塔利
その日、塔利は目の前の光景を少し疑った。
畠瀬なちが腕を汚しているのである。三角巾を巻いて、左腕を吊っていた。
ここ数日、畠瀬なちが怪我をして入院していたという話は聞いていたが、まさか腕だとは思わなかった。
教室に入ってきたなちは、塔利の姿を確認すると、そばまで寄ってきた。
「よう。元気だったか」
片手を上げて挨拶をする彼女は、いつもの彼女だった。何も、どこも変わらない、いつもの畠瀬なち。
「あ、ああ……そこそこにな。てか、その腕……」
「うん、折れちまって。しかもバキバキになったからか治りがだいぶ遅いらしくてな。最低でも三ヶ月は完治にかかると」
はぁ、となちはため息を漏らした。
「まあそんなことはいいや。新田、宿題はしてあるか?」
「えっ、何で俺? そんなもんやってるわけないって……」
「私はやってきた。見せてやるから質問に答えろ」
「何その勝手な取り決め」
「お前から始めたことだろうが……」
二人は机の前で対面して座る。
塔利は宿題を書き写し、なちはそれを無言で見つめる。
しばらくしてから、なちの方から口を開いた。
「正義の味方って、知ってるか?」
一度、走らせてたシャーペンの手が止まった。芯がポキンと音を立てる。
「おっと」
塔利はペンをノックして新しく芯を出す。
「それはあれか? 日曜にやるようなもののことでも言ってるのか? それなら知ってるけどさぁ」
「笑わせるなよ。私が言うんだから、一つしかないじゃないか。それとも、『帽子の男』とでも呼んだ方がいいか?」
塔利の手が止まる。そこで彼女が何となく言いたいことをにようやく気がついた。
「おかしいな。お前には言ったことなかったと思うんだけど?」
「高校からの知り合いだろ? 私もおかしいと思ってるんだ。一応、あの時のことは学校側が伏せようとしていたからな。あまり出回るはずがないんだよ」
「…………」
「でもお前は知っていた。いや、もしかしたらずっと私のことを見ていたのかもしれない。なにせ、『正義の味方』は何故か私の近況まで知っていたからな」
塔利はため息をついた。その表情にはどこか、諦めがあった。
「……あるとしたら、井美かな。ちと喋りすぎたな」
「単なる昔話だ。踏み荒らしても別に構わないんだがな」
「そこに、あの人が絡んでると。ま、だいたいは当たりだよ」
塔利はなちの右手を見やる。机の隅を掴んでいる右手を。
「そっちにあれは健在か。というか、戻ったんだな」
「ふん、おかげ様でな。片方は失ったがそれでも十分だ」
聞きたいのは一つ。なちが切り出す。
「お前は、敵か味方か?」
「おいおい、一介の学生風情に物騒なこと聞きやがるな」
「少し前まで、女の秘密まで握ってひどい目にあった奴が言うことかよ。女の敵ではあることは間違いないぞ」
「はぁ……『英雄』に言われちゃかなわねえな」
なちはその言葉に、一度目を閉じた。そして開く。
「そうかい」
その反応に塔利は少しだけ驚いたが、やがて答えた。
「……『正義の味方』の協力者ってのは、たくさん存在する。俺も、奴が言う理想に応じた一人だよ」
「あんな狂った世界をか」
「もっとマイルドな考えだよ」
塔利は肩をすくめる。
「良い人は良いように扱われるのではなく、良いように評価されて欲しい。ただそれだけだ」
「そのために、探したのか。『良い人』を」
「ひでえ言い方だ。だけど、結果的にお前にはそうだったんだろうな」
塔利は正面からなちを見る。少なくとも、怒っているようには見えない。
「ただよ、あいつのおかげで救われたって人がいたのも事実だ。絶望が希望に変わった人だっている」
「結果論だ。奴は力を他人から奪い取って、それを渡した。希望と同じくらいに、絶望を味あわせている」
「それ言われちゃ、返せねえなぁ……けどそれは俺にはあんまり関係ない話だがね」
「そうか」
「ああ」
「殴らせろ」
「嫌だ」
今度はなちがため息をついた。深く、長いため息だった。
「良い人が評価される世界。俺はただそれだけを求めてるからな」
「その為には、他者が踏みにじられても」
「いいさ。もともと、この世界はそう成り立ってる」
無言で殴られるかと思った。彼女みたいな人には悪に見えると思った。しかし、結局なちは手を出そうとしなかった。
「厄介な奴らだ。あいつも、お前も」
「何だよ。少し気合入れて待ち構えてたのに何もなしかよ」
「お前の分は、あいつにぶつけた分に加算しとくよ。どいつもこいつも他人を利用することしか考えていないな本当に」
「どこかで無理だって思ってんだよ。純粋じゃいられないからな」
「純粋、か」
昔は確かに存在していたもの。無垢なる白い羽。彼女たちは傷つきながらも、汚さずにそれを持っていた。
正義とはまた違う、信念のようなものを。
理屈の存在しない、信じる何かが。
「純粋だったら、もう少し気楽だったさ。こんな道に来ることもなかった」
「けど、結局はお前もそういう道を選ぶんだよ。だから、俺たちはお前に『英雄』になって欲しいと思った」
「その選択、いつか後悔させてやるよ」
それを聞いて、彼は笑った。
「まあ、それはそうとして。宿題は見せてくれよ? もう完全にやらない癖がついちまった」
「……まあお前にはこれからも世話になるかもしれないしな」
「そうこなくっちゃ!」
「たまにはやる努力をしてみろ」
塔利は見逃さない。彼女が初めて見せた、小さな笑みを。




