30.魚
「慣れないことを、いきなり大きくやるのはうまくないのう」
しみじみとした口調でわたしのしたことを咎める魔女リヒテルマイア。
彼女がまたパチリと指を鳴らすと、水がたゆたうだけだった何もない空間が、周囲を分厚く垂れ下がる布で覆われた、あまり広いとは言えない小部屋に一瞬で変じた。
似たような光景を見たことがあると思って、記憶を探るとすぐに思い出せた。
つい昨日、リオンタール隊長やアルンバートとともに訪れた、魔女のためにと割り当てられた離宮の部屋に似ているのだ。
まったく同じではないが、魔女の意向なのだろう、すべての光を遮断するように布で窓を覆っているので、記憶の光景と似ていると感じている。
「もう楽にしてもええぞ。ふつうに話せよう?」
「え? あっ」
さきほどからずっと状況の変化についていけずに呆然としていたわたしだが、声をかけられて、自分の姿が現実のものと遜色ないもので、手足を動かすのも発声するのも、なんの齟齬のない状態であると気づいた。
ただし裸身ではなく、服装は柔らかい薄手のナイトドレス……魔女と初めて対面したときにわたしが着ていたものを着ている。
とはいえ、現実のわたしはエウクレスト邸の浴槽に座った状態のはずで、ここが現実の世界ではないということはわかる。
だというのに、魔女は昨日我々を居室に招き入れたときとそっくり同じしぐさで、わたしに円卓の椅子をすすめた。
「お飲み」
コトリと音を立てて目の前に置かれた銀杯までも、記憶にあるものと同じ。
なかに入っているのがどろりと濁った液体というところまでも。
「よく眠れる茶じゃよ。身体を温めて心を安定させ、マナを鎮める」
マナ。
その単語に、麻痺していた思考が一部動き出した。
「魔女殿……さきほどは、なにが起こったのです?」
「ああ、お嬢ちゃんはえさになりかけとった」
「えさ?」
「慣れないことをすると加減がわからんようになって、よくないものしか呼ばんということじゃよ。おおかた、坊主のところへ行こうとしておったのじゃろう?」
目を瞬くわたしに、円卓を挟んだ向かいに座るリヒテルマイアは、にやにやと笑いかけてくる。
からかっているようにも見えるし、ほほえましいと言われているようにも見える。老婆の顔は表情が読みにくい。
「じゃが、見よう見まねで転移できるとは思わんことよ。あれでは魚にえさの場所を知らせるだけ。お嬢ちゃんが食われては、坊主の思惑がはずれてしまうわい」
「わたしは、ゼフュロスの無事を確認したかったのです」
魚だとかえさだとか、不思議なたとえがなにを意味するのかはまったくわからないが、責められていることはなんとなく察した。
自分の未熟は承知だが、咎められると反発の気持ちが出てしまう。わたしは拗ねたような口調で言い訳した。
「彼が……わたしのところに来て、今生の別れのようなことを言うから」
「ふむ、それは間違いではない。このままいけば坊主は早晩死ぬ」
「魔女殿!」
首肯とともにあっさりと恐ろしいことを口にする占術師を、わたしは思わず大きな声で諫めてしまった。
しかしリヒテルマイアは慌てることもなく、からからと高い声で笑うばかり。
「坊主を助けたいという気持ちに変わりはないかえ、お嬢ちゃん」
「いいえ、変わりました。前より強く、前より明確に、なにより優先してでも叶えたいと思っています」
「ほほ、青い青い」
笑う魔女が、とん、と杖で床を叩いた。
すると、円卓の上の中空に、光で描いたような平面図が現れた。
見覚えのある図案だ。重なる円と、そこから伸びる放射状の線。
ゼフュロスがわたしの身体に残していった呪印だ。
「お嬢ちゃんや、ひとは生まれてから死ぬまでの間、なにを成すと思うね?」
「え?」
「この婆は、あの坊主が生まれてきた瞬間からいままでを見つめてきた。母親の胎からあれを取り上げたのも婆よ」
「ゼフュロスを、生まれたときから」
それは、途方もない話に思えた。
なにしろ、正確なところは知らないが、ゼフュロスとわたしは同世代だ。自分が生まれたときからいままで、ずっとその成長を見つめてくれている存在というものに、わたし自身は思い当たるひとがいない。
両親はすでに亡く、養父となったシドレイ様も初めてお会いしたときには、わたしは4つか5つだった。幼いことには変わりないが、お会いした日を覚えているくらいの物心はついていた。
「ロアードの血は、ある日を境に魚の格好のえさとなった。魚はつねにロアードを食ろうてやろうと狙っている。では、魚がなにを目印にロアードを探し出すか?」
目の前の呪印は光で構成されているために半透明で、その向こうに魔女の姿が見える。
リヒテルマイアはその細い指を一本、目の前に差し上げた。
「ひとつは見た目。これはロアードだけではなく、シュルマすべてに共通するもの」
さらに一本、指が立てられる。
「ふたつめは、ロアードだけが持つ濃厚なオド。これこそが、ひとが生まれて死ぬまでの間に成すもの……いや、その副産物というべきかの」
「オド?」
聞いたことがない単語に、自然と眉根が寄る。
しかし、目の前の老女はその質問には答える気がないようで、ことん、と小首を傾げて顎を撫でる。
「はて……あれが生まれて、どれだけ経ったかの? 間違いなく10年は経っておるが……お嬢ちゃん、年はいくつだえ?」
「わたし、ですか? 18です」
「なら、坊主もそれくらいか……ふむ、それより1年早いか、2年早いか」
こつん。
ふたたび魔女の杖が床を叩く。
すると、目の前の呪印の中央に、人を模したような絵が浮かび上がった。
「ひとの成長がある程度進むと、オドの活性化が進む。魚はこれに引き寄せられる」
魔女の言葉に呼応するように、目の前の人の図案から白い我が放射され、元あった呪印の円に重なっていく。
「坊主のオドももうすぐ活性化する。成長する上でこれは避けられぬ」
「魚に見つかったときに……ゼフュロスが死ぬと、そういうことですか?」
「まあ、このままいけばの」
曖昧に答えたのち、魔女はくるりと杖を手の内で回した。
すると、卓の上に浮かんでいた図案がすべて消える。
あとに残されたのは、手つかずの銀杯だけだ。
「お嬢ちゃんのもとに坊主が現れたというのが本当ならば、それはオドを操ったということ……操れるほど活性化したオドに、じきに魚も気づくじゃろう」
「魚とやらがゼフュロスに気づくまでが猶予だと? 18歳以上になると、オドというものが活性化するのですか?」
「うむ。大体はそのくらい……まあ、ふつうは20歳前後と言われているのう」
魔女の言葉に、わたしはますます訳がわからなくなった。
20歳前後で人間の身体に起きる変化といえば、魔法の消失だ。
魔法は10代の若年者に発現し、身体的な成熟とともに消えていく……それが、我が国の常識だ。いや、おそらくは世界共通の認識だと思われる。
「魔法が使えなくなる」ことと、魔女の言うところの「オドが活性化する」こと……かたや消失で、かたや発生という、まったく逆のことがらを指しているのに、20歳前後という時期だけが符合する。
これはなにを意味しているのか?
とても重要なことの気はするが、それをどう解釈していいものかがまったくわからない。
わかるのは……そして、いまもっとも重要なのは、ゼフュロスの身体の成長が成熟にさしかかっており、それが成った瞬間に、彼は魚とやらに補足されてしまうということ。
それが、命に関わるということ。
「魚とは……なんですか?」
「低きを泳ぐ大きなものじゃよ。水面の向こうの星を見上げては、喰らいつけぬかと尾を揺らしておる」
「星というのは、転生者のことですか」
「よう覚えとるもんじゃ」
わたしの質問に、魔女は嬉しそうに肩を揺する。
「星は、まあ、本当に欲しいものではない。魚は天地を逆転させたいのじゃよ。いつかは星に成り代わりたい……いや、もっと言えば、星よりも太陽になりたいと思っておるのかもしれん。そのためにえさを喰らう。たくさん、たくさんの」
「太陽?」
「星をいくら束ねても、昼を照らす日の眩しさにはかなわぬ。なにより、星は無数にあるが、太陽は空にひとつきり」
魔女のたとえは抽象的すぎて、なにを指しているのか、なんの話なのか、まったくわからない。
途方に暮れる内心が、きっと顔に出ていたのだろう。
リヒテルマイアはこちらを見てはおかしそうに肩を揺らして笑う。
「これこれ、なにをぼうっと聞き流しておるのじゃ。そなたも陽光の申し子じゃというのに」
「わたしが?」
どういう脈絡でわたしも巻き込まれたのか、これもまた訳がわからない。
「そなたは一度太陽に至る道を手放しかけておったが、坊主を救いたいと思うならば、その道からは結局逃げられぬと思うがよいぞ」
「よくわからないのですが……ゼフュロスを助けるのに、必要なことなのですか?」
「さあて? 少なくとも坊主はそれを望んでおらぬ。だからその呪印がある」
魔女の杖がくるりと動いて、わたしの胸の下を指した。
自然と、わたしも手でそこを押さえる。ゼフュロスが残していった痣。
「さて、婆のお節介はここまでじゃ。魚に見つからぬうちにお帰り」
「魔女殿」
「リマじゃ。そうお呼び。ロアードの子はみな婆をそう呼ぶ」
すがるように身を乗り出したわたしに、老占術師はやわらかい口調で言って、卓上の銀杯を改めてこちらに押してきた。
「お飲み。心が落ち着こうから」
幼子に話しかけるような優しい声音は、温かで、どこか懐かしいような気がして、わたしから反問や抵抗の意思を消し去った。
言われるまま、わたしは自然な動作で銀杯を手に取り、唇をつけて一気に呷る。
舌先に触れた液体は温かく、甘かった。
とろりと粘りのある飲み物は意外にも飲みやすく、美味しく感じられて、ほとんど飲んだと意識しないうちに干してしまった。
そうして嚥下した直後、意識が、猛烈な眠気に見舞われた。
あまりの重さにとても頭を支えていられず、眠気に押しつぶされるように円卓の上に突っ伏す。
「聖女や、どうか、あの子を護っておくれ」
老女がぽつりと漏らした言葉の意味を理解する前に、その響きが子守歌のように思えて、わたしはまぶたを閉じた。
重苦しいとまで思えた眠気は、目を閉じて受容の姿勢になってしまえば、ひらひらと降り注ぐ花びらのごとくに優しく軽やかで、抵抗しようとも思わない。
そのまま、にじむように、溶けて消えるように、わたしは眠りのなかに埋没した。
*
「姫様!」
切羽詰まったような声に、わたしは驚いて目を開けた。
薄暗くぼやけた視界のなかで、こちらを間近に見下ろす双眸とかちりと視線がかみ合う。
「シドレイ、さま?」
「おお、姫様、お気がつかれましたか!」
呆然と目の前のひとの名を呼ぶと、青ざめていた精悍な男の顔が、ほっと安堵に弛緩した。
シドレイ様はなにをそんなに焦っていらっしゃるのか?
そういえば、ここはどこ?
疑問が引き金になったか、意識がだんだんとはっきりしてきた。
わたしは寝台に横になっている。前のめりの格好になったシドレイ様がその横に立っていて、その向こうには見覚えのある部屋の調度が見えた。
以前、わたしが療養中に滞在していた寝室だ。
「浴室でお倒れになっていたのを、侍女が発見し、こちらにお運びしたのです。俺も、いま駆けつけたばかりで……お加減はいかがですか?」
「そう、でしたか」
事情を説明してくださったシドレイ様にうなずきを返して、わたしはゆっくりと上半身を起こした。
肌に触れる感覚がいやに頼りない、と思って自分の身体を見ると、前開きの夜着を1枚羽織っただけの格好だった。
浴室で倒れていたというから、裸体にとりあえずと着せかけたのがこれだったのだろう。
「義父上、どうかお楽に」
さりげなく夜着の前を手で掻き合わせつつ、わたしは寝台横にひざまずこうとするシドレイ様を諫めた。
「姫様、しかし」
「いまは義父上の娘でございます。姫と呼ぶのはお控えください。わたしはもう平気です」
「そうはおっしゃいますが、姫、昨日もなにか危険なことがあったのではありませんか?」
「なにを根拠にそのような」
シドレイ様の鋭い指摘に、とっさにとぼけた返答をしたが、ぎくりと肩が揺れてしまったので無駄なことだろう。
養父は呆れたような、どこか怒ったような口調で言った。
「カシウス殿と話す機会がありました。あのかたは軽々しく秘密を漏らすようなかたではないが、存外わかりやすいところがある。ニアを気遣うように、と脈絡なく言われれば、なにかがあったのだということくらいはわかります」
……隊長……
「義父上がご心配されるようなことはありませぬ。
……それより、急に来た上にご迷惑をかけ、申し訳ありません。まだ勤務中だったのでは?」
「姫様の安全より優先すべき任務などありません。ちょうど邸に所用がありましたゆえ、助かったくらいです。使用人もみな、姫様がおいでくださることは喜んでおりますよ。ただ、くれぐれもご自愛ください」
「ありがとうございます。疲れが出たのだと思います」
まさかマナを操っていたなどとは言えず、わたしは適当な言い訳で通すことにした。
シドレイ様は幼い時分から知っている仲なので、わたしの性格を深く理解してくださっている。
わたしが踏み込んで欲しくないと思っているときは、無理に問いただすような真似はされない。よほどわたしが頼りない顔をしていなければ、できる限りこちらの意思を尊重してくれる度量をお持ちだ。
いまも、心配そうな目でこちらを見てはくるが、やがてちいさくため息をついて身を引いてくれた。
「ゆっくりとお休みください。しばらく滞在されるので?」
「ありがとうございます。明日からまたふつうに出仕いたしますので、どうぞお構いなきよう」
「侍女になにか食事を用意させます。またお痩せになられれば、俺はすぐにもカシウス殿に療治休暇を申請する覚悟でおりますぞ」
「心得おきます」
臣下の口調ながら、心配性の親らしいことを言いつけるシドレイ様に苦笑を返して、わたしは頭を下げた。
そうしてシドレイ様が退室なさると、療養のときも世話になった侍女たちが入れ替わるようにやってきて、着替えを用意してくれた。
ここに来るときに身につけていた布地について尋ねると、洗濯室で預かっているということだったので、丁寧に洗っておいてほしいと頼む。あれはミリーの刺繍の練習用だと言っていたから、きちんと返さねばならない。
明日、出仕の前に商業区まで下りて返しがてら、騎士服を受け取らねば。
ナイトドレスに着替え終わると、軽食が運ばれてきた。
粥と果実という臓腑に負担の少ない品ぞろえは、いかにもな療養食だ。
この前のひと月の療養期間といい、今回の浴室での気絶といい、弱っているところばかり見られているので、わたしは家人にすっかり虚弱体質と認識されているらしい。とはいえ、実際さほど食欲が旺盛なたちでもないので、これで十分だ。
食事をありがたく頂いてから、食後に酒を少し飲んで、あとは休むからと侍女たちを下がらせた。
空はすっかり暗く、窓の外は塗りつぶしたように真っ黒だ。
あまりにも光源が少なくはないかと、窓辺に歩み寄ってみると、見上げた空は曇っていた。雨が降りそうだ。
視線を正面に向けると、夜闇と雨雲の影に隠れてしまいそうな、暗いバルコニーが見える。
かつて意識の混濁したわたしに、あのひとが会いに来てくれた場所。
ご同輩と、からかうようにわたしを呼んでくれた。
「魚、か」
ぽつりと出した声は、自分のものではあったが、思ったよりもずっと低く、うなるような音になった。
頭のなかに、さきほどの記憶がよみがえる。
浴室で水のマナを操っていたときに、わたしの水鏡を端から汚染しようとした謎の黒い力。
そこにいるのは、だあれ?
子供のような口調の、知らない声。
わたしを『えさ』かと思って近寄ってきたらしい謎の存在。
水面の奥から、星を捕まえようと狙うもの。
「見つけたぞ」
窓に手をつく。
手のひらから硝子の冷たさが伝って、全身へと移っていくような感覚がした。
けれど、腹の芯にある熾火のようなものが、その冷たさを押し返す。
びき、と触れている窓がわずかに軋んだ。
オドなど知らない。
時間の猶予など知らない。
魔女の表現した、星も、太陽も、天地の逆転も……なんのことなのか知る由もない。
わかるのは、あれがゼフュロスを害するものだということ。
あれが、あのひとにすべてを諦めさせているものだということ。
あれが、わたしの探していた存在だということ。
あれは敵だ。
名も知らない、姿も知らない……あれこそが、わたしの敵。
わたしの憎むべきもの。
「許さない……あのひとを傷つけるものは、すべて」
全身が総毛立つような感覚がして、一瞬、窓についた手が発火したかと思うほどに熱くなった。
キンッ、という、剣を打ち合わせたような音が部屋に響く。
同時に、わたしの手を始点にして、窓が巨大な結晶を描くように凍り付いた。
それは一瞬で霧散し、キラキラと輝く無数の粒になって、わたしの周りを舞う。
「ゼフュロスは、わたしが護る」
窓から離した手を、握りしめる。
力のない女の手だが……剣が握れないなど、誰が言っただろう。
敵を見つけて、戦わない理屈がどこにあるだろう。
だって、わたしは騎士なのだから。




