[秘密]
大理石の階段が導く先には、冷たい砂の地面が待っている筈だった。けれどナーギニーの勢いは止まらず、その身は長い影に包み込まれ受け止められた。温かく纏わりつくしなやかな腕。視線の先で、碧いサリーを散りばめる銀糸の刺繍が一瞬煌めいた。
「良かった……! ごめんなさい、ナーギニー……」
聞こえた声は明らかにシュリーで、心に響いたのは安堵と謝罪と……そして愛情の込められた涙声だった。
「シュリー、私こそ……」
そう言ったきりナーギニーも泣き出してしまう。二人はタージの作り出す月影の下、探し求めたお互いの姿を落ちる涙の温かさで確かめた。
「わたし、あなたが倒れそうになった時、急には足を止められなくて、ずっと先まで行ってしまったの! その勢いで転んでしまって……少し気を失ってしまったみたい。気付いて戻った時にはあなたはもう見えなくて……宿舎に戻ってしまったんじゃないかって一度来た道を帰ったのよ。でもベッドには居なかったから……良かったわ、行き違ったりしないで! ごめんなさいねっ、心細かったでしょ?」
やっとナーギニーを解放して、シュリーは矢継ぎ早に此処までの経緯を説明した。サリーの裾で少女の涙を拭う姿はまるで母親のようだ。ナーギニーはその行為に驚きを隠せなかったが、自分の為に泣いてくれたシュリーを心から有難く思った。
「そう言えば、これ……どうしたの?」
落ち着きを取り戻したシュリーは、ナーギニーの肩から掛けられた白い衣に気付き手を差し伸べた。「ちょっと来て」と彼女の手を引いて暗がりから身を移す。月に照らされて益々白く輝いたそれは、ナーギニーには大き過ぎる立派な外套だった。
「もしかして……これ!」
シュリーは辿り着いた自分の推測に大声を上げて、慌てて胸元の金刺繍に手をやった。細長い土星の紋章にヒンディー語の文字。……それは……クルーラローチャナ一族を意味していた。
「あなた……一族の誰かと会ったのね?」
「あ……私……」
ナーギニーの瞳から今までを探ろうとシュリーは顔を傾げたが、その合わされた視線にナーギニーはたじろいてしまった。あの青年が一族の人間だったとは……とはいえ、その身から放たれていた気高い雰囲気を思い出せば、容易に想像に到ることではあるのだが。
「落ち着いて、ナーギニー。宿舎に着いたらこのマントは隠すのよ? これがシャニ様に知れたら大事になるかもしれないわ。……でも大丈夫。明日明後日に持ち主に会えたら返せば良いことだし、もし会えなくても、寵姫選別期間に砂の城で返せばいい……もちろん、あなたがシャニ様の許に嫁ぐ気持ちがあるのならね」
シュリーはマントごとナーギニーの肩を抱き締めて、仮宿舎を目指して歩き出した。抱え込まれ足並みを促されたナーギニーは、シュリーの言葉に戸惑いを隠せず、ただそれを脳裏でグルグルと巡らせるばかりであった──。
◆ ◆ ◆
シヴァ祭、そして舞踊大会二日目の朝は、其処彼処で様々な喧騒や笑い声を生み出しながら、それでもナーギニーを深い眠りから目覚めさせてくれることはなかった。(註1)
既に昨夜の宴を忘れてしまった華麗なる旅人達は、長いパレードの中に紛れ込んでいる。あのマントの青年も久方振りの城外の世界に、好奇心の瞳を持って屋台や曲芸を覗いているに違いない。
嵐や竜巻を望んでいたナーギニーの心に反して、アグラの街は一層麗らかな陽気に包まれていた。美しく大きな太陽。マンゴーのように甘い空気は砂を軽やかに躍らせている。
「ナーギニー、いい加減に起きなさい! ……一体この娘ったら、どうしたことだと言うの?」
人気のない広い仮宿舎の中に、母親の苛立った声が響いた。待ち合わせの時・場所共に娘を見つけ出せず、やっと探し当てたナーギニーは眠りに落ち込んでいたのだから仕方があるまい。怒りの裏側には無事であったという安堵の気持ちも含まれてはいたが、その唇が紡ぐ「ナーギニー」という呼び名は、自身の「幸せ」を導く道具の一つに過ぎない。
「あ……ご、ごめんなさい、お母様……」
空気を斬り裂くような母親の大声に、ナーギニーは慌てて半泣きの顔を持ち上げた。あれからシュリーとこの宿舎へ無事に戻ったが、翌日待ち受ける恐怖が少女を明け方まで眠らせることはなかった。全てが夢ならば……と願うも、母親のテキパキと支度を整える皺の刻まれた指先も、天窓から差し込む生暖かい陽の光も、現実以外の何物でもなかった。そして昨晩クルーラローチャナ一族の青年から掛けられた白いマントも……ナーギニーは枕の下に隠したそれを視界の端に入れて、小さくホッとしたような息を吐いた。
「さぁさぁ、これに着替えて。あなたの番までそりゃあ時間はあるけれど、少しは他の娘のも見ておかないとね」
母親はそう言って、無造作に空色のパンジャビ・ドレスをベッドへと放り投げた。緩やかな長尺の上着に、足首の絞られたパンツ、首にはドゥパッターというスカーフを身に着けるこの民族衣装は、サリーとは違って活発そうな装いだ。ナーギニーとしては昨日の赤いサリーをもう一度身に着けたかった。それがあの青年と再会する為の目印になると思ったからだ。なにぶん出逢った時には淡い月明かりのみで、顔など覚えてもらえずにいるかもしれない。が、彼女が母親に逆らえる程の強みを持つ筈もなく、いそいそと言われた通りの行動を取るしかなかった。(註2)
準備を終えた二人は舞踊大会の観客席へ急いだ。仮宿舎から一歩を踏み出した途端、ねっとりとした風が身体中に絡みつき、じんわりと汗が噴き出してくる。会場はまさに灼熱に包まれていた。太陽と人々の興奮が織りなす熱気。陽炎がゆらゆらとたゆたい、ナーギニーは一瞬グラリと眩暈を引き起こした。
「しっかりしなさい、ナーギニー。あなたが今日あの場所で演じる全てが家族を救う道になるのよ。父さんも兄さんももう客席に居るわ。皆心配して応援に来ているのよ。あなたも頑張りなさい」
母親はナーギニーの首に巻かれたドゥパッターを広げ、少女の頭に掛けてやった。膝に着いた手をグイと掴み客席に連れ込む。父親の隣に促し、右側には母親が腰を降ろして砦となるが、大勢の人々に囲まれて息苦しい気持ちすらしてしまう。午前を終えるこの時間、屋根も木陰もない砂の上で、空腹のまま見学するのは死を意味すると言っても過言ではない。屋台で買った得体のしれない食べ物を兄から差し出されたが、ナーギニーはただ俯いて首を振り、拒むことが精一杯だった。
=次が午前最後となります。……二十五番、ガルダ村、シュリー!=
華やかな衣装をひけらかした少女が退場し、再び整えられた舞台の隅に、痩せこけた男が進み出で叫んだ。ナーギニーは自分の名を呼ばれたようにハッと顔を上げた。あのシュリーの出番であった。
ナーギニーの胸には緊張がほとばしり、手を合わせずにはいられない。舞台へ上がるシュリーも同じく波打つ鼓動を抑えているのだろうか?
「失礼致します、王様」
けれど大勢の視線が注がれる中央、深いグリーンの民族衣装で身を飾ったシュリーは、自信という力強いエネルギーを全身から輝き放ち、ナーギニーの考えたものとはまるでかけ離れた姿をしていた──。
[註1]祭のルビを「プージャー」と致しましたが、実際「プージャー」は神像礼拝の儀礼を意味します。ヒンディー語では本来「メーラー」を用います。
[註2]パンジャビ・ドレス:この呼び名が日本では定着していますが、現地では「サルワール・カミーズ」というのが一般的です。




