進むべく彼女の両端を音もなく通り過ぎた。二人の影に引きずられるように、ゆっくりと自分の背後へ振り返る。大きな瞳が捉えた物は、永遠に続きそうな洞穴の闇と、天井を荘厳に飾る鍾乳石の芸術品、そして足元の延長上に、初めて見る細く長い『河』が伸びていた。


「あ……──」


 ナーギニーは思わず小さな声を洩らした。


 せせらぎは緩やかな流れを帯び、視線の先へ続いている。自宅で与えられた沐浴の飛沫(しぶき)とも、シヴァ神へ捧げた椀の水音とも違う麗しい調べ。時々長く垂れた鍾乳石からひたひたと(しずく)が落ち、洞穴の空間に神聖な響きを奏でた。水の織りなす二重奏は、ナーギニーの心の(ひだ)に浸透し、その緊張を優しく柔らかくほどいていった。


 このサンガムと呼ばれた河の合流には、ガンガーとヤムナの他にもう一つ、『サラスヴァティー』という地下水脈の存在が、(まこと)しやかに伝えられていた時代があった。が、その実在は()うの昔に確認され、やがて事実はこの街を更なる高みに上げ、(とうと)い地として(あが)められ(たてまつ)られる基因となった。ヒンドゥの数多(あまた)の祈りは地上のニ大河(ガンガーとヤムナ)を救うことは出来なかったが、地下に横たわる河の女神──音楽の神サラスヴァティーには、美しい唄となり届いたのかもしれない。


 使者は左脇の川岸に繋がれた(もやい)を解き、一艘の木船を引き寄せてきた。素っ気なくこれに乗れと手招きをする。幅は狭いがそれなりに長さのあるその船首と船尾に各々が乗り、ナーギニーは中央へ座らされた。しかして長尺のオールをゆっくりと押し出し、船は下流へと進み始めた。


 少女は軽く首を(かし)げ、水面(みなも)に薄っすらと映る自分の姿を見下ろした。恐る恐る差し伸べたかよわき指先が、膨大な水を内包するその膜を破り、水紋という「影響」を少なからず与えた瞬間を知る。冷たい水はまるで生き物のようだった。まるで……此処へ導くが如く自分達を沈めた砂のように。


 砂塵に隠された地下空洞への入口と、城へ(いざな)う長い河。シュリーはこの街に辿り着き、この「秘密の扉」を見つけ、いつか砂の城へ到ることが出来るのだろうか? いつか……自分が城に留められている間に。


 何処からか零れ入る微かな光の筋が、鍾乳洞のドレープと細かな水泡(みなわ)をほんのりと照らす。水達の作り出すあたかも神秘的な百弦琴(サントゥール)の音色に包まれて、ナーギニーは瞼を閉じ、両掌を合わせ静かに女神に祈りを捧げた。



 ──どうか……どうか、シュリーを無事に届けてくださいますように……──。




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