27.チャクラ
「なにもここまでしなくても」
「うん、そーだね、ニアは気にしないよね。気にしてるのはおれのほうだから。ていうか、むしろなんていうの? 命が惜しいから?」
わたしが思わずこぼしてしまった言葉に、アルンバートは何度もうなずきながら、有無を言わせぬ強さで背中を押してくる。
とくに抵抗することなく押されるまま入った部屋は、以前にも訪れたことのある場所だ。
「そうです、ニアさま! たとえ王様が許したとしても、あたしが許しません! こんな干からびた童貞野郎にニアさまの珠玉の諸肌をうっかりポロリなんて、絶対に絶対に許容できません!」
横合いから、熱のこもった合いの手が入る。
こぶしを握りしめて熱弁を奮うのは、アルンバートの妹、ミルティア嬢ことミリーだ。
ここは王都の商業区にあるバーティアス魔法具店の奥まった一室、調剤室だ。
「どっ……おっまえ、そういう言葉を軽々しく使うのは女としてどうかと思うけど!?」
「なによ、あたしは本当のことを言ったまでよ! いままで、ひとりだってまともな恋人がいたためしがないくせに! 文句あるならお嫁さん候補をここに連れてきなさいよ、いますぐに!」
「たとえ実際に恋人がいたとして、いますぐなんか連れてこれるか! いまはそうじゃねーだろっ!」
「ま、まあまあ」
賑やかに言い合いを始めるバーティアス兄妹を、やんわりとなだめる。
胸下の痣を確認してほしいという要望を伝えたとき、わたしとしてはその場でさっと見てもらえるものとばかり思っていた。
しかし、アルンバートは倫理的にどうの、父親が後で怖いのと言い出して、なかなか首を縦に振らなかった。
そして、折衷案として出てきたのがこれである。
場所をバーティアス魔法具店に移し、その場にミリーが監督者として立ち会うこと。
「そうだわっ、ニアさまの貴重なお時間を浪費するわけにはいかないのよ!」
わたしの制止を受けて、というべきか、自発的にかもしれないが、ミリーが我に返ってかぶりを振る。
「それじゃ、ニアさま、僭越ながらお召し物をちょっと失礼させてください。お兄ちゃんはさっさと出てて」
「へいへい」
「のぞくんじゃないわよっ!」
「命が惜しいからやらんわ! 何のためにおまえを呼んだと思ってんだよ!」
「わかればよろしい」
ミリーの号令一下、アルンバートはのそのそと店舗のほうへと出て行き、わたしは部屋の中央に立たされた。
そうして室内にわたしとミリーだけになると、失礼いたします、と少女はうやうやしくわたしの着替えの手伝いを始める。
先の採寸のため鎧とダブレットを脱いだままだったので、外套と騎士服を脱いでしまえばコルセットのみの簡単な格好だ。
ミリーは脱いだ服を丁寧に畳み、それからどこか緊張の面もちでわたしの背後に立つと、コルセットのひもを外し始めた。
ふと違和感を感じて肩越しに振り向くと、その手がぶるぶると震えているのが見えた。
「ミリー、そんなに緊張しなくとも」
「はっ! す、すみません、あたしったら。ニアさまのお肌が、って思ったら……なんかもう、鼻血吹きそうで……」
「え?」
なにか不穏なことを言いながらも、ミリーはてきぱきと動いた。
コルセットを外すと、すぐに胸部を覆うように布を巻き付ける。さらに追加の布を臍から尻まで覆うように巻き付けると、肩に外套をかけてくれた。胸下のあばらの部分だけが露出したような格好だ。
こうすると、謎の痣がいやでも目立つ。
「寒くないですか? もう一枚なにか羽織るものをお持ちしましょうか?」
「大丈夫、寒くはない。……この布は、売り物かなにか? とても色が綺麗だ」
「あ、これですね。魔法の文様を織り込んだ、魔術師のローブの素材なんです。ていっても、あたしの縫製練習用で、売り物じゃないんで、気になさらないでください」
胸と尻とに巻かれた布は深みのある赤色をしていて、縁に花柄に似た可愛らしい刺繍がしてある。
手触りもいいし、王宮での採寸のときに触れた品々とも遜色のない出来だ。
「さすが魔法具店だな……わたしも、式典用のローブを仕立ててもらおうかな」
「まあ、ほんとうですか!? ニアさまのローブだったら、あたし、夜なべしてでも最高のものを作ります! お兄ちゃんに言って、王室献上品よりも上等な魔法糸を作らせますよ!」
「いや、たまにしか着ないものだからそんな立派に作るつもりは……王室にも納めているのか?」
「父がそういう営業に熱心で、何点か。ていっても、やんごとないかたがたは魔法なんてさほどご興味ないみたいで、お納めするのは簡単な護符をつけた装飾品くらいです」
話しながら、布が落ちてしまわないように、ミリーが留め具を当ててくれる。
それも貴石のはまった工芸品のような美しいものだ。
「できた! ……ああ、なんて美しいお肌……透き通って、そのまま消えちゃいそうなくらい」
「消えるのは怖いな」
身仕度が済むと、ミリーはうっとりとわたしの全身を眺め回す。
その不思議な言葉回しに、わたしは困惑して眉尻を下げた。
ただ布を巻いただけの格好だが、わざと一部をひねったり襞を作ったりして、まるでもとからそういった形の衣装であるかのようにまとめてくれた。この美的感覚は見事と言うしかない。
「ありがとう、ミリー」
「とんでもないです! あたしこそ眼福で……いえいえ、えへへ。ええっと、お兄ちゃんを呼んできます」
頬を紅潮させ、にこにこと上機嫌な笑顔のまま、ミリーは店舗への扉をくぐっていった。
それを見送ってから、わたしは改めて自分の身体に浮き上がった痣を見つめた。
光輪のような形をした痣。
単なる打撲痕などとは違って、なんらかの意図を感じる形だ。
手を当ててみるが、痛みも違和感もなにもない。
これは、本当にゼフュロスがわたしに残したものなのだろうか?
アルンバートはわたしの魔力に微妙な変化が起きていると言っていた。それも、この痣に起因するものなのだろうか?
――そんなに望むなら、呪いをおまえにも分けてやろう
昨夜、気を失ってしまう前に聞こえた彼の声を思い出す。
あの言葉が本当なら……これは……
「なんだよ誓約書って! どこの悪徳商会だよ、おまえはっ!」
「ニアさまのお肌を目にしようってんだからこれくらい当然でしょ! ほら、不埒な気は絶対に起こしませんって一筆書いて!」
「意味がわかんないっつの! やだよ!」
そのとき、やにわに賑やかなやりとりをしながらバーティアス兄妹が戻ってきた。
妹が強引に差し出す謎の書面を押しのけながら、アルンバートが部屋の中央にいるわたしの前までやってくる。
「ごめんな、妹がおもちゃにしちゃって。なんかセクハラされなかった?」
「せくはら?」
「セクシャル・ハラスメント……えー、性的嫌がらせ」
「まさか」
わたしは驚いて目を瞬いた。
女性が女性に対してする性的な嫌がらせ、というものに思い当たらなかった。
そもそも、性的嫌がらせとはどういうことを指すのかもピンと来ていない。差別発言のことだろうか?
「ちょっと、人聞きの悪いこと言わないでよね! あたしはきっちりとニアさまのお支度をさせていただきました! ちょっと見た光景を頭に焼き付けたけど!」
「くっそー……その発言、前世だとじゅうぶんセクハラなんだけどなー、くっそー」
「ミリー言うとおりだ、アルンバート。彼女の手際は本当にすばらしかった。王族付きの侍女にも匹敵するだろう」
なぜか悔しげに歯噛みする魔導師に、わたしは感じたことを素直に伝えた。
その言葉に、ミリーが大きな目をぱちぱちと瞬かせつつ、慌てた様子でかぶりを振る。
「えええ! ニアさま、それはいくらなんでも褒めすぎです!」
「そんなことはない。わたしには専属の従騎士がいないので、手の空いた小姓にいつも着替えを手伝わせるのだが、彼らよりも動きに無駄がないと感じるほどだ。それに、まさに今日やんごとなき侍女がたに着替えを手伝ってもらう機会を得たが、騎士服の扱いについては彼女たちはどうしても不慣れだからな。ミリーのほうが巧い」
「えっ、ニアさま、従者とか侍女がついているわけじゃないんですか!?」
「所属内に、女騎士がいないからな。侍女を連れて行こうにも騎士団は男所帯だし」
「ええええええ」
よほど意外だったのか、目も口もまんまるに開いて狼狽するミリーの肩を、アルンバートが容赦なく横に押しのけた。
「はい、雑談おわり。ニア、確認してほしいものって?」
「ああ、これだ」
促されて、わたしは唯一露出しているあばら部分を指した。
背の高いアルンバートはわたしの前にひざまずくような格好でそれを確認する。
「これ……?」
「今朝、目が覚めたら浮き出ていたのだ」
どう説明しようか迷いつつ魔導師の表情をうかがう。
アルンバートは、驚きと尊崇がない交ぜになったような、呆然とした表情で痣を見つめている。その唇が、一瞬おののくように震えて、それから、掠れた声を出した。
「チャクラだ」
「チャクラ?」
「ええと……おれの造語、というか、前世の言葉なんだけど。個人的にマナについて研究してて、それの仮説のひとつ」
マナは体内に取り込まれて魔力に変換されるまで、いったいどういう変化を起こすのか?
また、体内のどこで変換行為が行われているのか?
それを、アルンバートは個人的興味からずっと研究していたらしい。
そうしてたどり着いた仮説のひとつが「チャクラ」と名付けたもの。
マナは体内を絶えず巡っており、その主流とも言うべき大きな流れは額、胸、下腹部にある三点を通っていると。
さらにこの三点から分岐して支流が全身の末端まで及んでおり、それらは血の道のごとくに細かく張り巡らされて、最終的にまた本流に戻ってくるのだという。
「自分と使い魔しか研究対象にしてないから憶測も混じってるなんだけど、なんとなーく自分の体内の魔力循環のイメージを掴みかけてて……えっ、ていうかなんでそのチャクラそっくりな痣がこんな……てかほんとに? これ、なんで……あーいや、それより、あれだ。おれが描いたの……どこいったっけ? ちょっと待ってて」
アルンバートは落ち着かない様子で立ち上がり、近くの棚を慌ただしく探り出した。
「あれ? ない……ミリー、おれのノート動かしたか?」
「触らないよ、絶対あとでうるさいじゃん。そこ、仕入れ帳でしょ。お兄ちゃんのは隣」
「あっ、こっちか」
引き出し位置で多少ごたついてから、やはりがたがたと慌ただしく探り出してアルンバートが持ってきたのは、素材も大きさもさまざまな紙を紐でくくっただけの、帳面とも言えないような紙束だった。
「こ、これこれ」
興奮気味に、アルンバートがそのうちの一枚を開いて差し出す。
そこには、わたしのあばらに浮いた痣とよく似た図案が荒い筆致で描かれていた。大きな円に小さな円がいくつか重なり、そこから放射状に線が延びた図……横に細かな字で考察がびっしりと書き込まれているが、図案自体はほぼ痣と同じ形だ。
「これは……どういうこと? アルンバート、この絵は?」
「チャクラの仮説をざっくり図にしたもので、マナの動きを表してるんだ。大きい円がさっき言った主流、これが『門』になるみっつの機関で、これが支流」
「魔法陣のようなものだろうか?」
「この図案自体には魔法的な効果はないよ。だって、おれの勝手な落書きなんだから。それがなんでこんな……あ、よく見るとちょっと違う。『門』が増えてて、支流が全部中心を通ってる……なんかこれ、なにかに似てるなぁ……でも、ほとんどチャクラだ」
「その仮説は、どこかに公開しているのか?」
「いや、個人的な感覚をざっくりまとめただけのものだから、誰にも教えてないよ。魔研あたりに提出しようもんなら、リンデル師あたりにとっつかまって実験動物にされそうだし」
たしかに。
「親しい人間にのみ明かしていたとかいうことは?」
「ミリーならおれのノートの場所も知ってるし、覗いてるかもしれないけど」
「ええー、見てもわけわかんないし、触ったら怒るから覗かないよ! 失礼なこと言わないでよね!」
「怒るなよ。可能性の話だっつの」
「……ゼフュロスには?」
「へ?」
わたしがおそるおそる訊くと、アルンバートは目を丸くした。
言っている意味がわからないとばかりに数度まばたきして、それから首を傾げて斜め上を見る。
「ゼフに……? うーん、ない、と思うけど……あいつもたいがい勝手にひとの家に侵入しては定宿代わりに使ってたから、なにを見てるかはわからないなー」
「ちなみに、ゼフュロスは文字の読み書きができるのだろうか?」
「ガルリア語の読み書きならおれが教えたからできるよ? ギルドだと書類仕事も必須だからね」
「ふむ」
生活水準や地域によって識字率はまちまちだ。
農民はほとんど文字を読めないと聞いたことがあるし、他国の生まれならば母国の言語は読めてもガルリアンの言葉はわからない、ということもある。
しかし、話を聞く限りゼフュロスはその点は問題なさそうではあるな。
「ていうか、なんでゼフ?」
「この痣は、おそらくだが、ゼフュロスがつけたものなのだ」
「はい?」
「まっ!」
わたしがにべもなく事実を伝えると、アルンバートが眉根を寄せ、ミリーが目を見開き、猫のように毛を逆立てた。
「ぜっ、ぜ、ゼフ兄がニアさまのお肌にって、どっ、どっ、どっどういうことですか!?」
「ハイおまえちょっとうるさい」
思い切り動揺しつつもこちらに詰め寄ろうとする妹を、兄が容赦なく首根っこを捕まえて止めた。ついでに大きな手のひらで口もふさいでしまう。
「そういや、ちゃんと話を聞く前だったもんな。説明してくれる?」
冷静に促され、わたしはうなずいた。
依然アルンバートの話を聞いたときのように、部屋の中央の卓から木椅子を引っ張り出して互いに座る。
木椅子がふたつしかないので、ミリーは兄の膝の上に座った。首根っこを捕らえられたまま。
「ええと……なにから話すか」
卓の上に無造作に広げられた、アルンバートの独自理論であるチャクラの走り書きをチラリと横目に見てから、わたしはうつむきがちに視線をさまよわせた。
ミリーの動揺する様子を見てしまったあとだと、自分のあばらに浮いたものがとても恥ずかしいもののような気がしてしまって、今更身の置きどころがないような心地になってきた。
「ゼフュロスが……ええと、昨夜わたしのところに」
「来たの!?」
兄妹が驚きの声を揃えるので、思わずびくりと肩が震えた。
「えっ、あいつガルリアンに戻ってるの!? だって昨日ニアが遠見したって」
「昨夜!? 昨夜って言いました!? 夜にニアさまのお部屋に忍んだ!? うっそマジで信じらんないゼフ兄最低! スケベ!」
「いやあのええと」
「だっておれの結界になんの反応もなかったよ!? どっかに解れがあったってこと!? なんなのあいつの謎の超人ぶり!」
「あの、そうではなく」
「ニアさま、なにか変なことをされなかったですか!? いくら久しぶりだからって、な、なななななななにか不埒なこととかアンナコトとかソンナコトとかうわやったよ絶対やってるに決まってるだってゼフ兄だもん最低あいつ絶対今度会ったらブッ千切る!!」
「ミ、ミリー落ち着いて。なにもしていない。触ることすらできなかったのだから」
「えっ、あのタラシが指一本触れないなんてことある!?」
最後はまた兄妹揃った。
もはや一芸の域である。
「と、とにかく落ち着いて。ゼフュロスが来たというのは、なんというか、ある意味比喩的な表現で」
そっくり同じに目を剥いたバーティアス兄妹が絶句したのをいい機会に、わたしは事情を説明しようと急いで言葉を続けた。
「その、実際に来たわけではなく、あれをなんと呼んでいいのかわからないが、とにかく昨夜は夜中に目が覚めて、ちょっと窓を開けたら風が吹いて、それで、ええと」
怒ったことを頭のなかで思い出しながら言葉を連ねる。
考えをまとめるまえに言葉にしているのでとりとめもない言葉の羅列になるのが情けない。
ええと……
昨夜、風が部屋に吹き込んできたと思ったら、そこにゼフュロスがいたんだ。
背中からわたしを包み込むように、こう……
「あの」
エル、と呼んでくれた声を思い出す。
驚くわたしにいたずらっぽく笑いかけた、あの笑顔の甘さを思い出す。
急に、顔が熱くなってきた。
顔だけでなく、耳も首も、すぐ内側を流れる血が沸騰したのではないかというような感覚に襲われた。
熱い。燃えるというより、溶けてしまいそうな熱に、胸から上が一気に包まれる。
それはたぶん、見た目にも現れたのだろう。
間違いなく赤くなっただろう顔は、アルンバートとミリーに、しっかりと目撃されてしまった。
「えっ」
すると、アルンバートが心底驚いた、という顔で目を瞬いた。
「もしかして、ニアってゼフが好きなの!?」
「今更かい!」
動揺する兄の頭を、妹がものすごい勢いで叩いた。
べちーん! と大きな音が立ったので、それはそれは痛そうだったのだが、わたしはそれに驚くことも窘めることもできなかった。
ティナさまのときと同じく、指摘された事実にまともに動揺してしまって、熱くなった頬を押さえて椅子の上でうずくまってしまったから。




