ある物語の終わり、あるいは新しい物語の始まり
「おい、おーい。起きろよジンー。昨日7時に起きるって言っただろー。もう3時間も過ぎてるぞー。」
鈴のように響く少女の声がする。
そうか、もう朝か。
昨日は色々と忙しかったから、つい布団にも入らずに寝てしまったようだ。
体の節々が痛いのはそのせいか。
男はそう独白した。
「………ぅうん」
「あ、起きた?」
「…ああ、おかげさまでバッチリね。」
美しい黒髪をたたえた少女の言葉を受け、男は目を開ける。
男は20代後半ほどの年齢の外見をしていた。身長は170ほどで体は細身、上にシャツ、下にズボンを着ていた。
「良かった良かった。まったく、ジンはお寝坊さんだねぇ。ほら、早く朝ごはん食べて支度して。今日から引っ越しだろ? 早くしないと遅刻だぞー」
「あぁ、そうだっけ?」
「そうだよ。ははーん、さてはまだ寝ぼけてるなぁ?嘆かわしいなぁ。当代最強の魔法使いも睡魔には勝てないのかい? 世の悪魔が泣いて喜ぶよ?」
少女にジンと呼ばれた男は、ガランとしていて何もない部屋の床からゆっくりと身を起こす。
しかしその動きは緩慢で、明らかに眠りに心を惹かれているようだ。
彼が寝ていた床のそばで女の子座りをしていた少女はそんな男の様子を見て呆れ混じりの笑顔を浮かべている。
「睡眠は人間の三大欲求の一つだよ、メア。よく寝て、よく食べて、よく愛する。これ以上健康的な生き方はないんじゃあないだろうか。なんならほら、あと2時間ほど健康的な生活を満喫するというのはどうだろうか」
ジンがもっともらしいことを言う。
たが、たとえもしこの場に彼女以外の人間がいたとしても、この言葉がまだ寝たいが為に絞り出した戯言であることが分かっただろう。
少女メアは笑顔のまま告げた。
「却下。惰眠をむさぼることはとても健康的とは思えないからね。それに急がないと支度が住む前に来客が来てしまうよ」
「来客?引越しの直前に来るなんて誰だ?ドルカかアーレイか?アイツらなら俺の性格も知ってるだろうし、酒の一本でもくれてやれば文句は」「兵隊だよ」
メアの口から出た名前の剣呑さに、ジンの目は一瞬で覚めた。
メアはそれまで見せていた朗らかで可愛らしい表情を引っ込め、硬い顔で話を続ける。
「来客は兵隊さ、ジン。クソッタレの王国の忠実なワンちゃんどもだ。装備は対魔法と対龍に特化してる。明らかに僕らを狩るためにやってきた連中だ」
「間違い無くか?」
「疑うならジンも飛んで見て来るといいよ。人間の営みに疎い僕でも一発で分かったほどだから、ジンが行くまでもないと思うけど」
「そうか」
「悲しそうだね。でもこうなることは分かってたから、一週間もあんなに急いで支度してたんだろ」
「分かっていても悲しいものは悲しいよ。少し前まで仲良くしていたしね」
そう、彼は悲しいのだ。
腹立たしいのでも無く、かと言って恐ろしいわけでも無く、ただただ悲しいのだ。
彼はこうなることがわかりきっていたが、心のどこかでもっと違う未来が訪れることを信じていたが故にである。
「それでどうしよっか?」
「どうするとは?」
「今から僕たちが取れる選択肢なんて2つしかないでしょ」
少女は二本の指をたて、その指の片方を折りながら言う。
「1つはこの前から準備を進めていた方法で逃げちゃうこと」
そして、まだ折っていない人差し指を上に立てたまま続ける。
「それ以外にもう一つ。アイツら全員ぶっ殺しちゃうってのはどう?いくら僕ら対策が万全だからって、最高の生物種たる龍と世界最強の魔法使いに勝てるわけないよ。あれだけ僕らを利用しておいて必要がなくなれば排除するような連中のこと、気遣う必要ないだろ? そうすれば2時間なんて言わずに、1日でも2日でもこのままでいられるよ」
メアは立ち上がってジンに向き合い、彼女の龍としての力の証である白い炎を腕から生み出しながら言う。
その炎は彼女の苛立ちを表すかのように強い勢いで燃え盛った。まるで納得のいく答えを出さなければ殺すと言わんばかりの圧力。
常人であれば、それだけで死がもたらされるであろう程のものだ。
ジンはそんな彼女に向き合って、ためらうことなくはっきりと告げた。
「それはダメだ、メア」
「…ふーん。理由、聞いてもいい?」
ジンがその言葉を告げた時、メアの圧力は増した。
しかし彼は怯むことなく続けた。
「万が一ということもあるからね。確かに君は強いし、私も君ほどではないけれど戦うこともできる。けれど万が一、万が一にも君に永遠に会えないなんてことになったら、私は生きていけないさ。それに」
「それに?」
「私はもうこの世界にとって用済みだ。魔法の時代は終わった。これからは科学と産業の時代」
―――もう魔法使いに居場所はない
「今ここで私たちが抵抗しても、この事実は変えようが無い。たとえここに向かっている兵隊を倒しても無駄な血が流れるだけだよ。彼らに罪はないさ。最後に私たちと親交があった王は、もう80年も前に死んでいる。私たちと人間の関係は、彼らにとってもう歴史だ。彼らを殺すとは虐殺に他ならない。それはまあ、良くないだろう」
真剣にそう言うジンの言葉にひとまず納得したのか、メアは眼をつむりは彼の言葉を反駁した後、腕を覆っていた炎を消して引き下がった。
「ん、そう。まあいいや。2つ目にはまったく同意できないけど、1つ目はすごく嬉しいし」
「そう言ってくれてありがたいよ。けどこの話は準備を始める前に皆で納得するまで話し合ったじゃないか。もしかして迷っているのかい? もしそうなら君だけでも」
ジンが全て言い終える前に腕の炎を消したメアは人より長い人差し指でジンの口を塞いだ。
彼女の顔はさっきまでよりも硬い。
付き合いの長いジンはその表情だけで彼女の中に渦巻く怒りの感情を感じ取った。
「それ以上言ったら怒るよ、ジン。別に迷ってなんかないさ。ただジンがついにボケて、昨日までのことをすっかり忘れたかと思っただけ。要は最終確認ってこと」
メアは硬い顔を緩め朗らかな顔に戻りながらそう言った。
そんな彼女の様子からジンは休戦の意図を読み取り、彼女と同様に引き締めた雰囲気を緩めた。
「それを聞いて安心した。でもそれは杞憂だよ、メア。不死身であるところの私が老いるわけもないし、それにこう見えても私は記憶力にだけは自信があるからね」
「本当かぁ? じゃあさっき言ったドルカとアーレイが今どこにいるか分かる?」
「もちろん。あいつらはもうとっくに『あちら側』に着いてる、だろう?」
「なんだ分かってるじゃん! じゃあさっきのおとぼけ発言はなにさ?」
「起きたばかりで頭が回らなかっただけだよ。ボケてはないけど寝ボケてたんだ」
「これから忙しくなるのにそれは大変だね。ほら、目覚めのコーヒー。いい豆で淹れたものを最高の炎で温め直した一級品だよ」
メアからジンにコーヒーの入ったカップが渡される。
温め直したというのは本当のようで、コーヒーからは湯気が立っていた。
「最高の炎?」
「なにさ、龍の炎は最高の炎だろ?」
「ああ、なるほど。…からかったな?」
「さ〜あ、なんのことやら。ほらほら早く支度しないと! 本当にあいつらここに着いちゃうよ!」
「まったく、わかったわかった。極力急ぐよ」
メアはジンの反応に満足したのか、ジンに引越しの準備をしてくると言って部屋から出て行った。
ジンはそんな彼女を見送った後、浮かない顔で独りごちる。
「来るべき時が来たか………」
「…ふぅ」
「魔術の準備お疲れ様。ジン、疲れたでしょ?ほら水とタオル」
汗を拭う男に少女がお盆に載ったコップとタオルを差し出す。
あれから少し時間が経った後、ジンとメアは先ほどと同じ部屋にいた。
しかしその内装、雰囲気は先ほどとはまるで真逆だった。
先ほどまで何の変哲もなかった壁や床、天井は難解そうな文字列と円形の魔法陣で埋め尽くされ、ガランとしていた部屋の中には魔法陣の上に置かれた紫色の水晶が置かれている。
そしてそれらが醸し出す妖しげな雰囲気は、その部屋の様子を別物に変えていた。
さらにジンの姿も、部屋と同じように様変わりしていた。
起きた時に来ていたラフな服から着替えて、豪華なローブを見にまとい、その手に輝く杖を持っている。
彼は水を飲んだ後、タオルで汗を拭きながら言った。
「ありがとう。まあまだ完全とは言えないけどね。そっちの準備は?」
「荷物は全部まとめておいたよ。あとはこの部屋に運び込むだけ。というかジンが起きた時点でほぼ準備完了してた。ジンが寝坊しなかったらもっと早く出発出来たんだからね?」
「ごめんごめん。起こしてくれる人がいるとつい」
「おだててもダメだからね? …さ、そろそろ休憩終えて準備再開しよっか」
メアの言葉を受けて、ジンは魔術の準備を再開する。
その間にメアは重そうな荷物を龍の筋力で軽々しく部屋に運び込み始めた。
「しかしまぁ、それにしても」
「どうしたんだメア?」
「ずいぶん簡単な魔法陣だなぁ。本当にこれで大丈夫なの? これからやろうとしてることって、結構難しいことじゃなかったっけ? 」
そのメアの言葉を聞いた時、ジンは唐突に目を輝かせて、メアの方に勢いよく向き直った。
そんなジンの様子を見てメアは自身の失敗を悟ったが、時すでに遅し。
魔法使い特有のよく回る舌を無駄に活用し、ジンは魔法陣について話し出した。
「いやいやこの魔法陣は準備に使う空間こそ一部屋ぶんで事足りる一見シンプルなものだけれど見た目のシンプルさと準備の簡単さに反して結構な数の機能が存在する素晴らしい魔法陣なんだよメア」
「…あ、ヤバい。ジ、ジン?僕はなんとなく聞いただけであって、その魔法陣の説明をして欲しかったわけでは」
先ほどのまでの様子が嘘のように早口で魔法陣の話をするジン。
それを止めようとメアは口を開くが、説得も虚しくジンの決壊したダムのような言葉の洪水を止めることはできなかった。
ジンは魔術の話になると早口になってかわいいなぁ、でもそれどころじゃないんだよなぁ、とメアは思った。
「ほら見てくれメアこの部分の魔術式をなんとこの部分だけでブレーカーとコントローラーその他諸々の機能を同時に併せ持たせることに成功したんだこうして複数の機能を持たせた魔術式を複数用いることで魔法陣のコンパクト化だけではなく安全性の向上まで達成することに成功しているんだこれを思いついたのはウィルなんだがアイツがこの文を見せてきた時俺はマジで声を出して驚いたそれにこの魔法陣の凄さはここだけではないんだメアこの魔法石もみてくれこれは魔道具作製者としてのリンデのこだわりがいかんなく発揮されていて」
「ストップ、ストーップ! ジン帰ってきて準備進まないよぉ!」
「むぅ…」
「『あちら側』についたらその魔法陣の話もいくらでも聞いてあげるから、ねっ?」
「…分かった」
やや不満そうながらジンはメアの必死の説得に頷き話をやめる。
たしかにさっきから結構な時間が経っていたので、兵隊たちがそろそろ自分たちの居場所に着かないか心配でもあったからだ。
メアはジンを止められたことに安心し、胸を撫で下ろす。
「だけどこれだけは言わせてくれメア。この魔法陣は完璧だ。これは間違いなく私たちを異世界に送ってくれるよ」
ジンは自信に満ちた顔でそう言った。
しかしそんな彼の様子とは反対に、彼女はその言葉を聞いて不満そうにな顔を見せた。
「だよねぇ」
「不満かい?」
「そりゃそうさ。僕らに兵隊を送り込んできたあの国はジン、君とその仲間たちが作り上げた国だろ? それがなんでそいつらに襲われて、しかも尻尾巻いて逃げなきゃならないのさ。ねぇ、やっぱり戦わない? ジンのことだし、どうせエルザたちもちゃんと逃げられるかどうか心配なんでしょ?」
メアの言い分に、ジンは苦笑を持って答えた。たしかに彼女の言葉は正しいし、同じことを言った彼の仲間もいた。しかし
「さっきも言っただろう、メア? この期に及んで武力で時代を巻き戻そうとするのは悪手さ。むしろあの国は私たちが作った国だからこそ、引き際は弁えておくべきだよ」
それに、これは仲間たちと話し合って出した結論でもあるからね、という言葉を続けようとしたが、ジンは口に出さずに飲み込んだ。
たしかにこの結論は仲間たち全員で話し合って出したモノだし、自分はこの意見に大いに賛同した身である。
しかし今彼女が求めているのは私自身の意見であって話し合いの結果生まれた結論ではない。
彼はそう思ったからである。
「むー、でもさー」
「メア」
有無を言わさない口調でジンが少女の名を呼ぶ。しかしそれでもメアは不満を隠せそうになかった。
本当は嫌なクセに、せめて僕には泣き言の一つでも漏らしてくれてもいいのに、そうメアは思ってた。
そんな彼女の内心を察したジンは苦笑しながら彼女の頭を優しく撫でた。
「ありがとう、メア。だけど私は大丈夫だよ。もし本当に耐えられなくなったら、ちゃんと君を頼るから」
「…ホント?」
「本当だ」
「………嘘ついたら、嫌だからね」
「分かってる」
メアは目を瞑って気持ち良さげに頭を撫でられた後、今度こそ納得して荷物運びを再開する。
自分のせいで準備が遅れてしまったことを気にしてか、少し急ぎ気味に動いているようだ。
ジンもメアばかり働いているのはどうかと思ったし、遅れた最たる理由が自分の寝坊であったので、メア同様準備を急いだ。
やがて2人は準備を終え、床に描かれた魔法陣の前にいた。
後は魔法陣を発動させるだけで彼らは異世界に旅立てるだろう。
「んー疲れた!」
「うん、私も少し疲れたかな。少し休憩してから行く?」
「さんせー!じゃあいい時間だしお昼ごはんにしよっか!」
メアは荷物をまさぐり、その中から風呂敷に包まれた箱を取り出した。
「ジャジャーン! ほら、お弁当!」
「おいおい、ピクニックじゃないんだぞ?」
「似たようなもんでしょー? さ、食べよ食べよ! 今日の献立はジンの好物ばっかりで」
冗談めかして返答するジンとウキウキ気分で弁当箱を開けようとするメアの耳に爆音が鳴り響く。
2人は兵隊たちが彼らの居場所にたどり着いたことを悟った。
「チッ。ほんっと間の悪い連中だよねアイツら…」
「だね。どうする、ご飯だけでも食べていくかい?今ので入り口は壊されたようだけど、中は軽く迷宮化しておいたからここまで来るのにしばらくかかるよ」
「いや行こう。いつまたアイツらがなんか爆発させるかわかんないし、それにアイツらのせいで気を張りながらお弁当を食べるなんて死んでもヤダし」
「そっか。じゃあランチタイムはお預けだね」
「ふん、いいもーん!あっちに着いたらホントにピクニック気分で食べれるもーん!」
メアは取り出した2つの弁当箱を荷物に戻し、ジンのとなりに立った。
メアが魔法陣から退いたことを確認してから、ジンは呪文を唱える。すると魔法陣が輝きを放ち、強大な魔力の流れを生まれた。
そしてそれからほんの少しすると、魔法陣の上の空間に穴ができた。
黒々として底のない様は、知るものがいればブラックホールに例えられるが如しものであった。
「はい、完成。後は誰かがあの穴に触れるれば、僕たちはこの部屋の中にあるものごと異世界に行けるよ」
「…ホント、簡単にできちゃうんだなぁ。異世界への移動とか、今まで誰もなし得たことのない偉業のはずなんだけどなぁ。あ、ジン、別に説明とかしなくていいからね」
「いいの? どうやってあの穴を維持してるかとかあの穴がなんなのかとかならない? 手短かに説明するよ?」
「しなくていい。異世界に着いてから聞く」
「そっかぁ…」
メアが語りたげなジンをバッサリ切った。ジンは少し悲しそうだが、メアはそんなジンの反応に慣れきっていたので罪悪感はあんまり抱かない。
さてそろそろ行くか、そう考えたジンが魔法陣の上の穴に触れようとしたその時、不意にメアの手がジンの手を掴んだ。
「ん…どうしたんだメア。もしかしてまた甘えたくなったのか?この3000歳児め」
「むー。ジンこそ子供扱いしてー。年はそんなに変わんないだろー?…そうじゃなくて、おまじない。このまま行ったら、ずっと一緒にいられそうじゃない?」
ああ、なるほど。
ジンは理解した。
不安なのはメアも一緒だったのだ。
気遣いが足りなかったかなとジンは思った。
「ごめん、メア」
「ううん、感謝するのはこっちだよ」
「そうか。…じゃあ、このまま行こうか」
「いいの?」
「もちろん。私が君の頼みを断ったことがあったかい?」
「ホント⁉︎じゃあ異世界に着いたら早起き頑張ろうね!」
「善処するよ」
「あっ逃げた!もう!」
彼らはそんな話をしながら、2人で一緒に穴に触れた。そして部屋は穴から出た眩い光に包まれる。
その光は部屋の中にあった荷物を光に変え、穴の中に吸い込んだ。
やがて穴に触れていた2人も光となって穴の中に入って行った。
そうしてしばらく経った後、光を放つ魔方陣は、彼ら2人はこの世界から完全に消し去った。
かくして、物語が始まる。
いにしえの龍と現代最強の魔法使いは、新天地を求め異世界に旅立ったのであった。