[許可]
それから二時間後。くすんだインディゴ・ブルーの空と、榛色の大地のぶつかる地平線の正面、何物も存在しなかった視界についに──何かが出現した。
「シュ、シュリー……」
ナーギニーはずっと遥かな黒い点を見据えたまま、手綱を引き締めラクダの脚を止めた。弱々しい声でシュリーを呼んだのは、ドールと遭遇した時の恐怖を思い出した所為かもしれない。
「……とうとう辿り着いたのね」
けれどその声とラクダの静止で目覚めたシュリーは、落ち着いた低い声で答えを導いた。二つの谷が合わさる浅いすり鉢状の地形には、砂の城からの使者が待っていた。
シュリーはナーギニーの手から手綱を受け取り、ラクダに前進を促した。ゆっくりと大きくなる黒い点は、次第に細部を明らかにさせたが、こちらに気付いているのかいないのか、特に動きは見せなかった。
金属らしき四角い箱の前には、二人の男が佇んでいた。やがてその面がこちらに向けられていることも見てとれたので、二人の少女と二頭のラクダが近付いていることは把握しているようだ。男達の格好は砂の城の者と分かる白いマントを身に着けている。が、その顔はターバンの裾をグルグルと巻き付け、表情は目元のみしか読み取れない。更にその手が胸の高さにまで掲げる物は、おそらく銃身の長いライフルのような武器だった。
銃口は依然天へ向けられているが、それを認めた少女達の緊張は高まっていった。手前十メートル程でシュリーはラクダを止め、自身とナーギニーの身を大地に降ろした。自分の荷を肩に掛け、沈黙するナーギニーの左手を取る。ギュッと握り締め、合わせた視線と共に──「さ、行きましょ」──そう言ったシュリーの緊迫が、さっとナーギニーの瞳に伝染った。
ナーギニーは無言で頷き、深い息を吐きながら一度瞼を閉じた。これから一生を決める一週間が始まるのだ。
お互いの手を繋いだままゆっくりとゆっくりと、力強く砂の地面を踏み締める。けれどそれが使者に到達する前に、二つの銃口が少女達に向けられ、二人の使者の声が同時に響いた。
「「通行証を」」
感情の見当たらない文言は、少女達の歩みを途端に止めた。
通行証とはシャニ直筆の入域許可証である。二人は祭りの最終日、入賞祝いの言葉を述べられた際に直接与えられた。これがなければ砂の城直轄地には入れない。慌てて荷に突っ込んだシュリーの手はしかし、その通行証に触れた瞬間戦慄した。
「ナーギニー……あなた……」
ハッと我に返った顔は既に血の気が引いている。そしてそれは目の前のナーギニーも同じだった。立ち尽くし、両手を震える唇に添わせたナーギニーの困惑の瞳は彩りを失っていた。
「私……自分の荷物の中に……私、どうしたら……」
「落ち着いて、ナーギニー。きっと良い方法があるわ」
僅かに使者達へ背中を向け、自分の通行証をそっと取り出したシュリーは、薄い羊皮紙のそれを見下ろし考えを巡らせた。ややあってクルクルと丸め、少女のたおやかな手に無理矢理握らせる。ナーギニーはその行為に益々顔を蒼褪めさせたが、シュリーの表情はもう穏やかなものに戻っていた。
「いいこと思いついたわ。こうしましょ。まず……通行証にはわたしの名前が載っているだけだから、あなたはわたしの振りをすればいい。そしてわたしは──」
次の句を継ぐ前に、ナーギニーは何を語られるのか理解していた。不安に駆られ涙顔に崩れた少女は、「もう言わないで」とすがるように、思わずシュリーにしがみついた。シュリーは柔らかく受け止めて、優しく涙を拭ってやったが、再び淡々とした調子で続きを話し始める。
「……わたしは、とりあえずこの場は引き下がるわ。お願い、泣かないで。あなたがいかに「わたし」になりきれるかで、わたしの運命も決まるのよ──って、そんな大袈裟なことでもないかもしれないけれど。そう思えば頑張れるでしょ? 代わりにあのマントを貸してちょうだい。大丈夫よ。上手くやって、必ず潜り込んでみせるから。……そう、いい子ね」
必死に涙を堪え頷くナーギニーへ、シュリーは慈しみの眼差しを向けた。矢継ぎ早にこれからやるべきことを伝える。
一、「シュリー」としてシュリーと別れ、迅速に入城すること。
二、シャニとの面会が済んでからはナーギニーに戻り、シュリーについて訊ねられた際には「ドールに襲われてしまった」と告げること。
三、城内で再会を果たしても決して他言はせず、真夜中のみ密会すること。
「通行証なんて入城する為だけで、あとはただの紙っぺらよ。此処までの長い旅、しっかりやってこられたのだから大丈夫。それじゃ行ってちょうだい」
落ち着きを取り戻したナーギニーは、それでもまだ揺らぎの止まらない手で懐からマントを取り出した。シュリーはそれを自分の荷へさっと移し、少女の細い背を撫でた。使者へ向け彼女を押し出したシュリーは、あたかもナーギニーがシュリーであるかのように見せかけ、背後につき従う。眼前で通行証が広げられ、使者が確認と同時に銃口を地へ下げたので、低姿勢を保ったまま今までの経緯を語り出した。
「実はこちら様の御一行、ドールに襲われまして、そんな矢先に通りすがったわたくしめが、このお嬢様のみお助けすることが出来たのでございます。残念ながら他の方々は喰い殺されてしまわれました。厚かましくも此処まで案内をさせていただきましたが……わたくしめの役目は終えましたので、これにて失礼を致します」
と丁重な言葉で嘯いて、深く一礼をし去ろうとした。
「大変お世話に……なりました」
ナーギニーも何とか会話を取り繕おうと、掠れた声で別れの挨拶を交わす。二人の使者は「シュリーであるナーギニー」を引き取り、後ろの『箱』へ促した。が、去りゆくシュリーの遠くなる姿へ再び銃を向け、刹那ナーギニーの叫び声と鋭い銃声が木霊した。
「危ないっっ!!」
けれどその声と音に反応し、振り向いたシュリーの顔も身体も、突如溢れ出た金色の光に閉ざされてしまった。眩しさに思わず瞑った瞳が、慌てたように瞬いて辺りを見回す。やっと視界が機能した時にはもう、シュリーの姿は跡形もなく消えていた。
「あ……あっ……!」
ナーギニーの全身を、この世の物とは思えない程の深い悲しみが一気に流れ落ちていった。意識は朦朧と彷徨い、地平線の一文字が蝶の羽の如くはためき始める。砂に膝を突き、四つん這いに支える両手を見つめたが、彼女は気を失ったりはしなかった。潜り込もうとする心の中で、幽かにシュリーの声を聞いたからだ。
──心配しないで。わたしは生きている──。
──シュリー……?
後ろから二の腕を掴まれ、半ば力づくで立たされたナーギニーは、正気を取り戻しキッと使者を睨みつけた。生まれて初めて他人へ見せた「抵抗」の意志表示であった。
──シュリー、必ず生きていてね。
再び促された金属板の扉へ進む。箱状のその中はひんやりとして薄暗かったが、シュリーの無事を信じる少女の眼は、闇に侵されることのない力強い光を放っていた──。




