親しい人
授業を終えて、廊下を歩く阿田内。
「先生、阿田内先生」
背後から、声がして振り向くと、胸の高さまである髪を持つ女子生徒が現れた。
顔は知っている。
というのも、自分の担任する一年B組の生徒だからだ。
名前を、小山 木乃実という。
木乃実は、ほんのり頬が朱に染まり、目に憂いがあった。
「どうかしましたか? 授業で分からないところでも?」
「いえ、そうではないです」
何だか、まごついた感じだ。
阿田内は若干ながら焦りを覚えた。
拳を交えれば、一瞬にして相手の感情を察する阿田内だが、繊細な少女の気持ちを、見ただけで察する能力に長けているわけではない。
意を決したのか、木乃実は語り始めた。
「実は、弓子のことなんです」
「笹倉さんのこと?」
「はい。わたし、弓子とは、中学校時代からの同級生なんです」
「ああ、友達なんですね」
「友達では……無いです」
木乃実は、しゅん、と暗くなってしまい、何か地雷を踏んだのかと阿田内は思った。
木乃実は、鼻を少しだけ手で触る。
「言っていいのか分からないですけど、先生の新しい部に木乃実が入ったって言うから」
「ああ、そうですよ。情報が早いですねぇ」
「先生はご存知ですか?」
「何を?」
「通り魔です」
「もちろん」
というか出会ったかもしれないのだが、それは伏せておいた。
「前の担任の五十嵐先生は?」
五十嵐? と思ったが、阿田内が赴任して来る前に居た先生のことだ。
彼は通り魔に襲われ、入院し、回復してからは教師をやめている。
「知っていますが、それが何か?」
「五十嵐先生は、バレー部の副担任で、よく弓子のことを気にかけていたんです、熱心に相談をしていました」
「笹倉さんには何か心配事でもあったんですか?」
「イジメがあったんです」
阿田内は意外に感じた。
第一印象は、明るい子で、感情を表に出すタイプに見えた。
「今もイジメを受けているんですか?」
木乃実は首を振る。
「いいえ。もうありません、だって、その先輩たちは、学校に通っていませんから」
阿田内は、尋ねようとして、やめた。
すぐ理解できたからだ。
「通り魔ですか?」
「はい。一人ひとり、先輩たちが襲われたとき、噂が流れたんです。
もしかしたら通り魔は弓子なんじゃないか、て」
「狙われたようにその先輩の子たちが襲われては、疑いをかけられるのも無理はありませんね」
「弓子は人を襲うような子じゃないです!」
阿田内は、木乃実が怒ったのかと思い焦るが、どうも、思いつめた様子である。
その様はまるで、自分に言い聞かせているようであった。
阿田内はまず謝罪した。
「すみません。当然ですよね。笹倉さんが犯人なら、彼女が相談している先生までもが襲われるはずもない」
「先輩たちが襲われた頃は、まだ、信じられました。
むしろ、弓子に酷いことをする先輩がいなくなって良かったとすら思った。
なのに五十嵐先生が襲われてからは、急に、不安になったんです。
犯人は、弓子じゃないけど、弓子だとしたら今度はわたしの番なのか? て。
最低なんです。わたし、ぜんぜん信じてなかった。
そうじゃない、て思ってたのに、どこかで思ってて。
それが少しずつ弓子に伝わってしまってたみたいで、弓子は、わたしから自然と離れていきました。
わたしのせいじゃないから、て言いながら、一人になりたいから、て。
わたしは、弓子と話す資格も無いんです。裏切っているのは、わたしの方だから。
今は、わたしじゃ、弓子に近づくこともできなくて」
木乃実は、息を漏らし、指で目元を掬う。
目元に溜まっていた水は、溢れて、頬を伝って落ちる。
友達を救えない自分に嫌悪してまで流れた涙。
本当に、弓子のことを考えていることを、阿田内は理解した。
弓子は阿田内を見ながら訴える。
「先生。あの子のことを、お願いします。優しい子なんです」
阿田内は思う。
昔の自分ならば、愚直に、この子を信じようとしたことだろう。
感情に流され、信じないといけない、と、義務的に思ったはずだ。
一度手合わせをした弓子の内面にある優しさは理解できている。
だから木乃実の言う言葉も、本当の意味で信じることができた。
自分はこうでありたかったのだ。
心底、覚悟が固まった。
弓子の問題、この学校の問題に、阿田内は、すべて首を突っ込むことにした。
阿田内は、ニコッと笑い、木乃実の頭に手を置いた。
「大丈夫、十分に分かっていますから」