通り魔
課題の採点やら明日の授業の準備をしていたこともあり、日は暮れて夜となっていた。
一年A組笹倉弓子。
あの子に向けてプランを練っていたこともある。
才能はあるし、どうやら武道に経験もあるようだ。
それでも未だ知らないことの方が多い。
となれば、あの子を知ることから始めなければならないだろう。
(なんだか、わくわくしますねぇ、ぐふふ)
と、およそ教師としてギリギリアウトな思考を、至ってまじめに考えていた。
阿田内は、民家のある道を歩いていた。
周りに人の姿は無く、虫の音もやんでいるほど、静かである。
そんなところに、フードを被った人が阿田内の歩く道の先に現れた。
マラソンをしているのか、軽く走りこんでいる。
阿田内はじっと下を見て相手を見ていなかった。
フードを被った人物は、すっと阿田内とすれ違う。
走り去るかに思えたフードの人物は、踵を返した。
そして、しゃっと足を振り回して、阿田内のお腹の横、外腹斜筋を狙いすまして打ち込んできた。
阿田内は、考え込んだとき、腕を組んでしまう癖があるので、腕が上がり、お腹の横は、がら空きだったのだ。
「っ!?」
フードの人物は、足が動かずにいた。
というのも、いつの間にか、阿田内がフードの人物の放った足の裏を掴んでいたからだ。
「上体とバランスの取れたいい蹴りです」
フードの人物は近くでも顔は分からなかった。
口にはマスクをして、顔には、羽のついた、パーティーでつけそうなメガネをしている。
引き離そうと、フードの人物の足の力が、ぎりっと詰まるが、そう易く阿田内も離さない。
フードの人物は、残された足で跳躍し、掴まれた足を軸として上体を起こし、阿田内の顔面目掛けて蹴りを入れる。
これも、もう一方の腕によって軽く受ける阿田内だったが、掴んでいた方の手の力を緩め、フードの人物はさっと足を引っこ抜いた。
同時にこれは、相手のバランスを崩し、大きく隙を開く。
阿田内が一撃加えようと手を握るも驚く。
もう既に、フードの人物は、胸の前で両腕を折り曲げて固め、身を丸めて急所を隠そうとしている。
それでも一撃、隙を突くことは可能だったが、阿田内はわざわざ、手のガードがある上から、乗せるような形でパンチを繰り出し、相手を浮かして、遠ざける。
フードの人物は、地面に着地してから少し離れて、膝をつく。
阿田内がもう片方の足を掴んでおくのも困難なことではなかった。
それをしなかったのは、相手を知りたかったからに他ならない。
蹴りは足のみならず体幹をバランス良く鍛えなければ威力は出ない。
相手はその点、上体と下半身の筋肉が優れたバランスを持っている。
太ももから、脹脛にかけての、エンジンのかかったぐいんとした伸びのある蹴り。
それをブレーキのごとく引き止め、姿勢を保っていた、もう一方の足である軸足から、普段から鍛えている日常を伺わせた。
阿田内は筋肉の発する言葉を読み解き、隠された微妙な感情を知った。
興奮。困惑。憂い。緊張。焦燥。不安。
混乱にも似た感情の嵐。躊躇いの証である。
そのことから、阿田内には気がかりがあった。
「何故加減をしたんですか?」
「……」
黙るので仕方なく少し追い込むことにした。
「あなた女の子ですね?」
これに、フードの人物の肩が僅かに動いて反応する。
「それもかなり若い。しなやかな筋肉です」
若いからこそ、女性と判別できたというのもある。
ある程度年がいくと、鍛錬を積み上げており、その筋肉は、男と遜色無いどころか、ゴリラにも勝る女性が存在することを、阿田内は知っているからだ。
「……」
やはり答えない相手に阿田内は嘆息。
「あなたには、敵意が無い。
ですが、あなたが仮に通り魔なら、教師として見逃せません」
ばっと握りこぶしを作りつつ、前に突き出し腰を落とす構えを取った。
フードの人物は、立ち上がると背を向けて去ってしまった。
あまりにあっさりした出来事に、認識が遅れていた。
「ちょ!?」
阿田内の悲痛な声も虚しく、フードの人物は、家の塀を飛び越えてしまっていた。
まさか民家に突入するわけにもいかない。
なまじ先生ということもあって無理が出来ないのだ。
それに、赴任してきたばかりで、地理的に分からないことも多い。
追いかけてもあの身のこなしでは、追いつける気がしなかった。
やってしまったと、阿田内は額に手を置いた。
阿田内は、まだ知りたいことがあったのだ。
というのも、相手に一つ気になる感情があった。
慈愛。
血も涙も無いはずの通り魔が抱くには優しすぎる感情である。
それが何を意味するのか、阿田内には、分からなかった。
* *
フードを被った人物は、息を切らして走っていた。
立ち止まり、膝を両手で掴んで呼吸を整える。
さすがに、阿田内が追って来ないと悟ると、フードを脱ぎ、呼吸を苦しくしているマスクを取り外した。
それに、変なパーティーメガネも取り去る。
その顔は、笹倉弓子であった。
弓子は、歩きながら、両腕に感じた痺れたと同じぐらい、感動を覚えていた。
(強い)
間違いなく阿田内は、弓子の思った以上の逸材であった。
(何で分かったの? わたしとはバレてなかったみたいだけど)
自分が攻撃をしたから、あれほど読み取られたとは、弓子に想像できることではなかった。
(凄い…凄い凄い凄い)
としか思えないのであった。
呪文みたく、同じ言葉を反芻する。
興奮が酔いとなって、体の血を巡っているのだ。
(あの人なら……たぶん)
腕に残る、じーんとした痛みを長く感じるほどに、弓子の阿田内に対する信頼感は上昇した。
あの人こそ自分に、圧倒的な力を与えてくれる、そう確信したからである。
顔の紅潮を隠すためにフードを被ると、彼女は夜の中に消えて行った。