[手業](てわざ)
長く連なるラクダの一行は、タージ=マハルから真っ直ぐ東に進み、やがて広々とした土手を降りた。古、墓廟裏手を流れていたヤムナ河の、ささやかな名残を覗かせる緩やかな窪地。聖なる河ガンガー最大の支流であるこの河の女神は、太陽神スーリヤの娘とされるが、同時に死者の王ヤマの妹ヤミーでもあるのは、此処に数多の遺骸や死灰が流されたからだろうか?(註1)
ひたすら続く谷を道標として、行列は砂の城の地ヴァーラーナスィーへ向け、方角を南東に定めた。それはかつての本流であったガンガーの堤といつしか合流し、しばらく進めば到着となる。城までの距離は約五百キロ。ラクダの脚ではかなりの日数を要する道のりだが、三晩を過ぎる頃には迎えの使者が待つ広大な直轄地の境界へ辿り着くという。
アグラの街の中心部は、まだそれなりに樹木が見受けられた。しかし郊外に移るや草の一本を見つけるのにも難儀するような、延々たる砂漠が広がっていた。早朝の輝かしい太陽は、いつしか厚い灰色の雲で隠されている。お陰で暑さは和らいでいるが、水気のない空気が素肌の瑞々しさを奪い去ろうと、顔に掛けるヴェールの隙間を意地悪そうに吹き抜けていった。
「大丈夫? ナーギニー」
そんな調子ではなかなか会話もはかどらず、特にナーギニーはまだまだ慣れないラクダの背に、しがみつかねば落ちてしまいそうにおぼつかない。時折心配そうに掛けられる横からのシュリーの声に、ナーギニーは何とか首をそちらに向け、苦笑いを浮かべつつも大丈夫だと明るく応えてみせた。
三時間の後、雲間から太陽が覗き照りつけた頃、ようやく無いよりはましな程度のオアシスを見つけた二人は、初めての休憩を取った。幹はひょろりと細長いが、数本タマリンドの木が密集している。見上げた先には何とか木陰を作ってくれるシダのような葉が重なり合っていた。残念ながら実はなっていないが、その果肉を熱湯に溶かせば美味しいチャツネが作れる筈だ。
「大丈夫? ナーギニー」
シュリーはもうこの半日で、口癖のようになった質問の言葉を再び唇に乗せた。根元の砂の上に腰を下ろし、ヴェールを取り去るや陰の冷気を含んだ風が、汗の浮き出た首筋を拭った。
「うん、平気よ。ごめんなさい、心配を掛けて」
同時に布を滑らせ隣にしゃがみ込んだナーギニーも、風から生気を取り戻すように、すぅっと息を吸い笑顔を見せた。お互い心配したよりも元気な様子でホッと胸を撫で下ろす。シュリーは別のラクダに預けていた荷から小さな包みを取り出した。広げてみせた容器の中には、鮮やかな山吹色のガジャール・ハロワがぎっしり詰め込まれていた。
たっぷりの人参を粗くおろし、ゆっくりとミルクで煮詰めたその菓子は、砂糖の甘さと人参本来の甘さが絶妙に絡み合い、舌の上でじんわりと溶けていった。カルダモンの爽やかな香りが口の中に広がる。「疲労回復にはちょうど良いでしょ?」──そう告げて、ナーギニーの喜ぶ顔を見つめたシュリーは、同じようにニコニコとはにかんだ。
「これ、シュリーが作ったの? とても美味しいわ」
「ええ、ありがとう。もう一つ食べる?」
ラクダの群れは少し離れて足を休め、使いの者達もその陰で、会話も交わさず静かに待機している。お陰でほぼ二人きりであると思えば話も弾む。このひとときはナーギニーにとって、今までで一番楽しい時間であったのかもしれない。反面、料理さえもさせてもらえなかった自分を哀れに思ってみたりもするのだが。
「私も……シュリーの手みたいに、なりたいわ……」
再び容器から取り出されたハロワが、少女の掌の上で一瞬止まった。渡して慌ててその手を隠す。シュリーの琥珀色の手はナーギニーのそれより一回り大きく、手作業の所為で節は盛り上がり、お世辞にも美しいとは言い難いいわゆる「働く手」であったからだ。シュリーは恥ずかしそうに俯き、
「何を言ってるのぉ……こんな手……醜いでしょ?」
それでも冗談交じりに笑ってみせたが、刹那ナーギニーは顔を真っ赤にさせた。
「そ、そんなことないわっ!」
咄嗟に否定したナーギニー自身も、いつもは動じないシュリーでさえも、その大声には驚いたようだった。ハッと我に返ったナーギニーは、次の瞬間には表情を崩し、その戸惑いを隠せない双眸からは、泉のように涙が溢れ出た。
「違うの……私、今まで何もしたことがなかったから……。シュリーの手はとても器用で、あんなに素晴らしい舞を見せたり、こんなに美味しいお菓子を作ったり……私にも出来たらいいなって……。私、シュリーの手が大好きよ……だから、隠したり……しないで──」
白くすべすべとした滑らかな両手で顔を覆い、泣き出したナーギニーをシュリーは優しく抱きとめた。人に触れ、その心に触れ、少しずつ外界に溶け込む少女の成長を、我が子を見守るような慈しみのある眼で受け止める。シュリーは柔らかく微笑みながら、その願望に希望の光を差し伸べた。
「あなたが踊ったカタック・ダンスは激しくて、あなたにはちょっと向かない舞ね。わたしのバラタナーティアムを踊ったら、きっととても可憐で素敵な筈よ。砂の城に着いたら、踊りの稽古をつけてあげるわ」
「あの踊りが……バラタナーティアム……?」
シュリーの腕の中で、涙に震えた小さな声が呟いた。北インドの代表的な舞踊であるカタックに対し、バラタナーティアムは南インドを代表する有名な古典舞踊の一つだ。が、隔離されて育てられた彼女はその名は知っていても、踊りを目にすることは今まで有り得なかった。
「そうよ、指と眼の動きで心情を表すバラタナーティアム。わたしの気持ちも分かってくれた今のあなたならちゃんと表現出来るわ。他には何がしてみたい? 城では料理は難しいかもしれないけれど……」
その励ましと申し出に、自分を卑下することしか出来なかった心が、軽やかに波立ち始めたのを感じた。濡れた頬から掌を外し、未来を灯して煌めく瞳をシュリーへとおもむろに上げた。
「あの……刺繍を、してみたいわ……針で指を傷つけたらいけないと、させてもらえなかったから。とても刺してみたい模様があるの……」
「いいわ、教えてあげる。わたしも刺繍は大好きなの。どんな模様を作りたいの?」
その言葉で瞳に宿された輝きは、一気に全身を取り巻き打ち震わせた。
「えぇと……ガ、ガネーシャ神を……」(註2)
「ガネーシャを? ガネーシャ村に住んでいるからかしら?」
この質問にはナーギニー自身も思い当たる答えがなく、ただ分からないと小首を傾げた。けれど伝え切れない少女の心の中では、何かが確かに動き出していた。しまい込んで忘れてしまった小さな宝石箱。それを見つけ出し開いた時のような、期待に満ちた想いがゆっくりと心を潤していく。
そんな彼女の艶やかな頬は、まるで未熟な柘榴のように、ほんのり紅く染められていた──。
[註1]死者の王ヤマ:日本でも取り入れられて、閻魔大王と呼ばれています。
[註2]ガネーシャ神:学問や商業の神様で、頭部は片側の牙が折れた象の顔をしています。




