甘すぎた柿
神奈川の外れ、安アパートの二階に、一人の男が引っ越してきた。
平日は仕事が忙しく、休日も疲れ果てているため、最低限の買い物以外どこへも行かない日が続いた。
数か月経ち、その部屋で初めてむかえる秋。
窓から柿の木が見えることに気付いた。
木は、大きな道を挟んだ向こう側にあるので、ぼんやりとしていて実の形までは見えない。
しかし、日に日に色づいていくものだから、「もう赤に近いんじゃないか? とろけそうだ」と見えもしない柿の甘さを想像したり、「なぜ摘み取らないんだ? カラスに食われてしまう」といらぬ心配をした。
また朝も夜もなく働き、季節のうつろいに気付けないほどの日々が続いた。
唯一、秋だけは、窓から見える柿の木が知らせてくれるので、しばし人間らしさを取り戻せるような気がした。
自分で柿を買いに行くことはなかったが、道の向こうの柿を見つめながら、味を想像した。
毎日、義務的に食べる食事とは違い、想像上の柿の味だけはとろとろに甘く、みずみずしかった。
ある年の十一月。ようやく仕事が落ち着き、心に余裕ができた。
休日に、ふと思い立って、あの柿を近くで見てみようと考えた。
あえて道を渡る用事がないこともあり、その木に近づくのは初めてのことであった。
遠回りして信号を渡る必要はあるが、たった数分の距離である。なぜ今まで来なかったのだろうか。
たどり着き、木を見上げてみる。
しばし呆然とした。一つも柿がなっていない。
あるのはオレンジ色の葉っぱだけだった。
なんてことはない、遠目でオレンジ色の物体を柿だと思い込んでいただけで、そもそもこれは柿の木ではなかったのだ。
いつも愛でていたのが柿ではないとわかると、無性にむなしくて悔しくて、走り出し、気付けば八百屋の前にいた。柿を二つ買った。
果物なんて普段買わないこともあり、皮を包丁でむくのに苦労した。かなりいびつになってしまったが、一口サイズに切り分けた。
さくりと一口食べてみる。
うっすらと甘いが、水っぽく、なにやらよくわからないスパイシーな香りがした。
つまるところ、まったく美味しくなかった。
窓から見た柿の味はあれだけ甘美だったのに……。
今思えば、彼は柿の味がそれほど好きではなく、幼い頃はむしろ嫌いだったことを思い出した。
翌年、次の秋が来る前に、彼は別の街に引っ越していった。