07.黄昏
気絶していたらしい。
硬い寝台に横たわった状態で目が覚めて、わたしはそれを自覚した。
なんだかひどく重たく感じる頭をずらして、視線であたりを探る。
年季が入って黒ずんだ梁と、古びているがよく掃除された屋根裏が見える。全身を預けている寝台もまた質素なものだ。
さらに見回すと、ここがちいさな部屋であることがわかった。本棚が壁の一面を占めている。頭の先のほうに小さな窓がついていた。その外は真っ赤な夕焼け空だ。
ここは、どこだ?
見たことがない場所だ。
どうして、わたしはここに……
眉根を寄せながら、わたしはゆっくりと身体を起こしてみた。
一瞬、強烈なめまいがしたが、すぐに治まる。無理をしないよう、おそるおそる上半身を起こして……ぎょっとした。
わたしの格好は、いつもの騎士服ではなかった。
留め金を兼ねた肩当ても外れているし、なんと、その下に着ていたはずの鎖帷子すら身につけていない。鎧の摩擦から肌を守るためにいちばん下に着ていた服だけを、身につけている現状だ。
顔が熱くなる。なんと気恥ずかしい。
自室以外では、いや、自室でも、寝るとき以外は最低限鎖帷子を常に着ている。それがないというこの感覚の、頼りないことといったら。大げさは承知だが、裸体をさらしているような心地だ。
つい羞恥に任せて肩をすくめると、今度はさらりと肩口から長い髪がこぼれ落ちた。赤みがかった金の波打つ髪。まぎれもない、自分の髪。またしてもわたしは仰天した。
髪が、ほどけている! いつもは邪魔になるからと、頭上にまとめてひっつめているのに!
身体も軽ければ、頭までふわふわと感覚が頼りない。
どうしてこんな格好を!?
大慌てで周囲にまた視線を走らせると、そう広くない室内の一角、書机のところに、わたしの装備一式が置いてあるのを発見した。きちんと畳まれた騎士服のうえに、冠鈑つきの肩当てが留め金といっしょに置かれている。鎖帷子は手前の椅子の背にかけられ、その下にはさやに収められたわたしの剣が立てかけてあった。
剣。
「あっ」
わたしは目を見開いた。
ようやっと、気絶する寸前のことを思い出した。
そのとき、その機会を待ちかねたかのように、正面にあった扉が開いた。
「あ、気がつきましたか?」
そこから顔を出したのは、若い娘だった。
耳の下で切りそろえた緑がかった黒髪と、はしばみ色の大きな瞳が快活な印象を抱かせる、愛らしい少女だ。年の頃はせいぜい13、4といったところ。瑞々しいさくらんぼのような唇が、いかにも人なつっこそうに笑みを形作っている。
「あなたは……?」
わたしは目を瞬いた。
少女は目を細めてとびきり可憐に笑いかけてから、躍り込む、という表現がぴったりな身軽な動作で、扉からこちらへ全身を表した。
「あたし、ミルティアっていいます。ミルティア・バーティアス」
そう言って、ぺこりと頭を下げる。
「バーティアス……それでは」
「はい、アルンバートはあたしの兄です。ここは、店の隣の住居です。騎士様がお倒れになったので、勝手ながらこちらに運ばせてもらいました」
呆然とするわたしに、ミルティア嬢ははきはきと答える。そのさまがなんとも好ましい。
「それは世話をかけた。かたじけない」
わたしはかるく頭を下げた。
顔がこわばってしまう。笑い返すだけの愛想がない自分が情けない。
「ところで、あの」
わたしが言いよどむと、それでなにか察したのか、ミルティア嬢はあわてたようにぱたぱたと両手を振った。
「あっ、あっ、大丈夫です! ていうか、あの、お召し物も御髪も、あたしが勝手にやったことで、すみません! でも、お兄ちゃんには指一本触らせてないです! あのモヤシときたら、非力すぎて騎士様をお運びすることもできない体たらくで……あっ、でも、運んだのは、あたしもできなくってですね、そこだけゼフ兄を頼っちゃいました!」
も、もやし?
「そ、そうか。ますますもってかたじけない。ええと……それでは、兄君は?」
「や、やだー、騎士様! あんなペンペン草に、あにぎみだなんて綺麗な言葉はもったいないです! あんなのヒョロ虫でじゅうぶんですよ!」
「ひょろ……」
「あっ、え、えと、すみません。あたしってほんとうるさくって……あの、兄でしたら、ゼフ兄を送りに、冒険者の店に行ってます。もう少しで戻ると思うんですけど。あっ、それで」
ミルティア嬢の表情はくるくるとよく動く。見ていて感心してしまうほどだ。
冗談めかして笑っていたと思ったら、恐縮したようすで、そっと顎を引いてわたしを上目遣いに見つめてきた。
「あの……お体の方は、だいじょうぶですか?」
「あ、ああ」
わたしはうなずいた。
「ありがとう、なんともない。そもそも……具合が悪くて倒れたわけでは、ないのだ」
言葉尻は、自嘲にまみれて小さくなった。
そんなわたしの様子に、ミルティア嬢が痛ましげに眉を下げる。
それが申し訳なく、わたしは弁明しようと口を開きかけたが……なにか言う前に、下がっていたと思った少女の柳眉が、きりりとつり上がった。可愛らしい顔が、一瞬にして怒りに染まる。
「あの、ヘタレモヤシめええぇぇ……! 引きこもりの分際で、こんな綺麗な人を悲しませるなんて!」
「え、あ、え」
「どうせ悪さする機会もないだろうと長らえさせてきたけど、あいつを兄と呼ぶのも今日までよ! 男として生まれてきたことを後悔させるくらい、徹底的にブッ潰してやる!」
な、なにを?
「あの、ミルティア嬢」
なんだか止めないととてもたいへんなことになるような気がして、わたしは怒りに燃える少女に口を挟んだ。
「そうではないのだ。わたしは、兄君からなにか狼藉を被ったわけではない」
「えっ」
「むしろ、狼藉はわたしのほうだ。告発されても仕方のないようなことを、してしまった」
そんなばかな、とでも言いたそうに目を丸くするミルティア嬢。
その右手奥に、立てかけたわたしの剣が見える。
友を斬られて、俺が黙っているとは思わんことだ。
そう言った戦士の、獰猛で冷酷な目を思い出す。あの、底冷えのするような青灰色の瞳。
わたしは身震いした。寒いような気がして、自分の肩を抱く。
「ミリー、騎士どのは?」
そのとき、また扉が開いて、今度はバーティアスが顔を出した。
「あっ、ちょうどよかった。いま気がつかれたところよ」
「まじか! エル!」
ミルティア嬢の言葉に、バーティアスは血相を変えて扉の向こうからまろび出、わたしを見た。
「その名では、呼ばないでくれ」
わたしは視線をそらし、まつげを伏せた。
「あっ、ご、ごめん……えっと、なんだっけ」
「ニア・エウクレストだ」
「そうだった。ええと、ニア、だいじょうぶか? あ、おい、ミリー、ニア……騎士どのに水持ってこい」
「えっらそうに!」
兄の命令を受けてミルティア嬢は頬を膨らませたが、それ以上は特に文句を言うわけでもなく、素直に部屋を出ていった。
それを好機と見て、わたしはベッドから這うようにして出た。うまく足に力が入らず、そのまま転げ落ちるようにして木床に這いつくばる。
「わっ、お、おい、だいじょうぶか」
「あいすまぬ。このとおり、深く陳謝する、バーティアスよ」
「ええっ!?」
驚きと焦りの混じったような声を上げるアルンバートに、わたしはかまわずに床に身を伏せ、頭を深く下げてあやまった。
「申し開きようもない。わたしのしたことは、野蛮で、不調法で、非常識きわまりないことだった」
なんの罪もない無抵抗の民に、剣で斬りかかったなど。
騎士としてというより、ひととして、なんと恥ずかしい、なんと愚かなことをしたものだろう。
感情に流されるなど、いい年をした大人のすることではない。たとえ、過去の古傷をえぐられたのだとしても……わたしは、受け入れると、逃げないと決めたはずなのに。なんと情けない、なんとふがいないことか。
一拍おいて思考が冷めたいま、後悔の念で身が焦がれるようだ。
戦士ゼフの怒りはもっともであった。むしろ、斬られずに生きているいまが信じられない。
「まこと、申し訳ない。このうえはどのような処断でも受けるつもりだ。官吏に突き出すもよし、直接騎士団に訴え出るもよし……どうか煮るなり焼くなり好きにしてほしい。そなた自身で手打ちにしたいのであれば、甘んじて受けよう」
「ちょっ、ちょっ、とっ、まっ、待て待て待て!」
頭を下げたままのわたしに、あわてた声が降りかかる。
肩に大きな手がかかり、思いのほか強く押され、頭を上げさせられた。
「なっ、なに言ってんだ、いきなり!」
整った顔をすっかり崩して、狼狽そのものといった表情でバーティアスがわたしをにらんでいる。
わたしは眉根を寄せ、目を伏せた。
「そうだな……さっきの今で、すぐに態度を変えるなど、軽薄ととられても仕方あるまい。だが、真実、心より悔いているのだ。わたしはひととして最低のことをそなたにしてしまった。その自覚があるからこそ」
「まっ、待て待てまーてー! だから、そういうことじゃなくって! あんた、騎士だろ! 城のお偉いさんだろ! こんなとこで一般人に頭下げたらだめだろ!」
「騎士だから、一般の民だから、という考えは好かん」
わたしはいささかムッとして、バーティアスを見上げた。
「だいたい、この場に、騎士もなにもあるものか。わたしは間違いを犯し、そなたはその被害者だ。だからわたしが謝罪する。なにがおかしいものか」
「いやー、おれらみたいな貧乏人にとったら、お貴族様にそういう態度とられるのは天地がひっくり返るような心地……あっ、いや、そうじゃない。そういうことでもない」
ぶるる、と水に濡れた犬のようなしぐさで、魔術師がかぶりを振る。
「そうじゃなくって、あの、そもそもおれが言いたいのは」
地べたに座るかたちとなったわたしと入れ替わるように、今度は、バーティアスがわたしに向かって頭を下げた。
「すまんっていうなら、おれも! ごめん! おれが、そもそもデリカシーがなかった!
転生者でもないのに、ゲームのことをあんなにまくし立てられたら混乱して当然だし、そこに加えてトラウマつつかれたら、キレて当然だったんだよな。そこまで、考えが回ってなかった。ほんと、すんません」
「で、でれかし……? トラウ、マ……とは?」
「あーそうだ。そうだよな。だめだ、頭が転生者モードになると地球語が出てどうしようもねえ……ええと、とにかく、おれが悪かったんだよ。おれがもうちょっと、エル……あー、ニアの気持ちを考えていればさ、ニアだって激昂するようなこと、なかったわけだし」
バーティアスは、頭を下げた位置から、わたしをそっと見上げてくる。
「ゼフにさんざっぱら説教されたよ。そこを見てたミリー……あの、さっきのチビな……あいつにも、事情を知らないくせに散々に言われまくったし。それで……やっとわかったってとこ。大事な家族を、ネタにしたみたいな言い方して、ほんと、ごめん」
そう言って、長身を折り曲げ、さらに小さく床に縮こまるようにして、頭を下げるバーティアス。膝を床につき、その前に両手を、その手の間に額を、同じように床につける仕草は、あまり見たことのない謝罪の格好ではある。だが、猛省しているというのが、見た目にもはっきりとわかる仕草であった。
「おもてを、上げられよ、アルンバート・バーティアス殿」
わたしは、さっき自分がされたように、バーティアスの肩に触れた。かるく押すと、バーティアスがわずかに頭を上げる。しかし、顔は下を向いたままだ。
「おれが悪かった。おれは、自分の都合でしか、今回のこと、考えてなかった。あんたは人間だ。あんたにはあんたの感情があるし、思惑がある。それを無視して、すまなかった」
神妙な声音には、また、あの必死さが戻っている。
「それでも……頼む。おれの話を、妄想なんて言って、片づけないでくれ。不愉快なことも、わけわかんないことも多いだろうけど、どうか……どうか、頼むから、おれの話を最後まで聞いてほしいんだ」
呆れた、というべきか、それとも、見上げた根性、とでもいうべきなのか。
この男、自分が殺されかけてなお、前世とやらの話に固執するというのか。いったいなにが、この男をこうまで駆り立てるというのか。
そうだ、それに思い出した。その前世によれば、わたしがなにかせねば、この世界が滅びるという物騒にもほどがあるようなことを言ってのけたのだったな。
わたしは黙って、うつむくバーティアスの頭頂部を見つめた。なんと言うべきか、自分でもよくわからなかった。
自分はどうしたいのだろう。少なくとも、流言飛語は大概にしろと怒鳴りたい気分ではない。では、この男を信用してもいいと、心を許せると、思えているだろうか。答えは否だ。あいにく、そこに素直にうなずけるほど、わたしはこの男をまだよく知らない。
バーティアスがゆっくりと顔を上げ、わたしを見る。
その瞳には、軽薄な口調から受ける印象とは正反対の、理知的な光があった。そして、次の瞬間、男の視線は彼方を見つめるように遠くなり、見えていた光も茫洋と溶け消えた。
「『俺様はなにも悪くないっていうのに』」
ふいに、バーティアスが、無表情のまま口調を変えてしゃべりだした。
「『みんなおまえが悪いんだ、この小娘め。兄上と同じ目で俺様を見るんじゃない』」
「っ……!」
その言葉。
その、拗ねた子供のような口振り。
それは……
でも、どうして……
わたしは息を呑み、思わず両腕で我が身を掻き抱いた。
それを見て、バーティアスが眉尻を下げ、眉間にしわを刻む。さっと一瞬その目元をよぎったのは、後悔か、同情か。
「失礼しまーす」
そのとき、水差しと杯を載せた盆を抱えて、ミルティア嬢が部屋に戻ってきた。
「ばかっ、おまえ、入るときはノックぐらいしろって!」
「えっ? あっ! やだ、あたしったら……って、なによ! さっきお兄ちゃんだってやんなかったじゃん!」
「おれはいいの!」
「いいわけないじゃん! ばっかじゃないの! ……あっ、騎士様、大丈夫ですか!? ちょっと、お兄ちゃん! 騎士様、具合が悪そうじゃない! なにボサッとしてんのよ! 寝台までお運びするの手伝って!」
バーティアス兄妹はひとしきりにぎやかに言い合って、結局ふたりそろってわたしに手を貸そうと近寄ってきた。
わたしはあわてて構えていた腕を解いた。
「いや、すまぬ。なんでもない……平気だ。どこもつらくはない」
つかまってください、と差し出されたミルティア嬢の手を、わたしはできるだけそっと押し戻した。
立ち上がる。もう足下はふらつかなかった。
「世話をかけ、まことに申し訳ない。だが……そろそろ、帰らねば。ひとかたならぬご厚志、心より感謝する」
「そうですか? きついときは、遠慮なく言ってくださいね。父は民間人ですけど、なかなか腕のいい薬師なんですよ」
「ありがとう。ご両親にもよろしくお伝え願おう。この礼は」
心配そうに見上げてくる愛らしい少女に話しかけながら、わたしは、視線をその後ろに立ち上がったバーティアスに向けた。
「後日、改めて伺おうと思う」
わたしの台詞に、バーティアスは一瞬目を見開き、それから、黙ってうなずいた。
装備を簡単につけ直し、なおも心配してくれるミリティア嬢に見送られて、わたしはバーティアス宅を後にした。
つい先ほど夕焼けを見たと思っていたのだが、外に出るとすでに薄闇が降りていた。いま帰れば城の宿舎の門限には間に合うだろうが、それでも、門番にはにらまれることだろう。
足早に通りを歩きながら、わたしはぼんやりと思案に沈んだ。
さっきの、あの、バーティアスの口振り……
あれは……
あれは、メネリス・マルセルのものだった。
メネリス・マルセル・リア・アゼキス。
かの方……イヴァン・マルセルの11歳下の弟。そして、かの方亡きあとの、マルセル家当主。
エルティニアの、叔父。
「なぜ、知っているのだ?」
歩きながら、疑念が声となって唇からこぼれ落ちる。
自分を俺様と呼び、すべての責を転嫁しようとやっきになる、年齢不相応な幼い性格と、口調。
『兄上と同じ目で、俺様を見るな』と言った。
あれは、かつてメネリスがエルティニアに実際に言った言葉だ。
真っ暗な部屋で、ふたりきりで。
ほかに誰も、あそこにはいなかった。外に音が漏れるような場所でもなかった。
それを、なぜ、一字一句違えずに、あの魔導師が言い当てたのか。
転生者。
前世の記憶。
ガルリアン戦記。
まさか……
やはり……
「本当なのか……?」
わたしのつぶやきは、唇からこぼれ落ちるなり、足下に濃く広がる己の影に染み込んでいった。