[遭遇]
冷たい風がナーギニーの涙を浚っていった。むせび泣く声も砂をこする風の音が、共鳴し反響し不協和音に変えてしまう。それはシュリーの許へ無事届いただろうか? 西南の尖塔と墓廟が威圧する狭間の基壇上で、ナーギニーは立ちすくんだまま両手で顔を覆った。
細い指の隙間から零れる涙は、掬っては落ちる砂のようだ。しっかり握ったつもりでも、希望とは違う方向へ流されてゆく。左肩に掛けたサリーの裾も少女の身体を温めようとはせず、この場から逃げ出したいように舞い上がっては渦を描いた。
永久不変という存在しない筈の力に誘導され、もうこの刻が終わりを告げることはないのかもしれない。泣き声が次の嗚咽を紡ぎ出しては絡まり、また紡ぎ出し……ナーギニーはとうとう自らが編み込んだ茨の檻に閉じ込められてしまった。
けれどそれは突如として解き放たれる。
「……何をそんなに泣いているの? お姫様」
後ろへ吹きすさんでいた風が一斉に向きを反転し、ずっと背後から発せられた問いかけを、ナーギニーの耳元へ運んできた。
驚きが刹那に涙を止めた。タージ=マハルには彼女以外に人の気配はなく、近寄る足音も姿も有り得なかった。昇ってきた階段は過ぎる者を感じられる範囲にあるのに、その声はいつやってきたのか、いつから其処に在ったのか。それでも少女は怯えることはなかった。良く通る透明な美しい声。若い男性のそれは明らかに優しく、歌声のようであったからだ。
「このような真夜中に、サリー一枚では風邪を引きますぞ」
次に聞こえてきたのは同じ声であったが、先程よりももっと近く、執事でも真似したような少しおどけた口調だった。顔を両掌で隠したままじっと固まるナーギニーの真後ろから、やがて滑らかな衣擦れが聞こえてくる。ふいに彼女の華奢な両肩は柔らかな暖かさに包まれた。
「多少は暖が取れますかな?」
少女は俯いた面から涙に濡れる両手をそっと外した。驚きと緊張と嗚咽とで火照った顔を、恥ずかしそうに上げ振り返る。その時──見上げた先の夜空が月明かりを呼び戻していた。
「あっ……」
驚いたように声を洩らしたのは青年の方だった。衣越しにナーギニーの両肩へ置いた手を、慌てて離して一歩を下がる。月光はナーギニーの表情を読み取れるほど輝きを帯びていたが、その影となった青年の姿は、背の高いシルエットを神々しく浮かび上がらせただけであった。
「君、舞踊大会の参加者かい? 出場は明日? 眠れなくて此処に来たの?」
質問攻めにされたナーギニーは、青年を囲う光を見つめたまま呆然と立ち尽くしてしまった。奏でるような清廉とした声、象られた姿も凛としてしなやかな雰囲気を放つ。彼の面差しも装いも、何もかもが闇に紛れて見えずとも、青年が生まれながらに持つ澄み通った気品が、ナーギニーの心の琴線に触れたようだった。
「君の名は?」
もう一度問いかけられて、ナーギニーの連れ去られた心が在るべき場所へ戻ってきた。──自分の名前。伝えたら彼の記憶の一部となろうか? が、震える唇がそれを紡ぐことはない。
「……ナーギニー……ナーギニー、どこー!?……──」
けれど彼女の名は遠く仮宿舎の在る西の方角から、シュリーの声で響き渡った。ハッと後ろを振り返るナーギニー。まだその姿は見えないが、確実に呼び声は近付いている。
「ナーギニーって……いうんだね?」
少女がホッと安堵の息を吐いたことに、青年は気付いたようだった。同じ穏やかな気持ちを含みながら、ゆっくり彼女の名を口にする。しかしその途中で僅かに言い淀んでいたことは、鼓動が耳奥を木霊してやまないナーギニーには気付くことは出来なかった。
彼の影に振り返り、やはり何も言えないまま、それでもナーギニーはコクリと大きく頷いてみせた。
「ナーギニー! 居るの~!? 居るなら返事してー!!」
「シュリー……」
シュリーの必死な叫びに彼女は困ったような呟きを零した。返事をしてと言われても、シュリーに届く声が出るだろうか? 特にこの青年を目前にする、『今』というこの瞬間に。
「友達が探しているみたいだね。君はもう行った方がいい。僕もそろそろ宴に戻るとするよ」
そうして青年は墓廟正面の階段へ顔を向けた。整った鼻梁が光輪を纏う。それは一瞬の内に再び少女を見下ろして、相変わらずその表情は見えなかったが、ナーギニーには微笑んでいるように思えた。
「明日の大会、楽しみにしているよ。……君の踊りが見られることをね!」
言い終えるや一気に駆け出す姿から、ほんの数秒青年の目元が光に晒された。ターバンからはみ出した艶のある前髪と、凛々しい眉に優しげな眼差し。ナーギニーの大きく見開かれた瞳は、かち合った途端に眩さを感じた。頬が燃えるように熱い。まるで注がれた熱視線に、点火されてしまったように。
「あ……あ、のっ──」
ナーギニーの昇ってきた西からの階段には、対となる東へ降りる対称の階段があった。そちらへ走り寄った青年の背中は、既に声の及ばぬ距離まで離れていた。温かく身を包む上質な絹をギュッと握り締める。返さなければ──その焦燥がやっと言葉になって溢れ出たが、それは何歩も遅かった。
「ナーギニー!」
シュリーの声は、もう基壇の真下まで近付いていた。
「シュリー!」
ついに彼女に届く程の声でその呼びかけに応えたナーギニーは、青年とは逆の方向となる西の階段を駆け降りた。床に着く裸足の柔らかな足裏は、もう冷たさなど微塵も感じることはなかった。
風に揺れる白い衣は、淡い蓮の香りがした──。




