28.風と蛇と
「大丈夫ですか、ニアさま? 寒いですか? 火を起こしましょうか? ほらそこにちょうど燃えやすそうな枯れた男がいますから、思い切って油かけてボッとやっちゃいましょうか。そうしたら少しはお心が軽くなるかも、ね?」
「いやホントすみませんでした燃やさないでくださいお願いします」
わたしの肩をそっと優しく抱きながらミリーが言った恐ろしい宣言に、アルンバートが床に額をこすりつけてわびる。
「馬鹿兄っ! まえにゼフ兄に気遣いが足りないって怒られたのをスコンと忘れたの!? このろくでなし! 礼儀しらず! ネクラ昆布! カエルの腐って干からびたの!」
「はい、その通りです。昆布でもカエルでもなんでもいいす」
よっぽと猛省しているのか、魔導師は妹にどれだけ罵られてもしおれたように床にはいつくばったままである。
わたしは恥ずかしいやら放火はやめろと諭すべきか迷うやら、あとはいろいろと感情が入り交じってどう対処していいのかがわからず、椅子の上で頬を押さえたまま硬直していた。
さきほどまで熱いと思っていた自分の頬が、いまは血の気が引いて冷たく感じる。
「もしかして」
わたしの口から掠れた声が出た。
「ヒロインというのは、遊技盤の人間以外に恋をするとまずいとか、そういうことがあるのだろうか? わたしは、そうなると、何の役にも立たないのか?」
わたしがゼフュロスを慕っていると知ったときのアルンバートの驚きようを見たとき、ふいに頭に浮かんだいやな予感を、おそるおそる言葉にして出す。
考えたこともなかったが、わたしがアルンバートの前世の遊技盤のヒロインだとして、そのなかで起きる奇跡や特殊能力というものは、遊技盤の通りにやらなくては発現しないものなのかもしれない。
だって、出会ったばかりの頃、アルンバートはわたしが遊技版と食い違っているということをとても気にしていた。
だから、そういうことなのではないかと思ったのだ。
だとすれば、わたしは本格的にお荷物でしかない。
せっかく、相手勢力に対抗できる手段になれると思ったのに。
そうして、ひいてはゼフュロスを助けられると……
「あ、いや、それはないと思う」
頭を上げたアルンバートが、きょとんと意外そうに目を瞬きながらかぶりを振った。
「ゲームのなかでだって、候補の誰を選んでも大筋は変わらないし、ヒロインの能力に違いが出るわけでもないし……そーいや、ゼフってめちゃくちゃ強いけど、バトルユニットでも出てこなかったな。シドはいるのに」
「義父上が?」
「いるよー。強いし美形だし、なんでヒーロー候補じゃないのかってファンの間では話題に……あ」
あっけらかんと話していた魔導師が、しまった、とばかりに口を押さえる。
その視線が横にずれたのを見て取ってから、わたしも遅れて、しまった、と思った。
わたしの隣には、混乱に眉根を寄せたミリーが立っている。
「えっと……なんの話?」
「いや、おまえは気にするな。騎士団の話だ。極秘事項。聞くとあとが怖いから、聞かなかったことにしておくのが平和で一番いいやつ」
怪訝そうな妹に、兄が早口にたたみかける。
そういえば、アルンバートはミリーに前世の話をしていないと言っていたような気がする。
しまった。軽々しく口にしてしまったわたしの責任だ。
「まあ、いつものことってやつでしょ。別にいいけど」
「そうそう、いつものやつ」
ミリーは唇をとがらせつつ、素直に引き下がる。
アルンバートはその返答にあからさまにほっとした様子で、へらへらと笑いながら長そうとする。
けれど、端で見ていればミリーが不満を抱いているのは丸わかりだった。
おとなしく従ったような口振りではあるが、その目が悲しげに曇っているのが見て取れる。
それは、認めてもらえないもの、目下に捨て置かれるものにとっては、よく見慣れた、ほの暗い感情に染まった目だ。
従うしかないとわかっているから、下手にごねてしまえば場をこじらせ、意固地にはじき出されてしまうだけだから、個人的な感情をすべて呑み込んでうなずいているだけ。
そこで押し殺された行き場のない悲しさややりきれなさは、消えることなく、薄れることなく、澱のようにだんだんと溜まっていく。
そのときにはふたをして見ない振りをするけれど、時間を置けば置くほどに膿んで腐って、負の感情を際限なく生み出す底なしの沼になってしまう。
わたしも同じだ。
女だから、若いから、正規軍ではないから、本当の貴族ではないから……
自分ではどうしようもない理由に押しつぶされて、結局このままでは場が立ちゆかないとわかるから、こちらから仕方なく折れる。
そんなことが、いままで何度あっただろう。
そのたびに溜まる鬱憤を、剣を振るい強さに邁進することでごまかしてきた。正面からぶつかることができなかったから。
「それはそれとして、だ」
わたしは無理矢理に話題を変えることにした。
ミリーの心のなかにあるものについて、ここで第三者が差し出口を挟んでも解決しない。
アルンバートにあとでそれとなく話をするように決意しつつ、とりあえず目の前の問題に向き合うことにする。
「ゼフュロスは昨夜、マナだけの存在としてわたしのところに来たのだ。わたしがマナを操って彼の姿を遠見したのと、理屈は同じだと言っていた」
なんだかんだのうちに羞恥も消えたので、いまのうちに事務的に事実を並べ立てる。
「ただ、視界だけ飛ばしたわたしと違って、触れはしなかったが彼の姿も見えていたし、声も聞こえた。たしか、見えている姿は彼自身が認識している現在の姿だと言っていた。それで、これは」
あばらの痣にまた触れる。
ーーおまえはほんとうに馬鹿だ
そう言って、わたしに寄りかかってくれたひとのことを思い出す。
彼に会うためなら、彼の憂慮を払えるなら、なんでもしよう。
そのために、利用できるものはすべて利用すると決めた。
「わたしに、ロアードの呪いを分けてくれると言って……朝、気づいたらこれが」
「呪いを、分ける?」
アルンバートが目を瞬く。
それから、ちょっとごめん、と改めてわたしの前にひざまずき、痣を検分しはじめた。
「そうか……! これは体内機関だけじゃなく、外とつなぐ記号なのか!」
「わかるのか?」
「いや、おれのチャクラ理論が正しいと仮定したうえでのことなんだけどね。
おれが見つけたチャクラはあくまで個人の体内で起きるマナの変換と魔力循環についてだけど、これはその循環を外に引き出すというか、逆に取り込むというか……とにかく、いま、ニアの体内魔力の流れは通常のものに追加して何本か外につながっている可能性がある。ゼフの言ったことが正しいなら、たぶんゼフの魔力とつながってるんだと思う」
顎を撫でながら独自の理論を展開する魔導師に、今度はわたしが目を瞬いた。
「それなのだが……まえまえから疑問に思ってはいたのだが、ゼフは魔法を使えるのだろうか?」
「あいつが魔法を使うところは、おれも見たことがない。ていうか、他人と魔力回路をつなげるなんて無茶な技、おれの知る限りの魔法じゃ無理だ。もっと別の技術……魔力を使ってる点で魔法ではあるかもしれないけど、少なくともおれたちが普段あたりまえに認識している魔法とは別物だよ」
「それを、ゼフが使いこなしていると?」
「うーん……あいつの戦法って、独特なんだよ。剣も体術も、突出して特殊というほどじゃないんだけど、どっか無茶っていうか、力押しっていうかさ。おれが思うに、そこらへんに魔力の補助みたいなものがあるんじゃないかな。あいつの自己治癒の話、したっけ?」
「昨夜、ゼフ本人からも聞いた。昼に遠見した怪我が夜の時点でかなり回復していたので、訊いたらそういう体質なのだと」
「ニアも同じ体質だったよね? あれは膨大なマナを循環させる機構が体内にあるからできることで、たぶん、それを転化させたのがゼフの戦い方なんじゃないかと思う。で、これもその応用で、マナを……どうにかしたんじゃないかなと、まあ、ぱっと見だから、いまのところはそれくらいしかわからない」
「それくらいでも、わかるだけで十分すごいのだが」
口惜しい、とばかりにうなるアルンバートに、賞賛と呆れが半々の視線を送る。
マナの体内循環について独自の理論を導き出しているうえに、それらをきっかけに所見の謎だらけの記号の意味を読みとったのだ。これが偉業でなくしてなんだろう。
相変わらず、息を吸うようにとんでもないことをしでかす天才だ。
「でも、どういうことなの? ニアさまとゼフ兄がつながってるって……お兄ちゃんと蛇みたいな関係ってこと?」
ミリーが無邪気に疑問を差し挟む。
「いや、詳細はこのマナの流れに介入してみないことにはなんとも……で、おれにはマナへの介入方法がわからない。仮説の仮説、単なる予想を重ねるしかない現状だなー。
……でも、魔術師と使い魔の関係か……なるほど、ミリーもたまにはいいこと言うなー。たとえば類似の作用だと考えて、これが契約を介さない取引……言葉通りの呪術だとすると、なにか共通の法則があるはず……」
「あ、ダメだわ、こうなると長いわ」
腕を組み、顎をうつむけてなにかブツブツ唱えだした魔導師の姿に、妹は真っ先に匙を投げた。
「ニアさま、どうぞお座りになってくつろいでらしてくださいね。ああなると、お兄ちゃんは隣でわめこうが踊ろうが一切反応しなくなりますんで、相手にするだけ馬鹿馬鹿しいです。この間にお茶でも飲みましょう」
「ああ……たしかに」
わたしはゆっくりとうなずいた。
アルンバートとはよく一緒に調べ物をするので、あの状態になった彼を見るのは初めてではない。
なにか思考の取っかかりを見つけると、アルンバートはあのように考えを口のなかで早口につぶやきながら、どっぷりと思考の海にはまりこんでしまう。ああなると、下手をすれば時間どころか寝食を忘れて没頭してしまうのだ。
これが城の執務室であれば、頃合いを見て無理矢理に思考から引き戻させるのが補佐官としてのわたしの仕事になるのだが、いまは彼の実家であるし、無理に引き戻すこともないかと早々に諦めた。
「お湯を沸かしてきますので、少しお待ちいただけます?」
「茶器を運ぶのを手伝おうか」
「ええっ、大丈夫ですよぅ」
恐縮するミリーが出て行こうとするのを、せめても先回りして扉に手をかけ、開け放つ。
途端に、ぶわっと固まりのような風が室内に入り込んできた。
その風にはきらきらと輝くものが含まれていて、一瞬、雪でも舞い込んだのかと錯覚する。
あ……これは、もしかして……
「きゃっ! やだ、なに!?」
入り込んできた風に髪と衣服の裾を乱されたミリーが上げた悲鳴は、しかし、その風に向かってのものではない。
わたしの足元の影が一瞬膨れ上がり、そこから黒蛇のアハトが姿を現したからだ。
「アハト?」
すると、アルンバートも珍しく思考の底から我に返って顔を上げた。
その意外そうな表情から、使い魔が姿を現したのが、主人の意図するところではなかったのだとわかる。
黒蛇はまるで庇うかのようにわたしに背を向けた格好で、おのれの主人を見、ミリーの顔を見てから、しゅうしゅうと音を立てて先割れの舌を出し入れした。
笑った。それを見て、わたしはなぜかそう感じた。
その次の瞬間、
『ここはなにも変わらないな』
揶揄するような笑いを含んだ男の声が、蛇の口から出た。
非常に聞き覚えのある声に、その場の誰もが目を見開く。
「ゼフ!?」
アルンバートが素っ頓狂な声を出す。
その言葉通り、蛇の口から出てきた声は、つい昨夜も話したばかりであり、ついいままでの話題の中心人物でもある、ゼフュロス・ロアードのものだった。
『あまり大きい声を出すな。扉が開いてるから防音魔法が切れてるぞ』
ゼフュロスの声で、蛇が冷静に指摘する。
わたしは急いで開け放ったままの扉を閉めた。
「ちょ、おま……いままでなにを、ってか、なんかいろいろ納得いってないし言いたいこともめちゃくちゃあるけど、とりあえず、なんでアハトに!?」
『落ち着け。身体が起きてる状態で飛ばすのは慣れてないから、あまり早口で言われると聞き取れん』
「なにしに来たんだよ」
『なんだ、呼ばれてると思ったからせっかく来てやったのに』
「うわっ、押しつけがましっ!」
焦った様子で詰め寄る魔導師に、ふてぶてしいほど落ち着き払った返答を返すのがいかにもゼフュロスらしくて、わたしは扉に背を押しつけたままの格好で、呆然とそれを眺めていた。
まるでいつかの夜のように、軽口を交わし合う親友ふたりの姿が見えるような気がした。それくらい、ゼフュロスの声音は自然だった。
「ええっ、うそ……ゼフ兄? ゼフ兄なの? ちょっと、やだ、なんでよりによってその姿なのぉ!? ちっとも劇的じゃないし、キモチワルイんだけど!」
『ようチビ、おまえは相変わらず脳天気な頭をしてるな。そういうことを言われると余計にけしかけたくなるだろうが』
「ぎゃーっ! やだやだやだ、絶対来ないで!」
ゼフュロスの言葉は飄々としたものだが、だからこそ本当に苦手な蛇をいますぐにもけしかけてきそうな雰囲気がして、ミリーは青い顔をして兄の背後に隠れた。
蛇が微動だにしないまま、ゼフュロスの声で笑う。
『嘘だよ。こいつを操れるほど深くつながれるわけがないだろう、アルじゃあるまいし』
「操作できない……同化や共有じゃないってことは、寄り代、でもないな……中継点にしてるのか?」
がたがた震える妹を背に張り付けたまま、アルンバートは驚き呆れたような声とともに目を丸くしている。
「なんだよ、その技術……ほんと、聞いたこともないぞ」
『なんだよはおまえの頭だ。一目見ただけでそこまで察するのはもはや病気だな。だからこそ、いままで隠してたわけだが……言っておくが、姫騎士の呪印はいじるなよ。下手な魔法で探るのもやめろ』
「どういうこと?」
『最悪の状況を避けたいんだろう? 言うとおりにしておけ』
「ニアに危険はないんだな?」
アルンバートは眉根を寄せ、いかにも納得がいっていないという表情で自分の使い魔を見下ろす。
蛇は落ち着かない様子で身体を揺すり、その場でとぐろを巻いて顎を落とした。
ゼフュロスが操っているわけではないと言うことだから、おそらくはアハト自身の意志による姿勢なのだろう。
『どう転んでも、あとはおまえに任せる』
蛇の口から、どこか諦観を帯びた、捨て鉢にも聞こえる声が出る。
わたしはめまいを覚えた。
足に力が入らず、背をつけた扉を伝って、ずるずるとその場に座り込む。
それに驚いた様子のミリーが、蛇を避けるように大回りでこちらに駆け寄ってきた。しかし、なにか声をかけられても、わたしはそれに反応することができない。
頭のなかに、昨夜の記憶がまたよみがえる。
気を失う直前のことを思い出す。
――風がおまえのそばにある限り……俺の末期はおまえに届く
死ぬ気だ。
ゼフュロスは、おのれの死期を悟ってわたしにこれを施した。
ロアードの呪いと言って。
わたしは、なにを浮かれていたのだろう?
いまの話を聞いて、いやでもわかってしまった。
ゼフュロスは死ぬ気なのだ。
わたしに、この痣を遺して。
これは、別れの証なのだ。




