紫禁城
帝国が滅亡して……私は陛下と旅に出た。
旅と言っても、景色を楽しめるような愉快なものではなかった。反乱軍が紫禁城を攻略し、北京を占領した後、陛下は私をつれて城から逃げ出すことを試みた。すでに反乱軍は城を取り囲み、逃げ出すことは不可能に思えたけれど……陛下は見事、脱出に成功した。
陛下と私は今、寂れた空き小屋にいる。腐りかけた木板を背に、黄ばんだ砂に腰をおろして、外の雨が止むのを待っていた。
氷をそのまま当てられたような冷たさが私の肌に触れた。豪華絢爛をまとった服も、今ではただの見せかけだと、この風が教えてくれる。
朱 蒼錬。(しゅ そうれん) それが陛下の名だった。悪臣を自殺に追い込み、前々代から始まった寧朝の衰えを、一人で救おうとした人。そして、寧朝最後の皇帝。
「どうした。燕よ」
陛下の声がして、私は我に帰った。入っていた思考の泡がぱちんと弾けて、私は陛下の方に顔を向けた。
「いえ、何でもありません。少し考えごとをしておりまして」
私がそう言うと、陛下は眉をひそめた。
「何でもないと言いながら、考えごとがあるというのは矛盾してはいないか? 燕よ」
「そ、そうでしょうか……」
「ああ。だから、ごまかさないで、その考えごとというのを申してみなさい」
陛下にそう言われ、私は息がつまりそうになった。どうしようか、この際だから白状してしまおうか。陛下の言う通り、私は多くのことについて悩んでいたことがあった。しかし、それを口にして言葉にまとめるというのは、いまの私にとっては余りにも力のいることだった。絵の書いた羊紙を粉々にして、そこから破片を組み合わせていくような、そんな頭の混濁があった。
「いや、この場に及んでそんなことを燕に訊くのは少々愚問だったのかもしれん」私が黙っていると陛下が沈黙を埋めた。「国が滅び、今や私は民を見捨てた裏切り者だ。例え、どんなにそれまで皇帝として様々な仁政を行っていたとしても、私は寧国の暗君の一人として汚名を残すしかないだろう」
「そんなことはありません」私はすぐに言った。「陛下はいつも、民のことを第一に考えていらっしゃったではありませんか」
陛下は静かに目を閉じた。「燕よ。確かに私は皇帝としての務めを果たすために、多くのことをしたかもしれん。だが、それを証明するような結果がないのだよ、私には。結果がなければ、私は惨めな鶏同等に他ならない」
「そんなことは……」
「いや、燕よ。世の中というのはそういうものなのだよ」
嗄れた息が板に張り付く。繰り返される歴史の波に、陛下が巻き込まれているのが悔しくてたまらなかった。
完全な暗君なんているのだろうか、と私は思った。桀王、紂王、煬帝、彼らも即位時には民衆のために心を尽くしていたのではないだろうか。ただ、やることがあまりにも過激すぎて周りから理解されなかっただけではないのか。私は小屋の空気を吸うのが辛くなった。
雨音が徐々に旋律を消していった。彼は急に立ち上がると私に声をかけた。
「そろそろ、行かねばならない」
「もう、出発するのですか」
陛下は頷いた。「私たちは残念ながら追われている身なのだ。長い時間、休んでいる暇はない」
口調こそは力があったものの、陛下の眼はどこか悲しげだった。私は立ち上がると彼の側についた。
もう、戻れないところまで来てしまっている。私はそう確信した。人気のない細い道を歩き、廃墟を見つけてはまた隠れる。その繰り返しが何日も続いた。雨が時折こちらに立ち寄っては、私たちのことを心配した。雨はもう、私たちの敵ではなくなったのだ。雨が人から非難されるのなら、それは私たちと同じ。私たちも雨のように人から愛されなくなった存在だ。
荒廃した農村を陛下と歩いていく。陛下の表情は晴れの日でも雨の日でも魂の中身を割られたときのような顔をしていた。国を追われ、人としての存在を消されてしまったのだから、誰でもこのようになるのは仕方がない。しかし、そんな陛下でも私と話をするときだけは失ったはずの気力を見せてくださるのだった。会話の内容は中身の薄いものばかりだったが、私はそんなことよりも陛下の口調や表情の変化を確認することが出来るのが嬉しかった。例えそれが作り物の笑顔だとしても、陛下はこれからも進んで下さるという確信を持つことができるのだ。
戌時か亥時くらいの頃。陛下は私の肩に手を乗せて、今日の締めとなるような話をしてくださった。その時、私たちは月に向かっていた。月のふもとには天帝様の国があるという伝説を私たちは宮廷時代に聞いていた。荒れ地に置かれた岩に座って、私たちはその伝説の話をしていた。
「燕よ……」
陛下が私の名を呼んだ。何年も月日を重ねてしまったような、悲しげな声だった。
「何でしょうか、陛下」
陛下は月を見ながら言った。
「天に見放された私たちには、もう行くところがない。このままただ逃れているだけでは二人とも飢え死にを待つだけだ。だから私は、目的地を決めようと思う。目指すところがあれば、互いに励まし合えるというものだ」
私は静かに目を閉じた。
「目的地はあそこですね…… 月が一番近くに見える場所。天帝様の御国」
「もちろん、私のような者がそんなところにいくべきではないということは重々承知している。だが、私は最後に行ってみたいのだ。人間世界から離れた、神の地というものを。この目で確かめてみたいのだ」
私は目蓋を開けた。陛下はこちらに顔を向けていた。
「問題ありません。それが陛下の思いなら」
私がそう言うと、陛下は下唇を噛んだ。
「その陛下という呼び方はやめてくれないか。私はもう、皇帝では無くなったのだ。寧が滅びた以上、もう私はただの放浪者に他ならない」
私は目を見開いて陛下の御顔を見た。陛下の眼は真剣そのものだった。
「ですが、私にとって陛下は……」
「本当によいのだ」陛下は言葉を遮った。「私にとって燕は今や私のことを想ってくれる唯一の存在。そこに皇帝や后という言葉は存在し得ないものなのだ。……蒼で良い。これからは私のことを蒼と呼んでくれ」
「ソウ……様……」私は唾を飲み込みながら、恐る恐る言った。
「そうだ。それでいい」陛下は微笑んだ。
絢爛華麗な衣装は地の持ち物となった。
新しい衣服は空き家の中から手に入れた。良心がなかなか言う通りに動いてくれなかったが、蒼様の選択が結果的に説得という形になった。
彼は最近になってから、妙な行動をとることが多くなった。今回のような盗人めいた行動もその一つだ。彼は戸惑う私にこんなことを言っていた。煤けた臭いがその時、辺りに漂っていた。
「燕よ。こんな衣装で村や街を移動するのはやはり危険だ。正体を隠すために、私は民の服を持たねばならぬと思う」
私は瞬きを二回した。
「ですが蒼様。それでは盗人と同じになります」
「構わん。私は天帝のもとへ行かねばならぬのだ。国を追われ、民からも見捨てられ、私は誰からも慕われない存在となってしまった。こんなところで無駄な死を送りたくはない。私は寧のために、血を吐くまで努力したのだ。祖父が侵した失政を何もかも一からやり直すために、私は奮闘したのだ。私は勤めをやり抜いたのだぞ。なぜ、殺されなければならない? なぜ、逃げなければならないのだ?」
私は彼の悲しげな目を見た。そして視界には移らない心の影を覗いた。彼は、苦しんでいた。現世から離れ、楽になれる場所を必死で求めていたのだ。私はそれに気づくことが出来なかった。もちろん私にも死の恐怖というものがあったが、私はそれ以上に「蒼様と道を共に出来るという喜び」という感情の方が勝っていた。生きる最後の一秒一秒を、大切に思っていきたいという思いが強かった。
しかし彼は、私とは違う考え方をしていた。「死」の塊が彼の眼前で常に手をこまねいているのだ。恐怖が精神を掻き乱して、さらに彼をおかしくさせている。私はそれを今ごろになって悟ってしまった。
「私が…… 私がいるではありませんか……」感情が高ぶって、私は嗚咽を漏らした。
「民から見捨てられようと、どんな苦行を背負わされても、私は蒼様の正義を信じています。天命が私たちの死をお望みになったのなら、私たちはそれを受け入れるべきなのかもしれません。でも、私たちはそれを無視してここまで来ました。天の命に背いたのだから、もっと早くに殺されてもよかったはずです。なのに、蒼様も私も息を吸って、ここにいます。地に足をつけて、生きているという感覚を得られているのです。だから……お願いです。自暴自棄にはどうかならないで下さい。私を、私を……置いていかないでください」
冷えた息が漏れて、彼の心に飛び散った。私は急に身を震わせ、申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ありません。つい、感情的になってしまいまして……」
視界を下げた私に、彼の声だけが聞こえた。
「謝らなくてもいい。別に私は燕のことを忘れたわけではないのだ。ただ、民衆の憎悪に満ちた魂をひどく恐れているだけ。それさえ何とかなれば全てが上手くいくのだ。私は無実の罪をきせられ、死罪を宣告されているも同じ。……怖いのだ。何もかもが怖くて仕方がないのだ。こればかりは、どんなにお前の愛があろうとも拭い去ることが出来ない。捨てるためには、目的を果たさなければならないのだ。だから、どんなことがあっても私についてきて欲しい。天帝のところへ赴くために、私の信じる道を共に歩んでほしいのだ」
「蒼様……」
私は驚いていた。蒼様が私にこんな嘆願をすることなんて今まで一度もなかった。独裁的で猜疑心が強く、人の意見にはほとんど耳を貸さなかった彼が、私に対してここまで哀訴しているというのはどういうことだろうか。
私は動揺の雨に濡れて濡れてどうしようもなかった。彼が私に放ったこの特別な言辞は、最初であり最後のものであると思えた。私は彼の言葉に頷くしかなかった。
涙を左手で拭い、私たちはこうして盗人となった。
【親愛なる○○様へ。
この手紙はあなたのために書きました。あなたと私の手紙を繋げてくださった天に感謝いたします。
私は主人と共に村を■れて旅を続けております、農民の娘です。
私たちは雨の中、■野の中を、身も凍る思いで■げ続けてきました。
見つかればいつ殺されるとも分からない時の中で、■かな幸福を探して、毎日を生き抜いております。
そもそもの起こりは主人が村の長に就いていたことより始まります。当時、私たちの村では長期のききんが起こっていました。
つくってもつくっても作物は育たず、苦労して育ててもイナゴの大群が何もかもを食い荒してしまいます。
神は村を見捨てになったのです。
しかし、皆は全ての責任を私の主人に押し付けました。
あの時の彼らはもうすでに、獣となっていたのでしょう。
ちく積していた■憤を晴らせれば標的は誰でも良かったのです。
主人はそれに選ばれてしまいました。嗚呼、運のない人。まるで暗黒の雲から妖魔が降りてきたような心持です。
主人は死ぬことを恐れ、私と共に村を出る決意をしました。
数少ない食料を持てるだけ持ち、月も眠るような夜の刻に、私たちは村を■れました。
成功するとはとても思えませんでしたが、彼の計画は幸運なことかうまくいきました。
しかし、それも一瞬の光芒が覗いただけであります……。
あれから幾日か時は経ち、もう食料は底を尽きました。目指す場所は遥か遠く、月のふもとは一向に見えてはきません。
私たちはこれからどうなっていくのでしょうか。
立ち止まれば死、進んでいても死です。
どうすればいいのかも、もう分かりません。
今は、ただ生きることしかできません。
静かに、あの方と生きていくだけです……】
*
「何を書いているのだ」
背後から蒼様の声がして、私は筆を持ったまま振りむいた。
「手紙か?」彼が私を見下ろしながら言った。
「はい」
蒼様は目を見張った。
「お前……字を書けるのか?」
「基本的な事なら…… でも、一部だけ書けない字があるのです」
私がそう言うと彼は苦笑した。
「そうか。ならば私が教えてやろう。……だがしかし驚いたな。燕が字を書けるとは」
「これでも、蒼様の后ですから。基本的な教養くらいは身に着けています」
蒼様は口角を上げた。
砂浜に腰を下ろして……。
木の残骸を台にして、私は文章を書き進めていった。筆と紙は城を抜け出した時に持ってきていた。分からない字にぶつかれば蒼様の知識を借りて――何度も壁にぶつかりながら、言葉を並べていった。
送る相手は手紙に書いた通り○○様。名前がないのは、手紙が届く先がどこか分からないからだった。海岸で拾った瓶に手紙を添えて、海に流すのだ。
「そんなことして何になるのだ」彼は訊いた。
私は書きながら、海に投げかけるように言った。
「私たちの想いや、生き様を誰かに知って欲しいと思ったのです」
「どうして?」
「どうして……」私は口ごもった。言葉を瞬時に考え、海に続きを伝える。「私たちは星のように大変儚い存在です。ここで何をしようとも、私や蒼様が何を思っていても、遠くの世界には届かないことです。確かに当たり前のことかもしれませんが、私はそのことを非常に悲しく思ったのです。哀愁といいますか、隙間風が吹いたような切なさが私を襲ったのです。まさにトンクー(痛苦)です。私はその普段なら素通りしてしまうような苦悩に激しく怯えることとなってしまったのです。それは死の訪れを現実のものとして感じてきたからかもしれません。もう、いてもたってもいられなくなったのです」
「つまりこの手紙は、私と燕が共に過ごした記憶の断片のようなものか?」陛下の声が私の背後を通した。
「記憶の断片?」私は訊き返した。
「そうだ」彼は答えた。「目には見えない記憶という私たちの魂が、ここに書き記されているということだろう。私たちが過ごしてきた時の瞬きを目に見える物として、ここに描いているのだろう」
私は背後に流れた彼の言葉を聴き、改めて手紙の方に目を落とした。墨で書かれた力を抱くしるしは、紙の上にしっかりと書かれていた。
この一文字一文字が私たちの記憶の魂。そう、だから私はそれを誰かに伝えたいと思っているのだ。
瓶に紙を入れて、海に流す。
陛下以外の――誰かの声が耳に届いてきたような気がした。でもそれは結局、気がした、だけで終わった。天帝の声だろうか。私はふと思った。
静かにあなたと生きていく。私は最後に歌を詠んだ。聴いていたのはもちろん陛下だけだったが、不特定多数の誰かに伝えるつもりで私は詠んだ。
也聽見海的聲音(海の音も聴こえる)
也聽見山的聲音(山の音も聴こえる)
如果這個不是夢(これが夢ではないのなら)
天帝會引導我們(天が私たちを導いてくれるでしょう)
物語は確かに進んでいた。
私は彼の元で――無礼にも――眠ってしまった。
月が一番大きく見えるところに……
あなたはそこにいた。
花を手に取って、花弁を沈黙の内に眺めている。
深緑の大地に色取り取りの花が咲いていた。鳳仙花、向日葵、菫、そして名の無い花たち。
私は彼から数十歩離れた先に立っていた。
星の瞬きを、光の舞台を、手に取って。
月によって、あなたの体は影のようになっていた。
もう、この感情を止めることは出来ない。
「ねぇ、こっちに来て…… お願いだから……」
蚊の鳴くような声で囁く。もっと大きな声で叫びたかったのだが、なぜか力が出なかった。声を出して、私はすぐに後悔した。陛下に対して失礼な言葉をかけてしまった。
遠くの陛下は花を畑の中に戻した。どうやら聞こえてしまったらしい。こんなにも陛下と離れているのに、どうして届いてしまったのだろう。
陛下は花のない所を選びながら、ゆっくりこちらへと歩いてきた。私はどうしようも出来なくなった。陛下はお怒りなのだろうか。こんな言葉を告げてしまって、私は叱られてしまうのだろうか。
優しい風が私の口元に触れた。私はその風を飲み込んだ。
陛下はこちらに来ると、私の右肩に手を置いた。もろい物に触れるかのように、陛下はそっと手を乗せた。
「座るのだ」
「えっ?」私は訊き返した。
「座るのだ」
陛下はそう言うと、手を肩から離し、自ら座ってみせた。
「ここからなら月が一段と美しく見える」
私は膝を曲げた。久々に聴いた彼の穏やかな口調に心が踊るのを感じた。
「どうだ、燕よ。私の言っていることは本当だろう」
私は彼の背後で深く相槌を打った。
「とても…… 美しいです」
嘘ではない。本当に美しかったのだ。私が見たその月は、視点を少し下げるだけで地上の花と組み、新たな景観を生みだしていた。城にいた東璋の絵に、風と花の匂いを足したような、身体全体から感動をあふれさせることが出来る景色だ。
「美しいです」私は改めてもう一度言った。
陛下は私の囁きを聞いたのか、あぐらをかいたまま私の所へ一歩分下がった。
「今まで寂しかったのか、燕よ」
陛下が私の方を見て言った。私は目を合わせるのが恥ずかしいと思い、顔を下に向けてしまった。そして、陛下の質問を頭の中で繰り返した。
私は口を開いた。
「寂しくはなかったです。陛下は国政を立て直すため常に多事多端でおられましたから、私との時間が少ないのは仕方のないことです」
「それは、本当か?」
陛下が優しく、しかし問い詰めるように訊いた。私はさらに俯いてしまった。
「それに、私は今や『陛下』ではない。燕もそのことは重々承知しておろう。陛下はもういいと言ったはずだ」
「私の中では…… やはり陛下は陛下です。国が滅びようと、民がいなくなろうと」
突然、陛下が私の身体を両手で掴んだ。驚いて顔を上げた私を無視して、陛下は強引に私の身体を自分の方へと向けた。
若き帝の目は涙で濡れていた……。
「陛下?」
「どうして、燕は私と距離をとろうとするのだ。私はこんなにもお前を愛しているのに。お前が恋しくてたまらないのに」
私は唾を飲み込んだ。
「距離など、とろうとしたことは一度もありません。私はただ陛下を尊敬しているだけです」
私がそう言うと陛下は急に威嚇するように目を大きくした。私は思わず息を思いきり吸ってしまった。
「違う」陛下は首を横に振った。「燕は私に嘘をついた。城での生活に寂しさなどなかったと言った。……そんなはずはなかろう。燕よ、お前は元々農民の出ではないか。城にいる他の者と違って、お前は高位身分のしきたりを何一つ知らずに育った。それが、お前をどんなに辛くさせたことか…… 肩身が狭い場所で、頼れる者もおらず、ずっと苦しい思いをしてきたのだろう。私がもっと早く気づけていたら、私がもっと燕のために時間を割いてやれたら、そう悔やめば悔やむほど、私は今のこの『共にいられる時間』を大切にしたいと思うのだ」
私は瞬きを繰り返した。
「だから……」彼は声を震わせた。「私に対して嘘を言わないでほしい。私に対して強がりを言わないでほしい。お前が私を慕っているのと同じように、私も燕を慕っているのだから」
アジサイの花が私に甘い匂いを届けてくれた。私もいつの間にか涙を流していた。
「蒼……様……」
力の出ない自分の声をこれほどまでにもどかしく思ったことはなかった。
私は彼の膝に顔を伏せた。桃の花がこちらに向けて微笑んでいるような気がした。
そして幻想が閉じていく……。
業火。
私は御腹に刺さった刀を見ながら、ふとそんなことを考えていた。刻一刻と迫る死。しかし、不思議と苦しみや恐怖を感じることはなかった。むしろ心は冷静で、御腹の刀を傍観するように見ていた。
紅色の部屋に、朧気と浮かぶ虚像。辛苦を纏った両手に何もかもを委ねていく……。
紫禁城に農民たちが押し寄せてくるのを感じる。無数の足音。そして、歓喜の叫び声。絶望の一瞬一瞬を、一つの時代が終わる刹那を、私の耳で、穏やかに聞き取っている。
何もかもが夢想の賜物だった。何もかもが嘘で塗り固められた幻想だった。もし、この城から脱出して、陛下と余生を共にすることが出来たら…… こんなこと、実際には起こるはずがない。全て私が作った、実に馬鹿馬鹿しい物語だ。逃げ続けても、追っ手はやってこない。殺されることもない。飢えることもない。そんな私の下らない想像が、まるで走馬灯のように次々と浮かんでは消えていく。平和な結末が、美麗な花のような終末が、新たに構築されては溶けていく。
薄れゆく意識の中、私は辺りを見渡し陛下の姿を探した。視覚は今や頼りないほどに意味をなさないものになってしまったが、それでも私は僅かに残った彼との感覚を頼りに、必死に姿を捉えようとした。せめて、一時だけでいい。陛下の姿をこの目で、心で、感じとってから遠くへ行きたいのだ。
嗚呼、陛下……。
嗚呼、蒼様……。
嗚呼……。
限界が訪れて、私が最期に見たのは瓶に詰められた多くの花弁だった。
瓶は海へと流れていき、果ての島を目指そうとしていた。私はいてもたってもいられず流れて行く瓶の後を追って、無限の青に飛び込んだ。
花が……私の愛までもが流れてしまうように感じられたからだ。
何も聞こえない。何も話せない。何の力もない。私は水をかき分けるだけ。瓶を延々と追い続けるだけ。
私は静かに……
静かにあなたと生きていたかった……。
「蒼……様……」