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 さらり、さらり……

 するり、するり……




 黒い大地と赤い空の狭間で、白い砂がレースのヴェールのように流されてゆく。


 ──ナーギニー、こっちへおいで……ナーギニー……


 やがて砂は人型を造り、『それ』は彼女に手招きした。


 ──シヴァ様……?


 彼女は広い砂漠の真ん中に居た。何も無い──いや、目の前の暗がりから現れたのは、荘厳なタージ=マハル。そして背後に砂の城。


 ──僕は、シヴァじゃない。君の名は? こっちへおいで……君……


 少女はその声に振り向いた。砂の城を覆う巨大な透明ドームの入口から、優しく呼びかけるスラリとした青年。白いターバンに闇色の髪を絡ませながら、柔らかみを帯びて微笑んでいた。


 ナーギニーは咄嗟に駆け出し、


 ──私の名前をお忘れですか? シヴァ様。私です、ナーギニーです。


 ──君はナーギニーじゃない。君は……


 あと数歩で手が届くという所で、刹那足元から生まれた風が、砂を巻き上げ視界を遮断した。やがて風は竜巻となり、ナーギニーをも巻き込み、墓廟よりも城よりも、天高い果てへと全てを連れ去ってゆく。


 ──助けて、シヴァ様……私は、貴方様を──!




 ──シヴァ様──!!




「……シ……ヴァ……──」


「どうかしたの? ナーギニー、凄い汗よ」


 悪夢から目覚め初めて目にした光景は、蝋燭の薄灯りに照らし出された母親の赤茶けた顔であった。窓の外には既に夜の戸帳が降り始めている。


「あなた、とうとう一日目を覚まさなかったわね。それにしてもシヴァ神の御名(おんな)を寝言で言うなんて、夢の中でまで祈りを捧げてたっていうのかい? もう祈ったってどうにもならないのに」


「……」


 心配というよりも呆れたという母親の口振りに、ナーギニーの心臓は握り潰されたみたいな強い痛みを覚えた。母親の冷酷な言葉と同じ色を放つ暗闇は、彼女の出場した大会当日晩のものと思われたが、どうやら二十四時間を経た翌日宵の時刻だと諭された。結局彼女は祭り三日目の終焉ギリギリまで意識を取り戻さなかったということだ。


 上着を(まと)い、部屋を出て行こうとする母親の疲れ切った背を、ナーギニーは躊躇(ためら)いながらも何とか呼び止めた。


「どうせ無駄なことは分かっているけれど、結果を聞きにいってくるのさ。……まぁ、明日からはイヤって言うほど働くことになるだろうから、今の内にゆっくり休んでおくがいい。皆で最後の祭りを楽しんでくるから、お前は留守番でもしておいで」


 あれほど優しかった筈の母親の面影は、もう何処にも見出せなかった。冷たく言い放ったその表情は、憎悪で歪み淀んでいる。ナーギニーは一瞬驚きと哀しみを隠すことも出来なかったが、眩暈(めまい)によりふらつく身体をどうにか起こし、母親の足元に(ひざまず)いて、一緒に連れていってくれるようにと懇願した。


「そんなに皆に嘲笑(あざわら)われたいのかい? ……いいさ、ついておいで。でも途中でぶっ倒れたって、わたしらは知らないからね」


 母親の見下した態度と視線に耐えたのち、ナーギニーは急いで支度を整え、青年の白いマントを慌てて探し始めた。もう優勝を逃したとなれば、返す機会は今日しかない。けれど幾ら探しても隠した鞄は見つからず、マントの一片(ひとひら)さえも見当たらなかった。そうしている内に皆が外へ出ていく気配を感じ、少女は致し方なくその後を追いかけた。


 奇跡とも思えたこの数日の麗らかさは跡形もなく消え去り、屋外は先程の夢のように、どんよりとした空の下を鋭い風が吹きすさんでいた。彼女は家族から数歩遅れて、頭から被った更紗(さらさ)を必死に押さえながら、砂煙の中を何とか離されずについていった。


 あの夢は一体何を意味していたのか──タージ=マハルから振り返った背後には、一度とて見たことのない砂の城が(そび)え立っていた。両親からそれは「タージと瓜二つであること」・「白大理石と黒大理石の宮殿が対をなしていること」・「透明なドームの中に隠されていること」とは聞かされていたが、こうも鮮明に描画されるものなのか。そして自分は何故(なにゆえ)彼を『シヴァ様』と呼んだのか──?


 しかしこの夢を機に、ナーギニーはあの名乗らなかった青年を『シヴァ』と呼ぶことに決めた。タージ=マハルで独りきり、成す術もなく立ち尽くした自分を、そしてあの男達の襲撃からも救ってくれた──そんな想いが偉大なる救世主の名を戴くことに迷いを伴わせることはなかった。


 やがて空に立ち込める黒い(もや)の中に、薄っすらとタージ=マハルの輪郭が出現した。その下の人ごみが近付くにつれ、幾つもの言葉の揺らめきが辺りを漂い始める。どうやら三日目の舞踊が終わり、そろそろ優勝者の名が発表されるようだ。ナーギニーの家族は既に諦め切っていて、進める歩みを速めも緩めもしなかった。が、半奴隷になる前のせめてもの想い出にと、シュリーと青年に一目会うことを願うナーギニーは、やや小走りに家族を追い越し、人だかりの中へ消えていった。


「──……三日間という長く盛大な舞踊大会が今、滞りなく無事終わりを迎えた。皆、ご苦労であった。……さて、これより優勝者を発表するが……──」


 基壇上、王妃を従えた藩王シャニは、辺り一面を埋め尽くす人の海にねぎらいを投げ落とした。その波間をするすると縫っていくナーギニーは、やがてシュリーらしき女性の後ろ姿を見つけた。


「優勝者は……」


 あと数歩、あと一歩、ナーギニーは右腕を上げ、ひとときの幸せに手を伸ばす。


「……二十五番、ガルダ村……」


 少女の唇は震えながら、目の前に佇む輝きを帯びた彼女の名を呼ぶ為、ゆっくりと開かれた。


「「……シュリー!!」」


 ナーギニーの声に重なったのは、優勝者の名を告げるシャニの低い声だった──。




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