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[喝采]

「美しい娘よ、我が前で踊るが良い」


 軽やかな足取りで舞台中央に躍り出たシュリーは、深い一礼と共に上方へ語りかけた。それを満足したように太い指で顎を(さす)り、シャニが返答を投げ落とす。


 しとやかな音楽が鳴り響きシュリーが舞い踊る。ナーギニーはその光景に直ちに見入ってしまった。それほど美しくしなやかな身体の流れであった。


「シュリー……」


 唖然としたまま、それでもやっとのことで彼女の名を呟き、ナーギニーはその名を紡いだ唇に指を添わせた。少女の視線はシュリー一点に注がれ、指先の繊細な動きさえ見逃さぬよう、瞬くことも忘れてしまう。ナーギニーの小さな声はシュリーに聞こえる筈もなかったが、その刹那シュリーはナーギニーの存在を見つけたように、そちらに向けてウィンクをした。〝わたしの踊りを良く見ておくのですよ〟──まるでそう伝えるかのように。


 大きな動きの中から壮大な物語のうねりが描き出され、手先の微妙な揺らぎが登場人物の複雑な心情を表していく。時には鋭く時には柔らかく、全身をくねらせて幾つもの輪を渦巻いていく。長い睫に彩られた色気のある瞳は、恋の切なさや(はかな)さを巧みに表現し、華やかな丸みのある唇は、情熱的な愛と勇気を讃えるよう(あで)やかに花開いた。


 ナーギニーだけでなく客席に坐した全ての人々が、シュリー一人に釘付けとなっていた。盛──そして、終。彼女の動きが徐々に緩やかになり、口三味線(ソルカットゥ)の不思議な音色が消えかけようとしたその時、其処は既に喝采の嵐だった。


 =シュリー! シュリー! シュリー! シュリー!=


 民は総立ちとなってやむことのない拍手を贈り、アンコールを求めるようにシュリーの名を繰り返し叫んだ。ライバルとされる少女達も、我を忘れて自然に手を打ち鳴らす。踊りを終えたシュリーは息を弾ませ、再び深い一礼を捧げた。退場する彼女へ魅了された若者達が集まり、シュリーをその中へ取り込んで去り、騒ぎは少しずつ鎮まっていった。


「あれほど美しくお前も踊れれば良いのだけどねぇ。ナーギニー、あんな娘なんかに負けるんじゃないよ! お前の方がどれだけ美しい姿をしているのか分かりゃあしないんだから」


 母親は僅かに負け惜しみを含んだぼやきを吐き出し、励ましを込めて少女の背中をポンと叩いた。あたかもそれを自身に言い聞かせるように高らかと笑う。けれどシュリーの舞踊はそんな風に笑い飛ばせる程、簡単に追い抜ける技量とは思えなかった。ナーギニーはあの素晴らしい舞に感嘆と感動の想いを溢れさせながら、その裏側で酷く憔悴した。この舞踊大会で勝ち残り、寵姫選別期間のため砂の城で過ごせるのはたった一人だ。となれば……もはや優勝はシュリーに決まったも同然と思われた。


 ──ナーギニー……──


 午前の部が終わりを告げた。一旦閉幕となった舞踊会場は、散り散りとなる人々の行き交う波で騒めき出したが、名を呼ぶ声が微かに聞こえた気がして、ナーギニーはそっと後ろを振り向いた。


 ──シュリー?


 周りを囲う家族に気付かれぬよう辺りを見回してみれば、背後の客席の向こうにシュリーが手招いているのが見えた。ナーギニーは彼女の(もと)へ踏み出したい気持ちで一杯だったが、両親を振り払っていくだけの勇気はなかった。


「いらっしゃい! あなたなら出来るわっ!!」


 シュリーは再び、しかし今度は大声で叫んだ。先程まで注目の的だったシュリーなのだ。彼女に気付いて皆が殺到するのは時間の問題だった。ナーギニーは励ましの声に背中を押されてトンと一歩を踏み出し、母親に相対した途端、弾かれたみたいに言葉が勝手に口を突いて出た。


「あのっ……ちょっと忘れ物を──」


 言葉半ばにして走り出した少女の背中へ、母親は「広場のサモサ屋台で待ってるよ!」と声を掛けた。後を追ってくる様子はなく、ナーギニーは安堵と再会の喜びを(おもて)に浮かべ、同じ表情で手を差し伸べるシュリーへ急ぎ走り寄る。


 その手がナーギニーのそれを掴まえるや否や、シュリーは同時に駆け出した。ナーギニーを連れて墓廟の基壇を回り込み、東から北の裏手に向かって一気に走り抜いた。


 自分で取った行動に自身で(はなは)だ驚きながら、ナーギニーは息を切らしたまま晴れやかな笑顔を作った。シュリーはまるで旧来の親友を迎えるように少女をねぎらい、この辺りでは貴重となった菩提樹(ピーパル)の大樹の陰に、彼女を(いざな)い共に腰を降ろした。(註1)


 シュリーは既に着替えを済ませ、先程よりも淡い緑のパンジャビ・ドレスを身に着けている。化粧も落としてスッキリとした頬を、そよそよとした風が優しく撫でる。同じ空気がナーギニーの黒髪も柔らかく()かし、二人は生き返ったように大きく息を吐いた。


「元気そうで良かった! わたしが宿舎を出た時には、まだあなたは眠っていて……今度はいつ会えるかと心配していたの。偶然客席に居るのを見つけて、声を掛けて正解だったわ」


 昨日と変わらないシュリーの調子に、ナーギニーは心からの感謝をした。彼女が生まれてこの方言葉を交わしたのは、家族五人以外に他はないのだ。母親を除いた祖母・父・兄・妹は、いつも何処となく壊れ物を触わるようにナーギニーと接し、心の奥底から気を許せる者などただ一人でも存在しなかった。


「あの……シュリー……」


 ニコニコと喜びを露わにするシュリーに対し、ナーギニーは初めて自分から話を始めた。その勇気を出させてくれる真正面の朗らかな笑顔は、キラキラと輝く宝石のようだった。


「なあに? ナーギニー」


 そう問いかけても、シュリーは口ごもる少女を急かしはせず、もう一度口を開くのをちゃんと待っていてくれる。


「あの……ね、シュリー。……シュリーの舞……とっても、素晴らしかった……!」


 やっとといった様子であったが、伝えたい全てを言い通せたことに、ナーギニーは喜びを隠せなかった。その努力に加え、言葉の持つ偽りのない想いがシュリーの胸に熱い物を込み上げさせた。思わずシュリーは少女を抱き締めていた。


「ありがとう! ナーギニー……」


 温かな抱擁に(いだ)かれて、ナーギニーの気持ちも緩やかにほどけていく。シュリーであれば……シュリーこそが、優勝に値する女性であると確信し、気付けばまだ決まらぬ未来の結果を祝していた。


「おめでとう……シュリー!」


「え……?」


 驚いたシュリーはナーギニーを即座に解放した。自分のことのように喜ぶ少女の瞳には、うっすらと水の膜が張られている。


「違うわ、ナーギニー」


「え……?」


 否定をする真っ直ぐな声と強い瞳に、今度はナーギニーが驚いてしまう。


「この大会、勝つのはわたしじゃないわ。勝つのは……あなたよ」


 刹那、断言までしたシュリーの言葉と真剣な表情は、少女にハッと息を呑ませ呼吸を止めさせた。けれどその時間はすぐに動く。シュリーが今までの穏やかな面差しに戻ったからだ。


「ごめんなさい。わたしはシャニ様に嫁ぐ為に出場したんじゃないの。今まで練習してきた踊りの成果を知りたかっただけ。あなたがわたしの舞を褒めてくれて、あれだけの拍手を貰って……もう本望よ。わたしには養わなければならない家族もいないし、どうか心配しないでちょうだい。だから、ね? 次はあなたが頑張って! わたしはあなたが優勝することを心から願っているのよ」


「シュリー……」


 力のある激励がナーギニーの凍った何かを溶かしたようだった。込み上げた涙が溢れ出し、頬を伝っては落ちてゆく。透明な真珠のようなそれは、全てシュリーの温かな指先で受け止められたが、と共に(すく)われたのは、ナーギニーの心に堆積する未来への不安と恐怖だった。


 シュリーは颯爽と立ち上がり、呆然と見上げるナーギニーに向かって立ちはだかった。右腕をピンと顔前に伸ばし、その手を大きく広げてみせた。


「さぁ、涙で化粧も落ちたことだし、戻って用意をしていらっしゃい! わたしに……わたし以上の踊りを見せて!!」


 元気なシュリーの笑顔が無意識にナーギニーを頷かせていた。太陽の光が彼女の背を(まと)い、そのシルエットが(まばゆ)(かたど)られていく。それはまるで昨夜のあの月光に照らされた優しい青年と重なり合って思えた。やがて見つめるナーギニーの(おもて)にも、少しずつ笑みが戻ってくる。


 ナーギニーの弱々しい掌はゆっくりと目の前の指先に近付き、触れた途端引き寄せられ、あっと言う間に勢い良く立たされた。


 いつの間にか力強く握り締めていたのはナーギニーの方だった。あたかも運命を導く大きなエネルギーが、シュリーから与えられ注がれたような、不思議な流れが彼女の中を駆け巡っていた──。




[註1]菩提樹:仏教に馴染みの深い樹木ですが、実はヒンドゥー教にも神話上に繋がりがございます。




◆以降は2015年に連載していた際の後書きです。


 前話後書きにサリーとパンジャビ・ドレスの画像を入れました。作者所有の衣装ですが、モデルは友人・知人です☆




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