[成長]
翌朝──。
まるで揺りかごに揺られるような心地良い安らぎの中、少女が目を覚ましたのは、未だ太陽が地平線から顔を出さない薄暗がりの時刻であった。
僅かに開かれた瞳の奥に刻まれた物は、美しい蒼の世界だった。遥か昔失われてしまった偉大なる海を思わせる──実際には闇から抜け出そうとする砂の海に他ならないが、風が紋様を描く砂の波からは、真の波音が聞こえてきそうな荘厳な姿が其処にあった。
ラクダは相変わらず何事もなかったように、砂の城へ向けて歩き続けている。但し存在するのはナーギニーを乗せた一頭と、シュリーを乗せている筈のもう一頭のみで、その背にはシュリーの小さな荷が積まれているだけだった。
「大丈夫? ナーギニー」
昨日までと同じ心配を含んだ声は、ラクダの前方から聞こえてきた。おもむろに身を起こし見下ろした手綱の先には、振り返り見上げるシュリーがいる。
「シュリー……もう大丈夫なの? 一体どうなったの?」
追い風を気持ち良さそうに受け流し、絡みつく砂を軽快に跳ね飛ばしながら、シュリーはナーギニーの様子に安堵して、ゆっくりと前方に顔を戻した。いつの間にか男物の白いクルタとピジャマを身に着け、髪はうなじで一つ縛りにしている。さながらラクダに乗った姫を案内する従者のようだ。
「危ないところだったわ……でもドールに襲われる一歩手前で、大きな竜巻が起こったのよ! みんなすっ飛んでいっちゃったわ」
向こうを向いたまま元気に答えたシュリーは、昇り始めた太陽の眩しさに手を翳したが、そのままナーギニーを振り返ることはなかった。
──竜巻……? あの大きな黒い物が? シュリー、嘘をついているのかしら? それとも……──
問いかけたかったが、もはやあれが現実であったのか、それとも夢であったのか、ナーギニーには判別がつかない程に不透明な記憶となっていた。ましてやあんなに大きな生き物が存在して、シュリーに呼ばれて出てきたなどとは到底思えない。きっと夢であったのだ──ナーギニーはそう信じることにして、同じく光の地平線に目を細めた。
「この分ではちょっと時間までに辿り着かないかもしれないわね……途中少しラクダを走らせることになるかもしれないから、今の内に良く休んでおいてね、ナーギニー。あ、お腹空いたでしょ? わたしの鞄の中にドライフルーツが入っているから、良かったら食べて。それから……ごめんなさい。あなたの荷物は助けてあげられなくて……」
シュリーはようやくナーギニーへ向け言葉を発したが、明るく努めていた声色が重くくぐもったのは、きっとあのマントの紛失を意味する謝罪なのだと気付かされた。けれどナーギニーは失望することなどなく、おもむろに自分の上着の合わせに手を差し入れ、懐から見覚えのある包みを取り出した。──あの受賞の後、シュリーが渡してくれたマントを包む布地だった。
「……! あら、まぁ……ナーギニーったら、肌身離さず隠していたの!? 心配させて~もうっ!」
「か、隠していたつもりじゃ……夜はとても寒かったので、これを抱えたらちょうど暖かくて……」
驚きに目を丸くしたシュリーは、恥ずかしそうに言い訳をしたナーギニーへ、ぷうっとふくれっ面をしてみせた。お次にキッと睨みつける。そんな目まぐるしい表情に、ナーギニーはこらえ切れず吹き出して、途端二人は笑い転げた。お互い大切な物は何も失わずに済んだのだ。何を嘆くことがあろう。
荷を乗せたラクダによじ登ったシュリーは、その中身から数切れの乾燥したバナナスライスを取り出した。十分とは言えずとも二人の心身が満たされた頃には、既に太陽は目の前に顔を出していた。
時折小休止を入れながら、シュリーは熱波渦巻く砂の大地を、二頭のラクダを急かし進ませた。次に現れるベートワー川との合流地点が、砂の城直轄地の境界となる。遅くとも明日の正午までに辿り着かねば、迎えの使者と会うことは叶わない。せめてその時刻まで──シュリーはそんな焦燥を隠した淡い微笑で、ナーギニーを励まし支え続けた。
食料はシュリーの持つドライフルーツに質素なビスケット、水はラクダにぶら下げた幾つかの革袋のみであった。これが尽きた数時間後に待つものは、『死』以外の何物でもない。もしも使者と合流出来なければ、調達する為の街を探さねばならない。が、一番近いファテープルの街までも五十キロは離れている。二人は例え何を持ってしても、待ち合わせ場所に辿り着かねばならなかった。
夕食もそこそこに一晩中ラクダを歩かせ、時には走らせ道を急いだ。昨夜のドールの襲来は彼女達の心の芯に、闇夜の恐怖を深く刻みつけていた。
「あ……ごめんなさい。私ばかり、眠ってしまって……」
三回目の夜を越え、再び朝陽が少女の瞼を照らした頃、いつの間にかラクダの上で眠ってしまったナーギニーは、慌てて背筋に力を込めた。
「大丈夫よ、ナーギニー。夜通し起きていたのだから当たり前だわ。それより良く此処まで頑張ってくれて……もうすぐだから少し眠ってちょうだい」
さすがにナーギニーのラクダに乗る様も、随分と格好がついていた。が、更に駱上で眠れる程になったことには、シュリーもいささか感心した。
「ううん、今度はシュリーが眠っていて。この手綱を握っていれば良いのでしょ? ちゃんとやってみせるから、シュリーもどうか休んでいて」
そう言いながら自分のラクダをシュリーに寄せ、二頭を操る手綱に左手を伸ばす。こんな芸当まで出来るようになったことには驚いたが、反面安心して全てを任せる気にもなれた。
「ありがとう、ナーギニー。それじゃほんのちょっと眠らせてもらうわね。何か遭ったらすぐに起こしてちょうだい」
「ほんのちょっとだなんて心配しないで。……シュリー、おやすみなさい」
自信を乗せたナーギニーの言葉には、もはや「大丈夫? ナーギニー」という心配は無用に思われた。
「うん……おやすみなさい、ナーギニー」
ふさふさの柔らかい毛で覆われた眼下の瘤は、とても肌触りの良い枕のようだ。それに頬を預けたシュリーの瞳は、もうまどろむように潤んでいた──。




