激情
自分らしくない。そう思う事が増えていた。
畠瀬なちは、イマナとリーアとともに家路に着こうとしている。イマナが笑い、リーアが一緒になって顔を綻ばせる。
平和な、いつもの町。リーアの人気も次第に終息していき、けれどもまだ一定数教室に押しかけてはくるが――校内もいつもの日常を取り戻していた。
なのに、なちは確かに何か剥離されたような気がしていた。
「なーちゃん!」
「なっちゃん!」
「……えっ?」
考え事をしていたせいか、返事がワンテンポ遅れる。
「どうかしたの? 何か悩み事かな」
「悩みごとなら私たちに吐きだしてしまうといいよー」
イマナとリーアが、なちの顔を心配そうに覗きこんでいた。
一瞬、どきりと心臓が高鳴るのと同時に、安心感が駆け巡る。なちはゆっくりと口を開いた。
「あ、うん。実は……」
同時に、パンと小気味のいい音がした。
「――え?」
イマナ、リーア。そしてなちもが同じ声を出す。
いつの間にか、なちは自分の頬をはたいていた。
「ど、どうしたのなーちゃん……?」
「なっちゃん?」
自分でも訳がわからず、ゆっくりと手のひらを見つめる。何ともない、普通の手だった。
「え、あ、う……」
「なーちゃん……?」
「う……!」
視界が真っ白になる。背景が、イマナが、リーアが、そして、自分自身さえも。
気がつくと彼女は走り出していた。ただひたすらに、自分の、今の行動を反芻させながら。
(私は……今、何を言おうとしていた? 私が考えてる事を『リーア』に言おうとしていたというのか?)
ありえない、今のは間違いなくありえない行動だった。
(誰かに言う事で悩みを共有だと? ふざけるな……ふざけるな!)
走りながらひたすら心の中で悪態を吐く。自分らしくない、いや、何かが自分を変えている。自分という形成された自我を変更しようとしている。そんな気がした。
(そんなこと、ある訳がないはず―――)
英雄になりたい?
ドクン、と心臓が高鳴った。
あり得ない両腕。自分では決して発揮する事が出来ないはずの怪力を、なちは手にしている。
いつか小さい頃に出会った。驚くほどに白かった彼。強さを与えてくれた彼。地獄を教えてくれた彼。
(そうだった、私はもう)
あり得ない事を目にしている。
強さを、人を越えた力を手にしている。
だからこそ前に進もうとした。人より先に、人より前に。皆を先導出来るようにと思って。
結果、躓いても誰も助けてくれなかった。助けられなかった。
そんな自分のことなど、誰にも話せるわけがなかったし、話して楽になろうという気分にもならなかった。
「ハァ……ハァ」
ひたすら走り続けたなちは、気がつけば校門前にいた。汗が乾かない。夏の暑さのせいなのか、それすらわからなかった。
軽くいなしていたはずだった。いつの間にかつけ込まれたのだろうか。違うと断言する。誰にも心の中など、教えてたまるものか。咄嗟に頬を叩いて正解だった。ほぼ無意識であったが。
「何で……わからないよ……」
自分の中で、様々な物が渦を巻く。力なく彼女はへたり込む。
「……りとなぁ」
曇天の曇り空、なちは一人、英雄の名前を呼んだ。
「行っちゃった……」
なちのいなくなった舞台に二人が取り残される。
茫然と、二人はそこに立っていたが、イマナの言葉で我を取り戻す。
「ど、どうしようリーアちゃん! なーちゃんの触れちゃいけないとこに触っちゃったかな」
「え、あ……うん。ヨケイ、だったかも」
「あー! ちょっとなーちゃんに慣れ慣れしくしすぎたかなぁ? 前はアイアンで物理的に黙らされたけど、冗談抜きで余計なお世話だったかもー」
「……イマナは悪くないよ。人を心配しちゃいけない、なんて理由ないんだから」
「う、うん。ありがとリーアちゃん」
リーアは軽くイマナに笑みを見せて、先を歩きはじめる。
「帰ろう、イマナ。今のなっちゃんは、私たちが行くと余計に混乱するかもしれないから」
「……そうだね。明日はまた、なーちゃんと仲良くできるよね」
イマナも明るさを取り戻し、リーアの後ろについて歩いて行く。
「そうだよ、イマナ。明日は絶対、なっちゃんと仲直りできるよ。だって、みんなが幸せなのが一番いいんだから」
「……うん! 明日なーちゃんに謝るよ! リーアも謝ろう?」
「ううん、その必要はないよイマナ」
リーアは柔和に微笑む。
「だって、私たちは悪い事はしてないんだから」
光の反射のせいか、その笑顔は人以上の美しさを、イマナに見せた。
夢とか、現実とか、そんなのはいつだって自分の視点によるもので。
中学時代、彼女にとってそれは夢のようにしか見えなかった。白昼夢、とでもいうのか。自分の中ではっきりとした形を持たず、ただ宙に浮いているという感覚。
それは、彼女が『彼女』であったためなのか。だとすれば、彼女が『それ』を手にするのは必然だったのか。もう、それはわからない。
「じゃあねー温海さん。またー」
「うん、それじゃあね」
温海利戸那はいつものように友達と帰り、友達と談笑をしながら、途中の分かれ道で別れた。高校に入ってからのいつもの光景。いつものルーチン。けれども、彼女の中で一つの言葉が、彼女の心を支配していた。
――味方をするなら、強い方と弱い方、どっち?
昨日のなちの言葉。中学時代の彼女ならば速答出来た質問。なのに、出来なかった。
自分の無力さを知ってしまったから。言葉ではどうにもならない、自分の力無さは、直接自分に帰ってきた。
泣きたいほどに、泣けなくなる位に。
ブルリと、体を震わせ、肩を抱く。気持ちが悪くなる。甘かった、としか言いようがない。皆が笑顔になってくれるだけで、それだけで良かったのに。
いつの間にか、自分すらちゃんと笑えていない事に気づいてしまった。
そんな自分を忘れるほど、なちのいない二年は長かった。
孤独。英雄と呼ばれていた自分のメッキが、はがれてしまうとたちまち人は消えて行った。もちろん、残っていた人も数少なくともいたが、皆、みんな、みんな、仮面のような顔をしている風に見えた。
いや、していた。体面、友達だから、助けてくれたから。みんな言い訳にまみれていた。
心から心配している人なんていなかった。片身斎はいつも謝っていたが、あれは自分を正当化したいがための行為だったということは、利戸那にはすぐわかった。ああ、なんて愚かしい。みんな言い訳にまみれている。
なちには人の心が見えにくくなったと言い訳したが、実際はその逆だ。
以前より、明らかに見えやすくなっていた。人の良さが霞むほど、人の悪さが。悪意が。
見えないんじゃない。見たくなかった。
知りたくない現実から、目をそらした。
なちはあの長く伸びた髪の奥から、まっすぐこちらを捉えていたのに。
「……わた、しは」
ブンブンと頭を振る。
自分が何も出来ないのはよくわかった。自分が英雄じゃないのも知った。
誰かを助けようなんて、おこがましいにもほどがあったのだ。
「なーちゃん……」
また、彼女と話したくなった。自分にこんな気持ちを植え付けた本人。このままではずっと引きずる事になるだろうこの気持ちは、もう一度彼女と話すことでしかきっと解消できない。
なーちゃんの学校に行ってみよう。
そう思い立った彼女の足は、既に彼女の高校へと歩きはじめていた。
どのくらい経っただろうか。校門前に座り込んだなちは、一人俯いていた。
太陽はもう傾き、月が顔を出しはじめている。
下校時間は過ぎ去り、辺りにはなち一人だけになっていた。
(なんで、こんなに……)
自分でも驚くほど取り乱したと、なちは感じていた。
油断していたのだろうか。傾き過ぎていたのだろうか。
弱さは見せてはいけないのに。
――――英雄とは。
下らない単語。束縛する言葉。片身斎も、井美イマナも、誰も。なちをよく知る誰も、誰もが彼女をそう呼んでくる。
英雄。そんなものに――。
「そうやって校門で一人で俯いて、何してんの?」
正面から声がした。なちが顔を上げると、そこには帽子を被った一人の男性が立っていた。
「……なんだっていいだろ」
夜に、見ず知らずの男が、自分に話しかけてくるなんて、なんて物好き。
垂れた前髪で顔を隠す。こんな姿をまなかに見られようものなら嬉しそうに貞子貞子と連呼してくるだろう。
「そうやって困ってるふりをしていたら、誰かが助けてくれると思った?」
「……何を言っている」
小さくそう反論するが、男の言葉が自分に当てられたものではないことがすぐに分かった。
「いや、そもそも助けてくれる人物がここを通るのかね。ああ、そうか。ここは校門だったな。けれど学生は全く姿を見ないけれど、いや、君は服装からして学生か……ちょっと髪のせいでわかりにくいけれど。なに? ずっとそのポーズしているのに誰にも話しかけられなかったの? うわー寂しい奴だな。いや、そんな姿じゃ……いや、なんで俺は容姿の悪口を言おうとしてんだ。すまん、今のは忘れてくれ」
「…………」
恐ろしく長く、気味の悪い一人ごとだった。ただ、聞こえている事をわかっているように謝ってくる所に、とさかに来る。
そして次の言葉は、なちに当てたものだとすぐにわかった。
「ま、誰も助けに来るわけないじゃんか、わかってるんだろ。誰も自分を助けてくれるなんてありえないんだって。みんな自分に必死なんだよ。必死だから他人が苦しんでいるのを見て、無視する。見ないんじゃない。見てから無視するんだ。避けるように迂回してな。面倒な事には巻き込まれたくないからな」
「…………そんなこと」
わかっている。なちは誰にも期待していない。
「なんだ、昔にでも浸っていたのか? 子供の頃はいいよな。運が良ければ本当の正義の味方に出会える。怖いものが無かった時代だ。羨ましいくらいに、まっすぐになれる」
声に少し力がこもっている。彼は本当にそう思っているようだ。
けれど。彼は言葉を繋ぐ。にんまりと、笑顔を浮かべて。
「お前には、絶対に現れないよ、正義の味方。だって、『英雄』なんだもん」
英雄。その言葉に反応してなちは、すぐさま顔を上げる。
彼は笑っている。笑って、帽子を脱ぎ、なちに手を差し出した。
「『力が欲しくはないか? 正しさを、貫ける力を』」
いつか聞いた言葉。どこかで聞いた言葉。
自分を根本から変えた言葉。
「お前……は」
「助ける側の人間が甘えたこと言ってるんじゃないよ『英雄』人間のまねごとして、楽しいか?」
『正義の味方』
幼かった彼女に、彼は一度だけ自分をそうだと言った。




