肉球で掴めるサイズの幸せが、多分僕には丁度いい
自分ほど不幸な人間はいない。そう思って生きてきた。
新装開店激安セールを謳う派手なPOPが貼り出されたドラッグストア。そのぴかぴかの自動ドアに映るのは、うなだれた僕の姿だ。
黒光り、ぶかぶかのスーツ。汗だく、真っ青な顔。ひょろひょろ、貧相な体。
そこに遠慮なく降り注ぐ夏の日差し。日差しを避けようとかざす、生白い掌。
夏の日差しは嫌いだ。真っ白でまぶしくて、皮膚に刺さる。毛穴から沸き出した汗は体中を這い回る。張り付くシャツのせいで、べっとりと体が重くなる。息が乱れる。だから余計に、腹が立つ。
社会人になってちょうど三ヶ月。
スーツ姿で迎える夏は常軌を逸している。
最近は、連日30度の夏日が続く。黒いスーツは熱を吸い込んで暑くて重い。
額の汗を拭って雑居ビルのエレベーターに乗り込めば、狭くて臭い箱はやがて音をたてて上昇をはじめた。
「……」
ふうふうと息を吐きながら、僕は体中の熱と戦う。目眩が全身を襲う。頭がずきずきと痛み出す。体中の毛穴が開くような、嫌な……嫌な感触だ。冷たい舌で背中をべろりと舐められているような、そんな感覚だ。
(……だめだ)
僕はエレベーターのざらざらべたべたする壁に体を押しつけた。普段なら、絶対そんなことはしない。少なくとも、僕には潔癖性の傾向がある。
(間に合え、間に合え)
願えば願うほど、視線がゆっくりと下がっていく。僕の目眩は最高潮。嫌な感覚に瞬きすれば、ちょうど3階のボタンが息切れみたいに光ったところだった。
「……つい……た」
やがて僕を乗せた小さな箱は、激しい衝動とともに停止する。
ゆっくり開いた扉の向こうに見えたのは、大きなガラスの扉とその隣に据え置かれたパイプ椅子。
錆びた椅子の上にだらしなく中年男が座っている。
髪の毛はふさふさだが、黒光りする顔にはしわがくっきりと浮かんでいた。剥き出しの腕は年の割に筋肉がつき、血管が浮かび上がっているのがなんとも不気味である。
「よぉ」
彼は、鼻につく嫌味な笑みを浮かべて僕を見下げた。
そんな彼の膝に座る長毛の美猫が、僕を優しい目で見つめる。その目をみると僕は泣きそうになってしまうのだ。
「やあタマコさん」
「俺にも挨拶しろよ」
親父の態度は、若者に絡む中年の酔っぱらいそのものである。
彼は椅子からぐうっと体を乗り出して、僕を見下げて馬鹿にするようにせせら笑うのだ。
僕は顔を上にあげて、親父の顔をにらみつける。親父の顔は、遙か、遙か天高くにみえた。
「なあ、お前さん。最近やけに多くねえか?」
目の前にある巨大なガラス扉。そこに映る僕は、準新品のスーツ姿をまとった冴えない男……ではない。
そこにいるのは、黒と白のまだら模様の、一匹の猫。ちょっとお腹が出て、目つきの悪い、しっぽは真四角にぽきりと折れている。
頭の先は黒いのに、下半身に向かうにつれて白の配分が多くなる。なんとも不細工な柄である。
「……猫になるペースがさ」
猫が十把一絡げに可愛いなんて、そんな夢は見ない方がいい。少なくとも、ガラスに映る僕は可愛げなんて欠片もない猫だ。その猫は、僕の声で猫の言葉を吐く。
「佐藤さん、それはね。ストレスですよ」
「はあん。何がストレスになってるのかねえ」
僕の放った言葉は自分の耳で聞いても「にゃごにゃご」としか聞こえない。それなのに、不思議と佐藤さんにはこの言葉が理解できるらしい。
彼は小指で耳の穴をほじくりながら、せせら笑った。
「社会人ってのは、そんなにストレスがたまるもんかい。俺ァ、会社の奴隷になったことなんぞねえから、わっかんねえなあ」
佐藤さんが小指にフッと息を吹きかければ、何やら白い物がちらちらと舞い落ちる。それを避けるように僕はガラス扉の隙間から部屋に滑りこんだ。
「……」
小汚い灰色のビルには似合わない、そこはピンクと青に飾られた安っぽい部屋である。
中に入ると、甘い香りが僕を襲った。
それは、部屋に集まる女たちの香りだ。それと、消臭剤の人工的な香りだ。それがエアコンの風でかき回されているのだからたまらない。
僕が部屋に入ると、女の甘ったれた叫び声が僕を迎える。
「オムツちゃーん」
茶髪巻髪の女が僕をめざとく見つけて甘い声をあげた。
どうも僕の下半身の模様がオムツに似ているから、つけられた名前らしい。もちろん発案者は佐藤さんだ。名誉毀損もいいところである。しかし文句をいう言葉もない。
普通の人間相手には、僕の言葉は猫の声に聞こえてしまうのだから。
「オムツちゃんは今日もご機嫌斜めねえ」
「でもそれが猫っぽくて可愛いわよねえ」
別の女もでれでれ甘い声でいう。そんな彼女らの腕にも、膝にも、背中にも。様々ながらの猫が絡んでいる。
猫たちは僕を見て、口の端を少しだけ上げてみせた。
「こんな隅っこに座ってたんじゃ愛想もねえやな。ちったあ客に愛想振りまいてこい、ぶっさいくな面してるけどよ。毛並みだけはきれいなんだから」
気がつけば隣に佐藤さんが座っていた。彼のエプロンには、浮かれたフォントで「猫カフェ たまさん」なんて書いてある。
「訴えますよ佐藤さん」
「どこによ」
距離を取ろうとしても、彼はがっちりと腕を掴んでくる。
佐藤さんに捕まれた僕の腕は、僕から見ればどうみても人間の腕だ。情けないくらい生っ白くてひょろひょろな……僕の腕だ。
しかしどうだろう、目の前にある小さな鏡に目を移せばそこにはやっぱり不細工な猫がいて、佐藤さんに無理矢理抱きかかえられている。
これは病気だった。
数百人に一人が発祥する、奇妙な病だった。
「僕は突然、猫に変化する奇妙な病気にかかってますってか。数百人に一人発症する奇妙な病気にかかってしまい、猫の姿の時には猫カフェスタッフとして中年の親父にこき使われてますってか?」
佐藤さんは半パンからむき出しになった汚い足を投げ出して、小声で笑う。そして意地悪く僕をつつくのだ。
「変化したての若い頃じゃあるまいし、さんざん俺の世話になっておいて今更なんだ。って話だよ」
「……女衒の言いぐさですよ、それ」
佐藤さんの言葉は真実すぎて、僕はぐうの音もでない。
この病気に僕が気がついたのは、いつのことだったろう。それは確か、高校受験を控えた中学三年生。秋の頃だったと思う。
いつも通り目が覚めて鏡を覗けば、そこに猫が居た。
慌てて自分の体を見下ろしても、体はいつも通りそこにある。しかし、鏡をのぞき込めば猫がいる。僕が動けば、鏡の中の猫も同じ動きをする。
口を動かせば、それは人の言葉ではなく、野太い声でにゃあと鳴いた。
恐怖にふるえて家族の元に駆けつけると、彼らは口をそろえて猫だ猫だと騒ぎ出す。
のんきな彼らに僕が僕自身であることを伝えることができたのは、一時間も後のこと。一時間もにゃあにゃあやってるうちに、彼らの前でぽん。と人間の姿に戻ったのである。
パニックを起こして泣きわめく僕と違って、父も母も姉も呆れるほどにのんきだった。
母の祖父も、父の大叔母も、動物になる病を持っていたという。もちろん、秘密の秘密。見つかれば政府に解剖手術をされるので、そんな病を持った人たちは、家族にだけ秘密を打ち明けてあとはひっそりと引きこもっているのだという。
この病は完治することはない。薬もない。突然変異するのを、ただ黙って受け入れるだけだ。
……なんという、悲劇だ。
しかし、のんびり屋の姉などは「秘密とか格好いいじゃない?」なんてケタケタ笑った。
笑い事ではない。そのときの僕は本気でパニックを起こしていたし、政府に見つかれば解剖手術をされると思いこんでいた(多分実際には、そんなことはないのだろうけど)。
生まれ落ちて15年にも満たないというのに、恋も大学生活も真っ暗闇。まだ未完のマンガだって沢山あるのに、僕は全て捨てなければいけないのだ。
一生、猫になるという恐怖と戦い続けなければならないのか、と悲観した。
そんな僕をみて、家族はのんきに口をそろえた。「まあ数百人に一人はいるみたいだし、気に病むこと、ないんじゃない?」
なにが気に病むことはない、だ。あいつらは人の気持ちをぜんぜん理解しない。
僕は覚醒の時以降、たびたび猫に姿をかえた。それは一週間おきのこともあれば、一ヶ月おきのこともある。不定期すぎて予測もできない。
激しい頭痛と目眩が、前兆だ。全身が震えはじめて十五分もすれば猫に変わっている。
服ごと変化してくれるのは助かるが、荷物などはその場にまき散らす羽目になるし、何より人の目前で変化なんてした日には大騒ぎされるのが目に見えている。何より僕を恐れさせたのは解剖手術である。人に知られるわけにはいかない。見つかるわけにはいかない。
妙な病になった僕の生活は、これまでと一変した。目眩を感じた瞬間に、人目のつかないところへ駆けだす毎日である。まるでスパイだ。情けのないスパイだ。
たとえ授業中だろうが、友人との遊びの途中だろうが発症はいつでもやってくる。まともな高校生活など夢のまた夢。必死に人から隠れ、猫になっては授業をさぼり、友人を打ち捨てる毎日だ。
これまでの人生、彼女なんてものが居なかったおかげで、いわゆる「良いムード」の時に逃げ隠れせずに済んだことだけは助かった。
恋人はともかく、友達すらできない、成績だってがた落ちで、教師からの評判も最低なものとなった。
そんな僕は、当然ぐれた。ぐれたといっても元が地味なので、せいぜい大学のランクを落として受験したり、勉強をボイコットするくらいの反抗しかできなかったが。
その反抗は、大人になって丸ごと自分に降りかかった。
地味な僕が小学生から抱いていた将来の夢は、「残業のない」「地味で」「単調な」、そんな仕事について死ぬまでそこで働きたい……ということ。
そんな夢は、あっさりとつい果てた。優良企業はこぞって大手の大学卒の手をつかむ。残されたのは、僕には絶対向いていない営業、力仕事、あるいはブラック。
ようよう滑り込むように決まった仕事は、よりにもよって広告代理店の営業だった。
新社会人となって三ヶ月。ストレスのせいだろうか、最近は週に一度は猫になる。僕の人生は、暗黒だった。
「急に猫に変化するなんてさ。そんな病気をよ、誰が信じるのよ? え? 警察まで猫の姿でいくってか? 普通の人間には、猫がにゃあにゃあ鳴いてるくらいにしかみえねえよ? 人の姿でいってみな。それこそ、相手にもされやしねえ」
佐藤さんのごつごつとした手が、僕の頭を乱暴になでた。
「やめてください。本当に嫌な人だ。ああ僕はなんて不幸なんだ」
「一人で不幸ごっこは楽しいかい。見てみなよ。目の前の猫たちをさ。お前と同じ境遇なのに、みーんな、あんなに楽しそうにやってるじゃねえか」
佐藤さんはいやらしい笑みを浮かべて僕をみる。僕はまるで蛇ににらまれた蛙だ……猫だけど。
この佐藤さんとは、大学の頃に出会った。
入った大学には「動物に姿が変わってしまう」人々が集う裏サークルがあったのである。猫だけではなく犬に鳥、魚なんて人もいた。特に魚は水を持ち歩いておかないと、それこそ命の危機だと熱弁を振るっていたものである。
はじめて出会った仲間たちに僕も最初は浮かれたが、所詮は僕は内弁慶だ。そんなニッチな集まりでさえ僕はなんとなく浮いていた。
そこで教えられたのがこの店だ。猫限定で突然の変異時にかくまってくれるという。
紹介を受けてきてみれば、そこにいたのがこの佐藤さん。
ほいほいと彼の軽口に乗せられて、気がつけば僕は無償で彼の経営する猫カフェの非常勤猫スタッフになってしまった。
つまり、突然の変異時にはかくまってくれるが、その間は無償で客に愛想を振りまけ。というわけだ。
「いいじゃねえか。特におまえみたいに、不定期に猫になっちまうやつは、どうせどこにもいけやしない。昨今じゃ野良猫も保健所のやつらに目を付けられるし、石だって投げられる。かといって本物の猫との縄張り争いに勝てるほど、強くもねえ。結局はここに逃げ込むしかねえんだ。逃げ込んでくるなら、ついでに猫カフェのスタッフとして数時間、客と遊んだって罰はあたらねえだろ」
佐藤さんは乱雑に僕の頭をなでる。あまりに乱暴なので、目眩がおきた。
「ぼ……僕等を保護してくれるのは助かりますけど、でもなんで猫カフェなんですか」
僕は汗くさい佐藤さんに抱きしめられたまま、必死に身悶えした。
「かくまうなら、普通に家に匿ってくださいよ」
この店にいる猫の九割は僕と同じ病の持ち主だ。
しかし彼らは脳天気に、人間と戯れている。なかには、ただで女の子にさわることができる。なんていう不埒な中年もいる。
みんな、脳天気に過ぎるのだ。馬鹿なのだ。この病を、楽しむなんて馬鹿ばかりだ。
「何で僕は、こんなところに来てしまったんだろう」
猫になってお得なことは、体が柔らかくなることだ。人間の姿ではけしてできないようなポーズも軽々できる。
しかし、佐藤さんのように猫慣れしている人間の腕から逃げ出すのは容易ではない。必死に身をよじっても、腕を突っ張っても、彼は軽々僕を押さえ込む。
「家に何十匹もかくまえるかよ。それにおめえらの餌やら、トイレの水やらどっから出してるとおもってる。大人しくトイレシートを使えば良い物を、口を揃えてトイレシートは嫌だと言いやがる」
「人前でトイレなんてできますか。これは人間としての尊厳ですよ」
「おめえらがいちいちトイレで水を流すのを失敗するせいで、こちとら水道代が馬鹿みたいにかかってんだよ。そんなら働いて、自分らの光熱費とおまんま代くらい稼いで貰うのが筋ってもんだろ」
「……儲けてるくせに」
古い雑居ビルとはいえ、部屋は広い。僕と同じ病にかかった猫の数は15匹。もちろん常時変異しているわけではないから数は変動するものの、だいたい平均して6匹は詰めている。
客の数は安定して、いつでも8名前後。週末になればもっと膨れ上がる。待ち時間が出るときもある。
人気の秘密は猫の愛想のよさだ。当然だ。彼らの中身は人間なのだ。猫好きを手玉にとるなんてわけもない。
カフェの価格はほかの猫カフェとそう変わらないらしいが、ドリンクや食事の利ざやで佐藤さんはひどく儲けている。
それにふつうの猫カフェなら24時間猫を飼う必要があるが、ここはそんな必要などない。偽猫たちは数時間から長くても10時間で人の姿に戻って勝手に自宅へと帰って行くのだし、餌だってペットフードじゃない。客に出しているものとおなじ、冷凍の焼きそばやチャーハンだ。
「あんたは僕等のおかげで悠々自適の快適生活だ」
「ひがむな若者。この世の中は、搾取する側が勝ち組なのよ」
佐藤さんは下衆い大人の顔をして僕に臭い息を吐きかける。
「伝説のTSさんの話をきくかい」
調子が乗ってきたときの佐藤さんは、いつもこうだった。彼は僕の体をひょいっとひっくり返して腹の毛を乱雑にかき回す。ぞう。と背筋がふるえた。
「久々に話してやるよ、伝説のTSさんの話をさ」
久々、なんていうが彼が口にする「伝説のTSさん」は、佐藤さんの十八番である。その名前を聞かない日はないくらいだ。
嘘なのか本当なのか、彼がいう伝説のその人は、僕ら偽猫の大先輩。歴戦の猛者であるという。
「TSさんは数々の冒険を超えてきた猛者だがよ。いつか言ってたね。ほんものの猫と、お前等みたいな偽猫には大きな違いがあるってな」
僕は佐藤さんの手を払いのけるべく、必死に抵抗する。佐藤さんは軽々僕を抱き上げて、高く高く持ち上げた。
「偽猫は、人に対して爪も牙もたてられない。それが偽故の甘さだ。その点、TSさんは違ったぜ。TSさんは、遠慮なくかみついた、ひっかいた。それが自分の運命に立ち向かうってことよ」
佐藤さんの手を肉球で押し返すしかできない僕は、舌打ちをする。猫の身では舌打ちの音も出ず、ただただ妙なうなり声が漏れるだけだが。
その声を聞きつけたのか、店の客が黄色い声を上げた。
「オムツちゃーん。今日はご機嫌がいいのかな~? おじさん、オムツちゃんさわってもいい?」
「はいはい。どうぞどうぞ。こいつは人見知りでいけねえや。思いっきりさわってくれよ。どうせこいつだって、そんなのが好きなんだ」
佐藤さんは女衒の顔をして、僕を客に差し出す。女たちはきゃあきゃあと騒いで僕の腕をとる、遠慮なく腹肉をつまみあげる。
「どうせお前さん、人の姿んときは、若い女の子に触ることもできねえだろ。思いっきり触ってきなよ。役得役得。みんなそうして、楽しんでんだ。伝説のTSさんも、こういってた……」
佐藤さんの戯れ言を無視して、僕はもうあきらめの体に入る。ぐったりと目を閉じて、だらしなく寝転がって、人間の、客の手の、好きなようにさせてやる。
なんという屈辱。なんという自尊心の欠如。
そして僕は、時が経つのをまつのだ。
僕がこの病で救われていることはただ一つだけ。それは1時間ほどで元の姿に戻れる、ということだけである。
「川辺!」
「はいっ」
エアコンの心地よい風に一瞬意識が途切れたそのとたん。頭に衝撃を受けて僕は立ち上がる。
はっ。と気がつけばたくさんの視線が僕を貫いた。ここはどこだ。猫カフェか、家か。路上か。そもそも自分は人間か、猫か。色々な思考が頭の中を駆け抜けて、色々と考えあぐねた結果、ここは会社で、僕は黒いスーツのサラリーマンであることを、思い出した。
「お前、寝てただろ」
僕の頭を丸めたケント紙で殴打したのは、スーツ姿の女である。
攻撃的にとがった目尻を見て、僕は思わず背を正す。彼女の目の縁が赤い色で囲まれているのが恐ろしい。それは捕食者の目だ。
「いえっ寝てませんっ山下課長!」
女の年齢はいまいちわからない。でも課長なのだからそれなりの年のはずだ。
顔は幼くもみえるが、老けてもみえる。いつも戦闘服みたいながっちりとしたスーツを着込んで髪の毛をまとめあげているので、僕は心のなかで鬼教官と呼んでいる。
「寝てません……」
「寝てたね。新人三ヶ月目で居眠りとかいい度胸だな」
周囲から突き刺さる同僚、先輩、上司の視線から逃れるように僕はしおしおと椅子に座りなおした。
ちょうど眠気がピークになる十四時。特に猫になってしまった日の翌日はいつもより、眠気がひどい。たぶん体力を使うのだろう。
気がつけば、書類を抱えたままうつらうつらと眠りこけ、それをよりにもよって鬼教官に見つかったというわけだ。
こんな時、電話の一つでも鳴ってくれたら救われるが、リンとも鳴らない。社内の人たちは、居心地悪そうに顔を俯けたり書類で顔を隠したり。僕は額からだらだら汗を流して、小さくなった。
「……それは、ですね……」
「はい、また言い訳。お前、自分の言い訳の数数えたことあるか? 一日に何回言い訳すれば気が済むんだ?」
鬼教官は僕の顔をにらみつけ、手にしたケント紙で思い切り僕のデスクをたたいた。
ばん、と大きな音が耳に刺さる。猫に変異するようになって以降、大きな音が苦手になった。ストレスで胃がきゅうっと締め付けられる。真っ白なケント紙の色が目に刺さる。
「これ、まとめて片づけておけ」
「は、はい……」
「それと、再来週の26日、開けておけよ」
「え。26日って日曜……休み」
「はあ?」
必死に抵抗をみせたが、鬼教官の目は、それ以上に厳しかった。
「撮影についてこい……と、昨日言ったはずだ。大がかりだからな人手がいる」
「さつ……えい?」
僕はぽかん。と口を開けた。そう言えば昨日、会議の時に何かを言っていた気もする。しかしこちらは変異直前の吐き気と頭痛でそれどころではなかったのである。
「ポスター撮影だ。おまえ、ここが何の職場か分かってんのか。その頭ん中、スポンジでも詰まってんじゃないだろうな?」
山下教官はせせら笑う。この会社はやけに静かなので、その声だけが妙に響きわたった。
そして同時に、僕はここが広告代理店であったことを思い出すのだ。
入社して三ヶ月。営業のはずの僕は、制作課の課長付きとなり雑用ばかりこなしている。
「というか、撮影とか俺、はじめてで……」
「新商品のな。ライオンを使うことになった。まあ調教師がいるから安全だ」
「え。でも、一体、なにを」
「荷物番とライオンの餌やり」
「へ」
山下の口からは矢継ぎ早に言葉が繰り出される。僕はその言葉に飲まれて、気がつけば立ち上がっていた。
周囲から、哀れむような目線が注がれる。
その周囲の視線は、山下にも刺さっている。
彼女は攻撃的な赤い唇をゆがめて、はじめて少しだけ笑った。それはあまりにも自嘲的なほほえみではあるが。
「私の仕事は予算が全く降りないんだよ、察しろ」
そして僕は察するのだ。この会社での僕の立ち位置は、いまや窓際に追いやられんとするこの上司の同乗者。沈まんとする小さな船の上にいるのだということを。
「そもそも僕は、広告代理店なんて入りたくなかったし、そもそも営業なんて絶対いやだったんだ。僕は内勤の、できれば事務職とか、書類だけ触ってるような仕事で…縁定時あがりで、給料なんてやすくていいから、そういうので……」
僕は珍しくも飲めない酒を煽って、猫カフェの床に寝転がっていた。
猫にならなくても、僕らは常時、この店の出入りを許されている。
ここにくれば少なくとも酒と冷凍食品だけは食べ放題だ。普段の無償奉公の憂さ晴らしに、酒と飯をたかりにくる偽猫は多い。
「無理するのは嫌いだし、ごたごたするのも揉めるのも喧嘩するのも、全部いやだ。僕はただ平穏に暮らしたいだけなんだ」
「難儀ねえ」
僕のグチを、きゃらきゃら笑いながら聞いてくれるのはミキさんだ。変身すればそれは愛らしい茶虎猫になるが、人間の姿だと中年太りのおばさんである。
髪の毛は輪ゴムでまとめられているし、恰好だって寝間着のようなペラペラのシャツだ。それでも性格だけは優しかった。
彼女が病を発症したのはここ数年のことで、そのせいで夫は子供を連れて出ていってしまったという。
「こんな波瀾万丈なんて、求めてなかったんだ」
「あたしだって波瀾万丈よ。でもさ、猫になったおかげでただ飯は食べられるし、猫になれば子供の姿を堂々と見に行けるし、まあそこまで悪いってことはないわねえ」
ミキさんは強い。がはがは笑って煎餅を両手で掴んでばりばり食べる。その強さが僕にはまぶしい。
「そんなに嫌ならさ、やめたら? 最近の新人ってすぐやめるんでしょ? それに飯ならここで食えるし、すぐ飢えて死ぬってことはないしさ」
そんな差別的な口撃をしてくるのは、社会人三年目のアキヒトさんである。
ちゃらちゃらホストめいた格好で、何をしているのやら分からない。社会人歴が長いというだけで先輩風を吹かせてくるのが嫌な奴だった。
こんな男でも変身すればきれいな黒猫になるのだから、神様は不公平である。
「やめられませんよ……首になるのもいやだ……」
こんなグチを吐いておきながら、僕は今の会社を辞めることはみじんも考えていない。
嫌な会社ではあるものの、新卒のカードを使って会社にはせめて三年はしがみついておきたかった。またあの面接を繰り返すのかと思うとぞっとする。
だからせめて三年。無理なら一年。ここにしがみついて、ほどほどの働きで程々に生きていきたい。それが僕の願いであり、夢だ。
しかし、それもきっと叶わない夢なのだろう。
「でも、そうだよな。こんな猫になるってことからして、僕の人生はくるってしまったんだ」
中学生以来、何回ついたか分からないため息を僕はつく。その腕に、柔らかい毛並みがからみついた。
「タマコさんは、いいなあ……もとから猫なんだから」
僕を気遣うように、そうっとそばに来てくれたのは一匹の猫である。ふわふわの真っ白な長毛。すらりとした体の線。思慮深い、顔立ち。まるで宝石のようにきれいな青の瞳。
しかしもったいないことに、片目は深い傷によってふさがっている。その欠損さえ、タマコさんの美しさを翳らすことはない。
この店にいる本物の猫は一匹だけだ。入り口も悠然と座る、このタマコさんだけである。堂々としたきれいな猫背をみるたびに、僕は本物の猫の威圧感、というものに感動を覚えるのである。
タマコさんは佐藤さんの愛猫で、年齢は不明だがもういい加減良い年だろう。そのせいか、いつも落ち着いていて、まるで人間の言葉が分かるように寄り添ってくれる。
そのビロードのように柔らかい背を撫でると、涙が出そうになった。タマコさんは、優しい。
「まあ俺もさ、最初は嫌だったし困惑もしたし、母ちゃんには包丁もって追いかけられて、挙げ句絶縁されたけどさ。最近は猫でよかったなあって思ってるよ」
アキヒトさんは安い酒を一気に飲んで、臭い息を吐く。
「アキちゃんのお母さんひっどいなあ」
アキヒトさんの声に釣られるように、周囲からぽん。ぽん。と頭が生えた。
ぎょっとすることも、もう無い。それは、先ほどまで猫だった連中だ。彼らは床から延びるように、にょっきりと起き出す。
人間に戻ったばかりの時、目つきはちょっとだけ猫に寄る。猫のようなアーモンド型の瞳がだんだん丸くなり、瞳孔が広がり、そして僕らは人になる。
「犬の方がかっこいいけどさ、突然往来で変化しちゃったらさ、ほんと行き場なくって困るみたいよ。最近は野良犬とか厳しいでしょ?」
「そいつらもこういう互助会みたいなのあるのかね?」
「あ。犬はあるみたい。鳥もあるけど、鳥は難しいみたいね、ほら、カラスとかトンビがいるから集まる場所を決めるのが難しいんだって」
「ライオンとか、猛獣ってどうなのかな?」
「食物連鎖の上の方はどうなんだろうね。あんまり聞いたことないけど、滅多にいないんじゃない? 居たとしても、生きてくの難しいよねえ」
「それこそ、どこかに飼われて俳優でもするしかないよな」
人間に戻った瞬間から、彼らはきゃあきゃあ口やかましい。好き勝手に冷凍食品を漁り出す。その声に呼ばれたように奥からはのっそりと佐藤さんが顔を出した。
「よおオムツ。またグチグチいってんのかい」
「やめてください。僕には川辺っていう名前があります」
「ん? 猫辺ってか?」
面白くも無い冗談をいって佐藤さんは一人で大笑いをした。そして僕の隣にどっかと腰を下ろす。
「人の幸せなんてもんはよ、だいたい誰もが似たようなもんなんだ。不幸せのほうがバリエーションが豊富なのさ……って、伝説のTSさんも言ってたよ」
佐藤さんは腹をかきながら、僕が解凍したばかりのチャーハンを抱え込む。
「あ。僕のチャーハン」
「伝説のTSさんは若い頃にアマゾンの奥地を旅したって、言ってたなあ。そこで猛獣や化け物なんかと巡り会った、戦った。その壮絶な戦いの中で悟ったのは、星の数ほど不幸せがあって、みんなそれなりにそれを受け入れている……ってことらしい。にこにこ笑ってるやつらにも、それなりの不幸があるもんさ」
僕がずっとねらってた「直火焼き黒チャーハン」は、あっという間に佐藤さんのお腹の中におさまった。タマコさんだけが非難するように、佐藤さんの膝を尾で殴ってくれる。
「わっかいオムツにゃわかんねえかなあ」
「分かりませんよ」
僕の晩飯は消えてしまった。仕方なく安酒の水割りをちびちびと飲む。節電のために、客が居なくなれば部屋の電気は落とされる。みんな、猫なのでそれなりに暗闇でも目は利くのである。
しかしエアコンも電気も落とされた部屋はむうっと蒸し暑い。その中に、様々な年齢の男女が集って冷凍食品を食べている……。
「みんな気軽すぎるんだ。この病は治しかたも何も解明されていない。猫になったままもし人に戻れなかったらどうするんです。もう二度と、人間の姿に戻れなくなったら……」
「さあねえ。そしたらここの猫カフェの常勤スタッフになるわ。少なくとも、飯とトイレには苦労しないし、月に一度くらいは子供の様子、見に行かせてくれるならそれでじゅうぶん」
ミキさんは冗談でも笑えないことをいって、笑う。
今、部屋にいるのはミキさんにアキヒトさん。そしてオタク趣味の女子大生に、警察官、無職にフリーター。みんな、誰一人悩んでない。猫を満喫し、冷凍食品を堪能している。
その中で落ち込んでいるのは僕だけだ。いつも、そうだ。
「こんな僕の気持ちなんて誰にも分かってもらえないんだ」
「ああ。俺は猫になれねえからな」
佐藤さんは空いた皿をぽんと投げ捨てて僕の頭を強くこづいた。
「もし猫から戻れなくなったら? そしたらここで飼ってやるからよ。いつでもここに来い」
僕は反論の言葉を言い掛けて、それをぐっとのどの奥に押し込める。なぜか、佐藤さんが妙に怒った顔にみえたのだ。それは、この薄暗がりのせいもあるかもしれないが。
「……最低だな、あんたは」
だから僕は、せめてそれだけ呟いた。
(最低だな、僕は)
僕は、そんなことを考える。そんなことを考えながら、伸ばされた腕の愛撫を堂々と受け入れた。
手は見た目より細くて長くて白い。そして柔らかい。その手が、僕の頭といわず、腹や腰を撫でまくる。
「オムツちゃーん」
すぐ目の前で目尻を下げて僕を撫でまくる。その人は、誰であろう。あの鬼教官なのである。
会社では絶対にみることがないデレデレ顔に、デレデレの言葉。そんな山下課長の顔を真正面からにらみつけながら、しかし僕は妙な達成感を味わっている。
だから彼女が喜ぶように、短いしっぽを山下課長の腕にすり付けることもするし、ごろごろとのどを鳴らしてやりもする。すると彼女はこれ以上ない顔で笑うのだ。
それを見て、僕の背はぞくぞくと震える。
なんという、薄暗い快楽だ。
僕は最低だ。
「聞いて聞いて。また上司がさー私の悪口いうし、くそ営業はクライアントのことばかり優先するし、新人は覇気がないし」
山下は甘い声をあげて僕をぎゅっと抱きしめる。もし自分が抱きしめているのが、普段小馬鹿にしている新人の川辺だと知れば彼女はどんな顔をするのだろう。
「ああ~オムツちゃん柔らかくて気持ちいい……」
いつからだろう。彼女がこの店にくるようになったのは。
おそらく、ここ一ヶ月くらいのことだ。はじめて彼女をこの店で見たとき、僕の背と尾の毛が一気に膨れ上がったものである。
逃げようとした僕を掴んで彼女の膝に押しつけたのは、佐藤さんである。
それ以来、彼女は僕の毛並みに夢中だ。
「山ちゃん、また酔ってるのかい」
「そうよー。せっかく大きな仕事が決まったのに、予算がぜんぜんおりないの。どうせ私はお払い箱よ。失敗をみんな、わくわくしながら待ってるの」
今日もまた、閉店時間ぎりぎりに駆け込んできた山下の前に、佐藤さんは僕を放りなげた。
山下はセンスが悪いのか、不細工な猫が好きらしい。
佐藤さんはにやにや笑いながら僕と山下の目の前に腰を下ろした。
「新人も覇気がねえってか」
「営業のね。ほんとは営業なんだけど、あんまりに覇気がないから私の下に回ってきたの。ほんと酷いのよ。いきなり居なくなって1時間くらい戻ってこないの。それが、ざらにあるの」
酔うと山下の口調はがらりと変わる。普段は厳しすぎるくらいの声なのに、酔って猫カフェに押し掛ける彼女はまるで情けない。
しかしそれを眺めて、普段の鬱憤を晴らすのが僕の暗い楽しみでもあった。
「最近の若い子はほんとみんなやる気なくってあきれちゃう。独り言ばかりいうし、反論ばっかり一人前だし、ぜんぜん仕事のやる気もない。すぐ昼寝するし」
ドスドスと、その言葉の一つ一つが僕につきささる。隣の客と戯れるミキさんが、哀れむように僕を見ていた。
しかし佐藤さんは気遣いの色ひとつ見せることなく、僕の額をこづく。
「いやだねえ。おお、いやだいやだ。そんな若いのが俺の下にいたら、分殴って路上に放り投げるよ。でもさ、山ちゃん。そのでっかい仕事ってのがうまく行けばみんなから一目おかれるんだろ」
「……そうねえ」
山下の口調は、どこか元気がない。
ここ最近、ずっとそうだ。そもそもうちの会社は、この気の強い女教官をどこか嫌っていた。
気が強く、独断的で自由きまま。だから使いにくい。と、こそこそささやく陰口をきいたこともある。
しかし誰より長くこの会社の一線で気張ってきた女課長は、ちょっとやそっとでは引きやしない。そして辞めさせることもできやしない。
そのせいで、最近彼女に回される仕事はみんなが嫌う、面倒な仕事ばかりだ。それでも彼女はめいっぱいの力でぶつかっていく。
それに引っ張りまわされるのは、僕だ。
きっとこの人も、僕とは別のベクトルでまじめなんだろう。と、思う。
だからといって彼女と相容れる気はいっさい無い。
今もまた、撫でまくるその手は乱暴だ。こんな気遣いのなさが、嫌なのである。
「でも動物と子供は撮影に向かないっこの世界では常識でね……まあそんな面倒くさい仕事だから私にきたわけだけど」
短いしっぽを捕まれて僕はぎゃっと悲鳴をあげる。本当の猫でなかったことを彼女は感謝すべきだ。少なくとも、僕には噛みつかないだけの理性がある。
「安心しなよ。そのライオンってのは俺の知り合いの、専門業者のやつだろ。おとなしいし、撮影慣れしてるさ。あとはその新人ってのがガンバレばいいんだ」
「そうねえ」
ふう。と山下がほほえんだ。それは見たことがないような、ほほえみである。ちょうど真下から見上げて僕はぎょっと震えた。
「……人がね。いないのよ」
彼女の瞳の隅っこに、うっすらと浮かんだ銀の玉はなんだろう。と、思ったとたんにその粒がぽつりと僕の額に着地したとたん、尾がぶわっと広がった。
「大きな仕事なのに、ぜんぜん人を回してもらえない。私ばっかり。失敗したら、たぶん、もうあの会社にいられない。ずっと、がんばってきたのに」
普段なら絶対見せない顔をして山下が泣く。真下から見上げる彼女の顔は、悲しみでゆがんでいるのではない。
悔しさで、ゆがんでいる。
「でもきっと、うん。あの子なら」
「期待してんのかい」
「ううん。別に」
山下は僕の体で涙をぬぐうと、きりっと顔をあげた。
そして、また楽しげに僕の腹に顔を埋める。
「でもあの子、動物に好かれそうな顔してるから」
だから、大丈夫。自分に言い聞かせるように呟いた声は僕の腹に吸い込まれた。
日曜は、嫌になるほどに晴天である。
「遅いっ」
「はいっ」
僕は背と腰と両腕に機材を持たされてふらふら日差しの中を駆けていた。
目の前を、手ぶらで悠々歩くのは山下だ。先日、僕の腹で泣いていた時とは打ってかわって、相変わらず教官の顔をしている。
先日の泣き顔は、その鉄面皮の顔からは想像もつかない。外で見る彼女はいつでも鬼教官の皮を被っている。
まるで僕のようだ。人の皮を被っている、僕のようだ。
「早く歩けっ」
真っ白な日差しの中、彼女の戦闘服みたいなスーツと凶悪にとがったハイヒールだけがまっすぐ黒い影を落としていた。
「あのっ山下課長!」
「なんだ!」
「今日は、どんな撮影を」
「お前、台本読んでないのか!」
目つきも鋭く振り返った山下課長の目は究極にいらだっている。そして鞄につっこんでいた紙を僕に押しつける。
「モデルの女がライオンの前で大きく腕を広げる、そんな写真だ。ただしモデルを雇う金なんぞはない」
「え」
紙に書かれた要旨は、新薬のコンペポスターである。病に打ち勝つ。がテーマで、巨大なライオンの前で女が腕を広げて戦う意志を示す。それだけだが、コピーが決まればきっとかっこいい。素人ながら、それくらいは僕にも分かる。
しかし……僕は要旨を握りしめたまま、おそるおそる周囲をみる。
そこは郊外の港に作られた広い駐車場の一角だ。撮影許可を得て、今は車を全てはらってある。そのせいで、不安なほどに広く見えた。
「あの……写真って合成じゃ駄目なんですか……」
「デザイナーを雇う金が無い。幸いにもライオンは知り合いからタダで借りることができた。それなら撮影するほうが、安上がりだ」
そこにいるのは、僕と課長。そして古いなじみのカメラマン。
「そこのカメラマンは、私の頼みなら格安で受けてくれるからな」
「ええもう、山下さんのお声とあれば」
そんな僕等の真向かいには、大きなコンテナと、獣臭いホロつきの檻。その前にたつよぼよぼの作業着のおじいさん。それだけだ。
撮影によくみるメイクアーティストもいなければ、サポートしてくれる人の影もない。もちろんモデルの女など、どこにもいない。
「だから私がやる」
課長はすう。と息を吐くと、その場でスーツを脱ぎ捨てた。真っ黒なスーツが払われると、なかから現れたのは真っ白なドレスだ。スカートも、まるで捨てるようにその場に落とす。それは、レスラーがローブを脱ぎ捨てリングに上がるシーンに似ていた。
真っ白な足に、薄い薄い白のドレスがさっとからみつく。光が射し込み、体のラインがくっきりと見える。カメラマンがヘタな口笛をふき、胸のあたりに構えたカメラのシャッターを、切った。
しかし課長は怒ることもしない。落ちたスーツのポケットから口紅を出すと、鏡も使わず塗りたくる。そしてまとめてあった髪を乱雑にほどく。
想像以上に長い髪が、真っ白な宙に舞った。
「あ……危ないですよ」
「まあ体の線や顔に自身はないが、それはソフトでいじればなんとでもなる」
「そっちの意味じゃなく!」
分かってるさ。と、課長は呟く。その目に、悲しみもあきらめもない。ただ力強さだけがある。
「大丈夫だ。このライオンは知り合いの人から勧められた子なんだ。温厚で優しいことで有名らしい」
課長の目はライオンの入ったホロを見つめていた。僕はそれをきいて、はっと思い出す。そうだ、このライオンは佐藤さんのツテである。つまり、このライオンも病の持ち主だろう。
いつだったか、猫カフェで交わした会話を僕は思い出す。ライオンに変化してしまう病の持ち主はどんな風に生きているのか……動物俳優にでもなるしか道はない、と。
課長は会話を打ち切り、僕の背を強くたたいた。
「お前はカメラのじゃまをしない場所でサポートをしろ。ライオンを放すぞ。気を引け、絶対にライオンの目をよそに向けさせるな。おい、カメラっ」
「はいっ」
「何があってもお前はシャッターを切り続けろ。離れておけ。絶対に、前に出るな」
足先でスーツを蹴り上げると、課長はまっすぐにホロへと向かう。その背は細いくせに、ひどくかっこいい。
真っ白な日差しに、真っ白などレス。真っ青な顔に、振り上げた拳。
らしくないけれど、僕は、不思議と感動していた。
「気をつけてくださいよ」
調教師のじいさんが、よぼよぼの手でホロをとるとむっと獣の香りが満ちた。風向きのせいだろうか。息が詰まるほどに、くさい。
それは肉と血と、毛皮に染み着いた獣独特の香りだ。猫とライオンは同じ種族だというが、全く違う。少なくとも、ライオンの野生は臭い。
課長はちっとも動じず、まっすぐに檻へとと向かっていく。カギが開かれる、扉が落ちる。ライオンが立ち上がる。ゆっくりと、ライオンの太い足が地面を踏む。調教師のじいさんは、一歩引いた。
「あ……」
ライオンの顔は、鋭い。仲間であれば僕をみただけでなにか通じるものがあるはずだ。しかし、全く僕をみない。暑さにいらだつように、足で地面をかいている。
調教師のじいさんが顔色を変える、カメラのシャッター音、大きく広げられた課長の腕。そしてライオンの腕が思い切り、山下課長の体を押しとばす。これは、ほぼ、同時であった。
「……へ?」
白いドレスがきれいな曲線を描いてふんわりと、宙を飛ぶ。日差しを吸い込んだ柔らかいドレスの隅っこがひらひら揺れる。それを見て、僕はぽかん。と口を開けた。
「か、課長!」
課長の体が遠くの地面にどさりと落ちる音が聞こえた時、僕ははじめて叫んだ。カメラマンも悲鳴を上げる。しかし、彼はまるで腰が抜けたようにその場に座り込み、それでもシャッターを切り続けていた。
駆けつけようとしても、彼女が落ちたのはライオンの向こう側。山下課長は暑いアスファルトにたたきつけられたまま、ぴくりとも動かない。
ライオンは、大きな頭を彼女のほうにぐいっと向ける。
「くそっ!」
調教師のじじいといえば、まるで役にたたない。真っ青な顔で、どうどうなどといいながら、じりじり後ずさりする始末だ。
ライオンの目は鋭い。それは我を失った目線である。いけない。これは。いけない。
「くそ!」
思わず、僕は駆けた。体に巻き付く邪魔なネクタイを片手ではずして、無我夢中にライオンの前に駆けつけた。
「聞けっ」
近づくと、ライオンのうなり声がよく聞こえる。ぐうぐうと、その音は地面をふるわせるようで恐ろしい。
しかしこのライオンもまた、僕の仲間なのである。何をおびえる必要もない。ただ、ライオンに変異してしまうくらいだから、性格はずいぶんひねくれているようだが。
「……俺も、お前の仲間だっ」
佐藤さんは運良く遠くへとばされた。カメラマンもずっと遠い。調教師のじいさんはどうせ耳だって遠いはずだ。
だから僕は遠慮なく、言い放つ。
「仲間だ!」
言い放った瞬間、僕の体がぐらりと揺れた。ライオンが何をしたわけではない……これは、目眩だ。
(くそ……こんな時に)
目眩がする。くるくると、視界が回る。これはだめだ。これはいけない。この目眩は、だめなやつだ。
しかしライオンは、僕のよろめきにもいっさい気遣わない。
僕の声が聞こえないのか身を屈めてうなり、にらみつけてくる。
先ほどまでは課長に向かっていた目線が、まっすぐ僕にそそがれる。
その充血した赤い目は、僕の握り拳ほどもあるだろうか。毛は逆立ち、臭い。口から漏れた歯は赤黒いし、うなり声は大地をふるわせるほどだ。
怒っている。これは明らかに怒っている。
それはそうだろう。と、僕はライオンを哀れむように見つめた。ただでさえ、暑いこの季節。動物に変異するのだって、疲れるのだ。
つかれるだけではない。このまま元に戻れなかったらどうしよう、という不安感。悲しみ。そっとしておいてくれるならともかく、檻に詰められ駐車場に運ばれ、こんな風に見せ物のようにこき使われる怒り。
「その気持ちは、分かる……怒る気持ちもわかる。でもお前は今、人間じゃないんだ。殴るだけで、簡単に人は死ぬ」
僕はもう彼の目に訴えかけるしかできない。
そうだ。変異を遂げた僕達は、時に人よりも強くなる。この理不尽な怒りを、人にぶつけることはいくらでもできる。鋭い牙で、爪で、人間を傷付けることもできる。しかし、けしてやってはならないことだ。
なぜなら、僕等は人間だからである。
ライオンの目に浮かぶ怒りはなかなか溶けない。僕はもう、ただただ懇願した。
「お願いだ。一度、一度で良いから檻に戻ってくれ……もうこの撮影はやめる。僕が謝ってでも絶対、やめてやる。怒るのは分かる。変異なんてするせいで、こんな暑い中、撮影なんて……お前もきっとこれまでいっぱい苦労したんだろう」
が、とライオンが口を開けた。まるで洋画のオープニングで見られる、あれだ。
しかし目前でやられたらたまらない。臭くて生ぬるい風が巻き起こり、髪もシャツも全部が舞い上がった。
すぐ目前に見えたライオンの口内を見て、僕は震えた。むき出しの歯はとんでもない迫力だ。
しかし、僕は逃げ出しかけた足を、ぐっと前に進めた。
「……人を襲ったら、お前だって実験室いきだぞ。解剖手術をされるぞ。僕らだって、佐藤さんに噛みついてやりたいのをぐっとこらえてるんだ!」
今や、ライオンが凝視するのは僕だけだ。
僕が見つめる先も、ライオンだけだ。
「……お前ばっかり不幸って面するんじゃない!」
その言葉は、自分で放ったくせにまっすぐに自分につき刺さった。
病気になってしまったせいで、夫に子供を取られたミキさん。親に捨てられたアキヒトさん。頑張りすぎたせいで仕事を干されそうな山下課長。
……いまや、目眩は限界だ。まだちゃんと人間で居られるのかどうかも、もう分からない。
僕は必死にライオンの前で腕を広げた。地面に映る自分の影だけが、頼りだ。まだ、僕は人間だ。人間のままだ。
そうだ。僕は人間だ。
「お前もっ! あの佐藤さんにだまされた口だろ! 怒るのは分かるが、俺の顔に免じて」
カッと目を見開く。その目を見て、ライオンの口が不意にとじた。
「ここはこらえてくれ!」
ライオンは充血した目で僕をみる。しかし先ほどまでの凶悪な目ではない。まるで何かを悟るように彼は小さく頭を下げた。
そのたてがみで僕の腕をそっと撫でる。まるでタマコさんのように。
そして、彼はゆっくりと檻へと向かったのである。元の場所にちょこんと収まると、威風堂々と座る。尾が、ゆるやかに延びて床を一度だけたたいた。
「……ありがとう」
遙か遠くまで逃げていた調教師がようよう駆け戻ってきて、震える手で檻を閉める。檻の隙間からみたライオンは、悲しいくらい優しい目をしていた。
「川辺え」
しばらくは、静寂である。
自分の体を流れるどくどくという血流の音だけが、うるさかった。
「川辺え……」
次に聞こえてきたのは課長の声。そして、僕の背を強く殴りつける、痛みだ。
目眩と頭痛は最高潮。僕はその場に、座り込む。
「やったなお前! いい絵が、撮れた。うん、いいぞ!」
顔を上げれば、そこに立っているのは課長である。
彼女のドレスはぼろぼろで肩なんてむき出しだ。足には血がにじみ、顔にもアザがある。しかし痛みなどないように満面の、笑みである。
「お前、体の線が細いからちょっといじれば女に見える。服をこう……ドレス風にして、髪を付け足して……うん。いいぞ、お前はじめて役にたったなあ」
彼女が手にしているのはカメラマンの巨大なカメラだ。持ち主のカメラマンは、といえばさっきと同じ場所で完全に腰を抜かしていた。
しかし課長はいっさいかまわないように僕にカメラの背面を見せてくるのだ。四角い画面に映っているのは、僕だった。
カメラマンはああみえて、プロ根性があったのだろう。連写で、何枚も何枚も、僕がそこに収まっている。
少し離れているせいと、角度が絶妙なせいか確かに少しいじれば女に見えないこともない。
僕は黄金色の巨大なライオンに、腕を広げて立ち向かっている。横顔にかすかに見える僕の目は、かすかにアーモンド型。瞳孔はたてに割れている。シャツがズボンから飛び出して風に煽られ、手にしたネクタイがまるで調教鞭のように揺れている。
「あ。見て見ろ」
課長は写真を何枚も送り、頷き、笑い。気に入った写真を拡大しつつ、ふと首を傾げた。
「影がこう……猫みたいだ」
課長が指し示したのは一枚の写真。それは、地面にのびた僕の影だ。壁の頭には小さな突起が二つ、生えかけているように見える。
猫がライオンに立ち向かうような、そんな姿だ。
「……というか、大丈夫なんですか、課長。そうとう、とばされてましたけど」
「ま。一瞬だけ気を失ってた。で、起きたらお前がライオンに向かってなにか叫んでた。なんて言ってたんだ?」
「……別に」
課長の顔は興奮して、赤い。もう、とばされたショックもなにもないのだろう。
カメラマンはすでに腰抜け、調教師は震える手でライオンの檻にホロをかけ終わった。もう、ライオンはうんとも寸とも言わない。ただ、檻の中に大人しく収まっている。
その堂々とした気高い不運が、僕の胸をギュッと締め付ける。
「ん? 何だかお前、ライオンと語りあってたような……」
「独り言ですよ。僕は覇気のない最近の若者なので」
僕は史上最強の目眩に震えて、口を押さえた。
吐きそうだ。
「すみません……ちょっと、長いトイレにいってきます」
課長の言葉を待たず、僕は駆け出す。真っ白な視界が、ぐにゃりとゆがんだ。
佐藤さんからとんでもない話をされたのは、翌日のことである。
「まあネタばらしすっとだな。俺が山ちゃんにこの店教えたのよ」
「えっ」
昨日、猫に変異した僕は佐藤さんの猫カフェにたどり着く前に、道にぶっ倒れてしまった。
そしてそのまま、疲れのせいか眠り続けていた……と、いうのは佐藤さんの談。僕が目を覚ますと、見覚えのあるこの店の天井が見えた。
道ばたで寝転がっているのを、佐藤さんが見つけ保護してくれたのだという。正確には、タマコさんが僕を見つけて佐藤さんを呼びだしてくれたそうだ。本当に、タマコさんには頭が上がらない。
そのまま店に連れ込まれて一晩。翌日は代休という名の当日欠勤を決め込んで、昼過ぎまでうなりながら眠った。眠っても眠っても、夢の中にライオンがあらわれるのだ。それは僕に噛みつくこともあったし、僕が噛みつき返すこともあった。
目が覚めれば僕は汗だくで、猫カフェの床の上。
申し訳程度にかけられたタオルからは、猫の尿の香りがした。
「なあにポッカーンとしてんのよオムツちゃん」
「なんで、この店を山下課長に」
「お前さんが最近猫になる周期が早いだろう。寝言で仕事のグチばっか言ってる。だから原因となる奴がここででれでれになる様でも見たら気分も晴れるだろうってな。ちょいっとツテがあるもんだから、あの女課長さんが出入りしてる居酒屋に潜り込んで隣に座って酒飲み友達になってだな……まあ想像以上に猫好きだったわけだが、あの女課長さんはさ」
「佐藤さあん……」
腰が抜けるように座り込んだ僕の前に、佐藤さんがアルミ鍋のうどんを置く。
「ま。喰えや。腹へってんだろ」
そしてにやにやと、嫌な笑みを浮かべた。
「ついでにいっとくと、あのライオンも俺の知り合いの会社が飼ってるってだけで、別に人間じゃねえよ?」
「え」
彼がうどんの隣に放り出したのは、昨日の写真である。
僕のスーツ姿はすっかり、女神のようなドレスに作り替えられている。髪の毛も足されて、手にしたネクタイは神々しく輝く鎖にかわっていた。
ライオンだけは相変わらず、大きい。歯も、赤い目も、そのままだ。
「へっへ。お前、ほそっこいからこんなの似合うじゃねえか。まるで女神様だ。猫のナリんときも、こんなドレスまとってみねえか」
「え。まって、佐藤さん。このライオン本物ですか!? 僕、そうとう、やばかったんじゃ……」
「やっぱ猫科だから、どこか通じるところあるんだわ。よかったじゃねえか、ますます猫の貫禄がついてきたってこった。伝説のTSさんもいってたなあ。貫禄がつくと、野生動物も相手にできるようになるってな」
佐藤さんは気楽だ。僕はいまさらのように、ふるえが出た。
なんと、あのライオンは本物だったのだ。あの目も牙も、本物だったのだ。
「最初っから、あれが人間だなんて俺、一言もいってねえだろ?」
ヘタなウインクをする佐藤さんに怒る元気ももうない。僕は大きく震えて、タマコさんを抱きしめた。
タマコさんは佐藤さんを非難するように、にゃごにゃごと何か言う。タマコさんにはめっぽう弱い佐藤さんは、ちょっとだけ反省するようにぽん。と額をたたいた。
「仕方ねえ。じゃあ、罪滅ぼしに何か一つ、教えてやるよ。お前の気になってることでもなんでも」
「え……じゃあ」
今は珍しく、この店には僕と佐藤さんしかいなかった。
先ほどまでは何匹かいたようだが、僕が寝込んでいることを知って店を離れたのだという。
人のいない店は薄暗くて、静かで妙に寂しい。
だから僕は、なんとなくきいてしまったのだ。
「伝説のTSさんって誰なんです」
それは何となく、本当に何となく。ずっと気になっていたことだ。佐藤さんの十八番の、伝説の人。しかし僕は見たことがない。ここにいる連中、誰一人、見たことがない。本当にいるのか、佐藤さんの想像上の生き物なのかも分からない。
「え。そんなことでいいのか?」
渋るかと思いきや、佐藤さんはあっさりと言い放った。
「伝説のTSさんは、このタマコさんだよ」
ぽん。と佐藤さんの手がタマコさんを撫でる。タマコさんはひどくうれしそうに目を細めた。
「タマコさん? え。タマコさんは人だったの!?」
「そうさ。十年くらい前までは、それはもう伝説だった。これまでたくさん伝説を、語ってやったろう。犬の大群から子猫を守った話、船に潜り込んで世界一周した話、銀行強盗を捕まえた話……」
タマコさんは佐藤さんの腕の中へ。いつものように、すっぽりと収まる。
彼女の声は、猫のものだ。僕ら偽猫は、本物の猫の言葉は理解できない。つまり彼女は猫だ。
「で……も、猫ですよ? 今、猫ですよね?」
「ある時、大けがをしてな。もし俺がそれに気がつけば、人に戻るのをまって人間の病院に連れていくはずなんだが……たまたま外で怪我をしたもんだから、猫ボランティアの連中に拾われて」
佐藤さんの目が、細くなる。それは、初めて見る、彼の悲しみの表情である。
「病院で猫の薬を打たれてな。それで、もう人間に戻れなくなった」
ぽつ、ぽつ、と窓が揺れた。雨が降り出したのだ。あれほど嫌いだった夏の日差しだが、こんな時はまぶしい日差しの方がずっといい。
「……伝説のTSさんは最期に言ってたよ。いい実験ができたってな。そして、もう二度と自分のようなものをつくってはいけない。できるだけコミュニティを作って、保護しなくちゃいけない」
佐藤さんは、猫カフェをぐるりと見渡す。
安っぽい猫タワーに、おもちゃ。壁にたくさん張られた、僕らの写真。
「俺は伝説のTSさんの遺言で、ここを作った」
「佐藤さんと、タマコさんって、いったい」
「俺のワイフだよ?」
佐藤珠子。通称、TS。佐藤さんは片目を閉じて見せた。
「だから言っただろ。幸福はだいたいみんな似通ったもの。悲しみは、千差万別」
佐藤さんは、僕のうどんに遠慮なく真っ赤な七味を振りかけて立ち上がった。
「なげえ人生だ。お前もいろんな不幸と悲しみを楽しんで生きることだ」
今から、店をオープンするのだという。猫にならないならうどんを食って早く帰れ、と佐藤さんは言う。
扉を開けると、びしょぬれのミキさんが猫の姿のまま、悲鳴を上げて駆け込んでくる。
「もう、急にすっごい雨降ってきて……あら。オムツちゃんも雨にぬれたの? 顔、べっちゃべちゃじゃない」
「……」
僕は鼻水も涙もぐずぐずにまき散らして、うどんをかみしめていた。たぶん、泣いたのは七味のせいだ。佐藤さんの意地悪のせいだ。
のどの奥をふさぐような息苦しさ、この年になって初めて味わった感情だった。
そして数ヶ月後。山下課長の作ったポスターは見事にコンペを勝ち取って、新薬の発表とともに駅や病院なんかに張り出されることになる。
胸を張って立ち向かう僕……それはきれいな女に作り替えられていたけれど……と、地面に延びた猫のような影をみるたび僕はお腹に力が入るのだ。
「川辺っ荷物、全部持ったか!」
「たぶん!」
「たぶんってなんだ! ふざけてんのか!」
社内中に貼られた例のポスターを一瞥もせず、課長はずんずん歩く。本格的に営業課から制作課に異動となった僕は、課長の戦闘服スーツを目指して必死に走る。
「荷物重いです!」
「当たり前だ! 今日の撮影は大がかりなんだからな! がんばれるか? がんばりますと言え!」
いまや社内でも功労者となった課長は、ますます胸を張り顔を上げ、進む。僕は相変わらず不定期にさぼることがあるけれど、このやり手の課長はその辺をうまくごまかしてくれている。
だから僕は今日も彼女の後を追う。
「がんばります!」
僕の不幸はきっと一生続くけれど、不幸の中にある幸福ってやつも悪くない。
そんな風に、思うのだ。