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[少女]

 こんな砂だらけの荒廃した時代においても、人々は死に、また生まれるという平凡なサイクルを幾度となく重ね合わせ、自らの子孫を絶やさぬよう、生理的な行ないだけは連ねることをやめなかった。


 十七年前──。


 砂による影響の極めて少ない、(いにしえ)より『アグラ』と呼ばれた街の商人(ヴァイシャ)の家に、その少女は生まれた。(註1)


 祖母、父、母、兄、そして後に生まれることとなる妹と、その少女の六人から成る家族。身体の弱りきった産後間もない母親は、その子が娘であることを知って、どれほど嘆き悲しみ悔しがったのかしれない。数百年、数千年の昔から「歓喜の権化たる息子は、悲哀の塊たる娘に遙かに勝る」のだ《岩波文庫『カター・サリット・サーガラ』より》。残念ながら女は利益をもたらさない、手間の掛かるだけの産物でしかなかった。


「今なら殺してしまうことも出来る。今なら間に合う」


 年老いた産婆に慰められながらも、彼女は一つの決意をしていた。




 この娘を、世界一の美女(モハーナ)に仕立てようと。




 それから十七年の歳月が流れ、母親が望んだ通り少女は美しく育った。


 崩壊寸前の家を捨て、新しくもいささか頼りのない煉瓦の家は、快適とは程遠い様相に思えたが、住居さえも持てず洞穴に巣食う不可触民(ダリット)に比べれば、民衆の暮らしは何倍も恵まれている。その中でも彼女は特別な生活を巡らし、周囲からの羨望の的となっていた。(註2)


 十五年前より変化を帯びることなく続けられてきた彼女の一日は、貴重な水をたっぷり使い、美しい漆黒の髪と白い肌を清めることから始まる。


 少女の名は女性の中でも素晴らしく、名付けることすら気の引けてしまうほど細やかで麗しくあったが、黒曜石よりも黒く、サリーのように長い、編めばどんなに妖しい蛇でも敵わない髪の所為(せい)で、いつしか美蛇神(ナーギニー)と呼ばれ、そして彼女の本来の名は誰がそうする訳でもなく、英国風の洋館で占いを続ける名付け親のバラモンでさえも忘れ、魔術か呪いのように忘れ去られた。


 湯浴(ゆあ)みの後、少女は軽い朝食を取った。二枚のチャパティに、質素な野菜のカリーとスパイスの効いたミルクティ(チャイ)。全て母親のお手製だ。


 もはや作物の育くまれる土壌を失った大地だが、少数の資産家を地主とするカプセル式の農園に、農民(シュードラ)が従事することによって、何とか食料の自給は保たれている。高値であることは否めないが、地中深くに眠る水脈から漂う、(かす)かな水の()を求め芽吹いた木々の、干からびた果実など食べられたものではない。


 食後は片付けもさせてもらえぬまま促され、部屋の片隅で一時間にも及ぶ神への祈りを捧げる。印刷技術さえ捨て去られた今、家宝とされる宗教画は既に何十もの年を過ぎ去っていた。(かす)れぼやけた勇壮なシヴァ神の前に坐し、椀に入った水を(すく)っては神へと祈る。


 何を? ──何物でもないのだ。ナーギニーには明らかにはっきりとした意志が見えない。この生活を続けたいのか。新しい未来を望んでいるのか。外界への好奇心も恐怖も全て混ざり合い一色に染まって、彼女の感情はささやかな希望すら示すことなど有り得なかった。


 祈りの時間が終わりを告げ、少女は小さな窓のある壁越しの寝台の上で外を眺めた。午前十時。これから父親が休憩に戻る正午まで、しばし彼女の時間が訪れる。母親は少女を美しく育てる為だけに精を出したので、屋外へ出ることも働くことも一切許さなかった。それでも古びた厚手の書物の中、描かれた美しい物語は退屈を忘れさせてくれる。そして木枠の隙間から砂を(いざな)硝子(ガラス)の世界には、どれだけ目を向けても飽きることのない悠久の『歴史』が(そび)え立っていた。


 ムガール帝国第三代皇帝、全盛期を誇ったアクバル大帝の孫、第五代皇帝シャー・ジャハーンの『愛の結晶』──タージ=マハル。


 吹きすさぶ風が舞い上げる砂塵の中に、その憂愁たる輪郭が映る。崩壊を続ける建造物の中で、このタージ=マハルだけは例外的に昔と姿を変えることなく、天を仰ぐが如く屹立(きつりつ)していた。それほどジャハーン帝の愛妃アルジュマンド・バーヌー・ベーガム(後のムムターズ・マハル)に対する想いは、深く強いものであったのか──白大理石の大円屋根(ドーム)の鮮やかさは(いま)だに健在である。


 少女はそんな愛に溢れた霊廟(れいびょう)を遠くに望みながら、手に取った叙事詩『マハーバーラタ』のひとひら『シャクンタラー』を脳裏に浮かべた。仙人の美しき養女シャクンタラーと、狩りの最中に出逢ったドゥフシャンタ王。二人の数奇な運命と乗り越えた先に得た幸せな結末は、タージ=マハルに宿る愛の記憶と相まって、少女の心の奥底をくすぐった。(註3)


 けれどナーギニーは一度とて、それを自分と重ねることはなかった。(ラージャ)のような(はしばみ)色の肌を持ち、絹の(ころも)を身に(まと)う、大きな黒瑪瑙(オニキス)の瞳をした秀麗な男性と共に、タージ=マハルを見上げる日々が訪れたら──そのような大それた望みは決して生まれ出でることはない。


 彼女の繊細な白真珠の指先は、ただ心を温かく灯す為だけにページをめくり、色褪せて消えかかる挿絵の(しわ)を、愛おしそうに撫でるのみだった──。




挿絵(By みてみん)




[註1]カースト制度:ヴァルナ・ジャーティ制度とも云う。このヴァルナ(種姓)がいわゆる基本的な四つの分類で、上からバラモン(僧侶・司祭)・クシャトリヤ(王族・騎士)・ヴァイシャ(市民・商人)・シュードラ(労働者・農民)とされる身分制度だが、現代ではそちらよりも、生まれながらの職業を示したジャーティが機能している。この作品は遠い未来が舞台で「時代は繰り返される」との考えから、ヴァルナが主体となった世界としています。



[註2]不可触民:(註1)のヴァルナにも属せない最下層の身分。アウト・カースト、アチュート、アンタッチャブル、ハリジャン(神の子)などとも呼ばれるが、現代では全てほぼ差別用語と化している。此処では不可触民自身が好む呼称『ダリット』(「壊された民」という意味)を使用しています。



[註3]『シャクンタラー』:インド二大叙事詩の一つ『マハーバーラタ』の一挿話を、カーリダーサが戯曲に仕立てた作品。ゲーテにも影響を与えた。岩波文庫から辻 直四郎先生の訳された『シャクンタラー』(改訳後は『シャクンタラー姫』)が出版されています。作中の場面を描いた画家ラージャー・ラヴィ・ヴァルマを、一躍有名にしたのもこの作品です。




◆以降は2015年に連載していた際の後書きです。


 この度はお付き合いを誠に有難うございます。いまだ会話文の一切現れない堅苦しい文章ですが、お楽しみいただけましたら幸いです*


 今話文末に挿し込みましたタージ=マハルの画像は、筆者が数年前に旅した際撮影した物に、砂をイメージした加工を施しました。


 今後もそういった画像を取り入れる予定ですので、その節はそちらも是非お楽しみください!




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