[襲来]
昼食を楽しむ家族を見つけたナーギニーは、広場まで付き添ってくれたシュリーとしばしの別れを惜しんだ。真上に昇った炙るような太陽の下、様々な露店から買い集めた料理が、湯気を立ててテーブルに並べられている。和やかな食事が続く中、ナーギニーの合流に興味を示したのは母親一人だけであった。それも自分達の『糧』が無事に戻ってきたという安堵と、舞踊に向けて精を付けさせたいというだけの、愛情に欠けた理由に過ぎない。
シュリーのお陰で元気を取り戻したナーギニーではあったが、余り食欲の方は優れなかった。揚げた油の酷い臭いの所為だろう。少女は離乳食も兼ねるダル豆のカリーを一皿選び、米とスパイスを炊き込んだ野菜のビリヤニを小さく盛り付け、僅かに胃に収めただけに留まった。
数える程の木陰や建物の陰は、照りつける日射から逃げてきた人々で溢れ返っている。一旦自宅へ戻る程の時間がない為、ナーギニーは再びの舞踊開始時刻まで、余興見物に連れ回されるしか他なかった。
=次は二十六番、ヴァーユ村、……=
ようやく大会が再開し、少しずつ陽の和らいできた観客席でホッと息をついた。時折風が席の隙間を吹き抜けてゆき、やっと生きた心地を取り戻し始める。けれどその時にはもう、自分の出番という「運命の刻」まであと一時間に差し迫っていた。
いつ母親から準備に行こうと声を掛けられてしまうのか……幾らシュリーに与えられた力を持つとはいえ、怯える気持ちを全ては払拭出来ずにいた。そうした想いを抱えながらじっと固まるナーギニーの周りでは、反対に小さなどよめきが発生し、男達の顔が右往左往と何かを探し始めていた。
「なぁ……ナーギニーって三十二番だろ? そろそろ支度をしに天幕へ来るんじゃないか? 俺、まだ『噂のナーギニー』を見たことがないんだよな~まぁ、どうせシャニ様に取られちまうんだろうけどさ」
──というどよめきと探索の眼である。
クルーラローチャナ一族の来訪が近付くにつれ、ナーギニーの噂が立ち始めたのは、あたかも必然のように思われた。生まれてからの殆どを屋内に隔離され、大切に育てられてきた美しい姫君。そんな少女が大衆の面前で踊るとなれば、興味をそそられた民達が殺到したくなるのも頷けよう。同時にそれは出場する娘達の不安の根源でもあった。その為この二日目後半の会場は次第に人の山が増え、午前の倍にも及ぼうとしていた。
しかし幸いにもナーギニーの姿を知る者など皆無に等しかった。だからこそ黒い葡萄のような眼をギョロつかせ、男共が探し回るまさにその中心で、彼女は今でも見出されずにいられるのだが。
「さて、と……そろそろ行こうかね。お前はそれだけでも十分綺麗だけれど、シャニ様に気に入られる為に、もっともっと美しくならなくちゃあいけないんだ」
ナーギニーまで残り五人と時を数え、母親はとうとう娘の手首を掴み促した。いつかは覚悟しなければならぬと思いつつも、咄嗟に強張らせてしまうその腕が、母親の強引な手に引き上げられる。少女の弱々しい身が腰掛けた人々の頭上に飛び出したその時──巻き上がった風がフワリと細長い布に絡みついた。まるで恋しがるように内に孕み、涼やかな風と共に去ってしまったその布は──頭からすっぽり少女の顔を隠していた筈の紺碧のドゥパッターだった。
「……ナーギニー? あれ……ナーギニーじゃないか!?」
途端遠くから聞こえてきた『噂』の名は、一息にその場の全ての視線を少女へ引き寄せていた。
「そうだ! あんな綺麗な女はナーギニーしかいない……ナーギニーがいたぞー!!」
この声が、この叫びが、幻であれば良いとどれほど思ったことだろう。だがそれは明らかに現実であり、自分のすぐ傍からずっと先の小さな影まで、殆どの男性が立ち上がるのが見えた。彼らが波のように押し寄せる様は、瞳から脳まで伝達するよりも早く、少女はもはや救いの声も発することが出来なかった。
おそらくは以前シュリーの話した「窓の外を眺めるあなたを一目見る為に、はるばる遠くからやってくる人」の一声だったのだろう。縦横から群がる男達の顔つきは、空腹に耐えかねて獲物に襲いかかる野獣の貪欲さに満たされていた。
「ナーギニー!!」
母親の声も、男達の叫びも、全てが混ざり合って悪魔の唸りと化し彼女を襲う。いつしか強く握り締めていた母親の手は、うっすらと手首に跡を残したきり何処かへと消えてしまった。自分を囲う黒々とした男共の大きな影。肌から放たれる汗にまみれた体臭と、髪から立ち昇る安っぽい臭いは、少女の呼吸も止めようとした。
「……だれ……か……──」
それでもナーギニーは何とか助けを求めるべく必死に口を開いた。しかし人の壁は益々厚く高くなり、もう逃げ道は何処にも見当たらなかった。異様な興奮と熱気がやがて意識を朦朧とさせる。足元がグラグラと崩れ落ちようとした頃、とうとう目の前が真っ白に染まり、そして──
──次に気付いた時には、先程シュリーと再会した菩提樹の樹の下だった。
「……また会ったね、お姫様」
それは以前聞いたことのある優しい声と台詞だった。
「あ……」
「昨夜の赤いサリーも良いけれど、この水色のパンジャビも可愛らしい」
彼ははにかんで、抱き上げていたナーギニーを静かに降ろし、おどけたようなウィンクを一つしてみせた。気を失う瞬間見えた白い視界は、この青年の絹の上衣だったに違いない。自分が彼に助けられたこと・此処まできっと抱えられてきたのだと気付かされて、ナーギニーはもはや声も出せなかった。
「どこも怪我はない?」
両掌で赤く染まった頬を隠し、俯いたまま動けなくなった少女へ、青年は心配そうに言葉を掛けた。慌てて大きく頷いたナーギニーは、そのまましばらく身じろぎも出来ずにいたが、長い睫の先に近寄った気配を感じて、伏せていた瞳をゆっくりと上げてみせた。
榛色の滑らかな肌に、弓なりの唇が笑みを湛えていた。形の整った鼻梁の先に、温かみのある双眸が揺らいでいる。瞳の色はシルバーの輝きを帯びたグレイ・トパーズ。それは優しさを注ぎながら、奥底に持つ芯の強さも垣間見せた。
「大丈夫そうだね」
ナーギニーの身長に合わせて折っていた膝を伸ばしながら、彼は自身でも答えを導き出し安堵した。タージの正面を望むよう遠くへ向けた横顔が、月光に照らされた美しいシルエットを思い起こさせる。あの時と同じくターバンからはみ出した紫黒色の髪が、そよ風に吹かれて心地良さそうに震える。そんな麗しい姿に見とれていたナーギニーへ、青年の瞳は振り返り、少女はハッと我に返った。
「どうやら君は時の人らしいね。聞こえる? 君が居ないのに気付かず騒いでいるのか、君が消えたのに驚いて探しているのか……けれどこれからは君も少し自覚して行動した方がいい。そろそろ出番が来るのなら、早く更衣室へ行かないと……独りで戻れるかい?」
不思議な人。ナーギニーは恥じらいながらも、心の隅でそう思った。昨晩も今も、青年は困っている自分の前に現れ、次にすべきことを指示してくれる。
「あの……ありがとう、ございました……」
ナーギニーは初めて青年に声を発し──そう出来た自分も、それを耳にした彼も、満ち足りた笑顔を交わしてしばしの時を分かち合った。と共に湧き上がる淡い希望──こんな素晴らしい人が傍に居てくれたら……けれど所詮彼も一族の人間だった。
「あの……マ、マントを……」
同時に思い出された「預かり物」を口に出したが、それは自分の衣装を入れた鞄の底に隠してあった。今は母親が持っている筈だ。それを上手く説明出来るだろうか? 取りに戻る時間があるだろうか? ナーギニーは途中で諦めたように唇を閉ざし、再び俯いて押し黙ってしまった。
ややあって上から少女を覆っていた影が近付き、今一度かち合った瞳が眩い光を与えた。
「心配しなくて良いよ。マントのスペアはまだあるから。でも君がどうしても返したいと言うのなら、砂の城で渡してほしい。僕もあの多くの男性達と同意見で、君の舞を見たいんだ。そしておそらくシャニ……様もね。舞踊を見る以上、僕は君と砂の城で再会することを望む」
表情は優しくも、或る意味シュリーと同じ真剣な眼差しでそう告げられた。
ナーギニーは真っ直ぐ先の瞳の奥を見つめ、次第に心が凪いだ海原のように穏やかになるのを感じた。与えられた勇気は、あのシュリーの手を握り締めた時と同じ色と温度を保ち、ナーギニーの怯える未来に明るい兆しを生み出していた。寵姫候補から外され奴隷として生きる道と、強欲で醜い老王の妾として生きる道。どちらも不幸の道筋に他ならないが、ナーギニーは我が身を「青年との再会」という「小さな幸せ」に托してみたい気持ちになっていた。どちらかを選べと言われたなら、この青年に会うことの出来る妾の未来の方がどれほど素晴らしいことだろう。例え肉体は藩王の物になろうとも、心は青年に奪われることの出来る一握りの幸福。
「はい」
その一言は、初めて彼女が彼を真正面から見据えて発した心からの返答だった。
少女は決して青年から瞳を逸らそうとはしなかった。不安から成功は生まれない。けれど自信からは……生まれることもあるかもしれない。
「うん。その調子だ」
彼は彼女の真摯な眼差しに満足したように、体勢を立て直し微笑んだ。
「君に会える日を楽しみにしているよ」
そう言って、少女を母親の許へと急ぐように促した。ナーギニーは再び礼を言い、横をすり抜け天幕目指して駆け出した。その背中は一回り成長したかのようにすっとして、大きな決意を宿していた。
彼との再会を信じて、振り返りはしなかった──。




