始まり
世の中みんな腐っている。
少なくとも、彼女の世界ではそうだった。
父はいない。物心ついた時には他の女とどこかに行ってしまったらしい。
母は死んだ。父のせいだったらしい。なぜ、らしい、と付けるのかと言えば、彼女は母の死に際を見ていないからだ。
身勝手な父にされるがままにされ、そして捨てられ、みじめなまま死んでいった母。
彼女を引き取ってくれた叔父と叔母、そして母を知る人は皆、葬式で可愛そう、可愛そう、と念仏のように呟いていたらしい。
彼女は、そんな母の顛末を叔父と叔母に聞かされ、全く可愛そうだとは思わなかった。
なぜあがこうとしない。口がある。手がある。足がある。
意思がある。囚われていた訳じゃあるまいに。
ふざけるんじゃない。叔父と叔母もそうだ。なぜ同情しかしない。
可愛そうだと? それしか言うことはないのか。壊れたテープレコーダーのように。
なぜ生前に動いてあげなかったのだ。弱い人間には多少でもいいから手を差し伸べてあげるべきなのだ。――ただし、この考えだけは、後に変更される。
自分は違う。母とは違う。母は弱い人間だった。
弱いからこそ、自分を守れなかったのだ。
故に、彼女は強くなった。母と自分が重ならないくらいに。
誰とも重ならないほど、孤高の存在に。
彼女は肯定しない。正義も悪も。
彼女は否定しない。自分も、他人も。
ただ一つを除いて――。
若年十五歳。
少女は、いつしか英雄と呼ばれるようになっていた。
いつだってやましい事をする時は、人気のない場所……例えば廃ビルなどが使われる。
ここならば滅多に人は来ないし、来たとしても少人数なので『口止め』も簡単だからだ。
さて、ここに例によって五人の少女が目隠しをされ、猿轡を噛まされ、体を縛りつけられて転がされていた。
少女たちは皆、学校の制服を着ているが、全員ばらばらの制服だった。
そんな少女たちを囲むように十人ほど、男たちが立っている。
全員が全員、下卑た目つきで少女たちを舐めまわしている。
どういう思いで彼らが、少女たちを見つめているのかはわからないが、何かに期待を寄せるように生唾を飲み込んだり、少女たちの四肢を、見つめながらサバイバルナイフを放り投げる者など各々の目的は違うようだ。
共通して言えることといえば、少女たちは今窮地に立たされている、という所だろうか。
男たちは、期待するような眼差しで少女を見た後、彼らの背後に立つ一人の男を見やる。
眼帯を付けた、初老の男性だ。しかし、眼差しは周りの若い者たちに負けず劣らずギラギラとした獣のような目つきだ。
「やれ」
初老の男性が一言、そう言い放つ。
周りの男たちは待ってましたと言わんばかりに、我先にと少女たちの体に飛びついていく――。
――彼らの幸せな時間はそこで終わりを告げた。
いつの間にか――五人いたはずの少女は、一人減っていた。
四人。そして近くに少女を縛っていたロープと目隠しに使った三角巾が落ちていた。
「一人いなくなったぞ!」
男たちのうち一人が叫ぶ。
たちまち、彼らに動揺が走る。
どうして? 先ほどまでいたのに? 目を離したのなんて一瞬だぞ?
口々に推測を話し始めた時、異変は起こった。
ごきん、と小気味の良い音が立った。
「あ……げ……?」
男たちの声が止まる。
一人、地面に伏した。
「『救えない、救わない、救われない』」
同時に、声がビル内に響く。
少し高い、ハスキーな少女の声。それなのに、その声は重く響いて聞こえた。
「あぎゃ!」
「ギッ!」
短く悲鳴を残して男たちが次々に倒れていく。
何をされたかもわからずに、胸の内に恐怖だけを残して。
「誘拐して、次は? 気持ちいい事でも? んで、飽きたら人身売買? ははは。最高にハッピーな人生だね」
悲鳴が続く中、少女の声が淡々と続く。
「でも、そういうことを私が許さない」
最後の一人。初老の男性を残して最後の一人が今、倒れる。
「……ばかなっ」
男が吐き捨てるように呟く。十人余りの男がここにいたはずだ。それなのに、
「こんな……餓鬼に……っ!」
男の目の前。目元まで髪が垂れた少女が、一人笑みを浮かべていた。
「私は別に誘拐が悪いとか言ってるんじゃないんだ」
少女は男に近づく。男が一歩後ろに下がる。
おかしい。この女はおかしい。
なぜ呼吸が乱れない? なぜ汗が出ていない?
なぜ、殺しても笑みを浮かべていられる?
「いじめとかで言うだろう? いじめられた方も悪いーとかってさ」
その次元なのか。この女にとってはその程度なのか。
「私はその通りだと思うよ。いじめなんて勝手に起こるんだ。好きにさせてやればいい。ただ、」
男は、少女に恐怖を感じた。この女に言葉は通じない。『出来あがってしまっているから』
完全なのだ。完璧、どこにも付け入る余地などない。
人は常に不安定だと言われる。だからこそ、意見を述べることで人は揺らぐのだ。考えもしないことをせめぎあい、地震の如く、自身を倒壊させる。
この少女には、倒壊させる余地が無かった。
「私が、それを許さない」
一歩、一歩、ガツンと靴が壁に当たる音。もう逃げ道はない。
少女は、変わらない笑みでこちらを見ている。右手が、血に濡れている。
「ッ! 化け物ぉぉ!!
男は胸から拳銃を取り出し、少女目がけて放つ。
「……うん。そうだね、私は……」
弾丸が当たる。あえて頭を狙わずに広い胴を狙ったからだ。
その弾を彼女は右手の手のひらを出し、受け止めた。貫通するはずの弾は、彼女の手のひらにへこみを作っただけだ。
「あはっ」
血が流れる。笑みが崩れない。むしろ更に笑みは強くなる。
男はそこでわかる。自分がすでに逃れられないことに。
遅すぎる自分の脳の回転を恨みながら、少女の最後の声を聞いた。
「「英雄だ」
「いや、これはない」
そう言って彼女は原稿を投げ捨てる。
「あわわ! なんてことすんのさ!」
放り投げられた原稿を大慌てで回収する少女、イマナは回収しながらジト目で放り投げた本人を見やる。
目元まで髪の毛が垂れた少女……後ろ髪は無造作にゴムで縛っており、あまり清潔感は感じられない。
が、制服はしっかりとアイロンがかけられており、ピシッとしている。
「読んでみてって言うから読んだけれど……なにこれ? 化け物?」
「にゃー! 化け物なんかじゃないよぅ! 英雄だよぅ!」
気だるそうに前髪をいじる少女に対してイマナは反論する。
休み時間。場所は廃ビルなどではく、イマナと少女が通う高校だ。
「いやいや、闇にまぎれて敵の首へし折るって、普通に怖いわ普通に」
「何言ってんの! 最近の主人公はみんなこんな感じだよ! 負け戦で、死ぬ覚悟した主人公だって、最後の意地でザコをぶっ殺しながら、大将首おいてけって呟きながら襲いかかってたよ?」
「…………あんた趣味悪いわね」
少なくとも、英雄と呼ばれるような人間なのだろうか、その主人公は。
「えー、なーちゃんなら出来るんじゃないの? そんくらい」
「出来るか!」
ぽかり、とイマナの頭を叩く。
「にゃー! なーちゃんがぶったー!」
頭を押さえつつうーうーと、唸りながら床でごろごろするイマナ。
「あー、もう。ほら、立った立った」
そう言って、少女はイマナに手を差し出す。
「うー、なーちゃん優しいぃ。イマナ感激だよぅ。これが落として上げるって戦法なのね。ワナなのに、その優しさにとびついちゃいそう」
「飛びつくな」
飛びかかってきたイマナに少女は、顔面を右手でつかむ。そのままアイアンクロ―。
「あにゃー! やめて! 出ちゃう! 中身でちゃうー!」
一しきり暴れた後、ようやくイマナが落ち着く。少女はほっと一息ついた。