25.嫌疑
「ティナさま、こちらの本は図書館に戻すものでしょうか?」
気づくと、その緑の装丁を胸に押しつけるように抱きながら、そうお伺いしていた。
「今日持ってきたものはすべて読み終わっているわ。その本に興味があるの?」
「あ、はい……お借りしてもよろしいでしょうか」
「かまわなくてよ。それは……まあ、マルセル伯爵の手記ね!」
ティナさまが本をのぞき込み、目を輝かせる。
「さすがニアさん、お目が高いわ。とても面白い本よ。政治思想に絡めて歴史にも踏み込んでいて、著者のマルセル伯爵はたいへんに聡明なかただわ。他国の文化を学んでらっしゃるニアさんにも、得るものはきっと多くてよ」
「そう、ですか」
「ぜひ読んでちょうだい。そして感想を語り合いましょう? 嬉しいわ、ほかのご令嬢はこの手の本には一切興味を示されないから、語れる友達が欲しいなと思っていたところなの」
はしゃぐティナさまに、曖昧にうなずく。
そのあと、図書館で互いに興味のある本を物色してから、この日は御前を辞することになった。
「今日採寸したドレスは、仮縫いを急がせるわね。陛下の晩餐会までは日があるけれど、お揃いなんだから、たくさん吟味して完璧に仕上げなくっちゃ!」
帰り際、意気揚々とかけられた言葉には、ついつい頬が引きつってしまった。
男爵相当の魔術師の位しか持たない女が、王女殿下と揃いのドレスを仕立てるなど……ティナさまのお言葉ではないが、本にも増して奇妙な出来事と言えるだろう。
とはいえ、嬉しくないわけではない。
ドレスそのものより、それだけわたしにお心を砕いてくださるティナさまの慈悲と親愛は素直に嬉しいと思う。
とりあえず、また近い内に参じますと申し上げ、騎士官舎に戻った。
手には図書館から持ち出した隣国の資料と、お父様の手記を抱えている。
足早に戻る道すがら、周囲に人気のないあたりまで来たところで自分の影に視線を落とした。
「アハト」
呼ぶと、影がうごめいた。
膨れ上がったそれは、瞬く間に見覚えのある黒蛇の姿になる。
アルンバートの使い魔、アハトだ。
「あなたの主人は、まだ隊長のところか?」
尋ねると、蛇は頭だけを上げて床を這いずりながら、妙に人間らしい仕草でうなずいた。
今朝、顧問の執務室に出向いたとき、そこにアルンバートの姿はなかった。
かわりに、手紙をくわえたアハトが出迎えてくれたのだ。
手紙によると、魔導師はリオンタール隊長に用事があるため、今日は使い魔の黒蛇がわたしの『護衛』として付き添ってくれるということだった。
魔法に長けた神秘の存在でもあるアハトは影にとけ込めるので、正直、業務をする上でも都合がよかった。
「わたしも報告があるので、隊長のもとに参る。主人を通して先触れを頼めるか」
人語を解する蛇にそう頼むと、アハトはふたたびうなずいて、するりと影に溶けていく。
それを確認してから、わたしも隊長の執務室がある官舎別棟へと向かった。
騎士官舎は王城の縮小版だ。
多層構造で、所属と階級によって割り当てられている区画が違う。
近衛候補の銀環騎士隊は官舎の中でも奥まった位置にあり、隊長の執務室はその上階にある。その関係上、どうしてもほかの所属の騎士たちと行き違うことが多い。
今日も兜をつけていないわたしは、昨日に引き続いてすれ違う騎士たちの注目を無駄に集めた。
ほかに女性のいない建物であるから、よほど物珍しいのだろう。
「重そうだね、持とうか」
声をかけてくる騎士まで現れた。
所属が違うので名前は知らないが、わたしとそう年の変わらない若者に見えた。
「結構だ。これしきを重いと思うようでは騎士などつとまらぬ」
わたしが堅い口調で答えると、意外そうに目を瞬かれる。
「騎士団にこんなに綺麗な女性がいるなんて、驚いたな。
オレはアルフォンソ・キプリー。きみ、名前は? もしかして、最近銀環に引き抜かれたっていう?」
「ニア・エウクレストだ。報告に向かう途中ゆえ、火急の用事でないなら退いてくれぬか」
「ふーん、いいよ。またね、ニア」
馴れ馴れしい口をききつつ、アルフォンソ・キプリーはとりあえずおとなしく引き下がってくれた。
これ以上声をかけられても気障りなので、わたしは構わず足早にその場を去る。
ずっと在籍している魔法騎士団は、正騎士と任務で重なることもなければ、詰め所も離れた場所に設けられているため、ほかの所属の人間から見ればわたしの存在は珍しいものなのだろうが……
それにしても珍獣扱いは落ち着かないものだ。
兜がはやく直ってくれればと思うが、ほかにもなにか対策を考えなくては。
途中、顧問官執務室へと立ち寄って手に持った本を下ろし、そこから隊長の執務室へと向かう。顧問官は副官相当の地位を与えられているので、実は隊長の執務室ととても近い。
目当ての扉の前に立ち、名乗りを上げてから入室すると、アハトに確認したとおり、アルンバートもなかにいた。
「ニア、おつかれさま」
顧問官の執務室ではないので、アルンバートは理知的かつ上品な外面でわたしを迎える。
「今朝はすみません、どうしても隊長どのと議論したいことがあったので……身体の調子はどうですか? 昨日の今日ですが、無理をしていませんか? 顔色は良さそうですが」
「お気遣いいただきありがとうございます。おかげさまで、体調に問題はありません」
わたしは頭を下げ、それからリオンタール隊長に向き直った。
隊長は見事な黒樫の執務机に座っておられる。その威風の堂々たるさまは、隊長というよりすでに将軍の風格にも感じる。
「失礼いたします。ニア・エウクレスト、任務のご報告に参じました」
「ご苦労」
わたしの敬礼に、隊長が鷹揚にうなずく。
「僕は出ていますね。終わったら呼んでください」
アルンバートがにこやかに言って退室する。
扉が閉まったところで、わたしは今日のティナさまとのことを簡潔に報告した。
「晩餐会か」
「はい」
「たしかに、陛下が来月の開催を望まれているという話は聞いている。内々のものらしいが、私はとしては、そこで次代を選出されるのではないかと思っている」
次代。
つまり王太子のことだ。
話の大きさに、わたしは言葉もなく息を呑んだ。
ますますもって、たかだか魔術師である自分には分不相応な場ではないか。
「姫は相変わらずなにかを狙っておいでのようだ……エウクレスト、アルを呼んできてくれ」
「はっ」
どこか固い声でつぶやいてから、隊長がわたしに下命する。
言われたとおり、扉の外で待機していた魔導師を改めて招き入れた。
「アル、王族にいるという転生者には目星がついているのか?」
魔導師が入ってくるなり、隊長が前置きもなく質問される。
その唐突さに、さすがのアルンバートも面食らった様子だ。数度まばたきして、それから呆れたような表情で無言のまま手をかるく振る。
ふわりと、音もなく周囲のマナが動くのを感じた。
「防音魔法かけるまで待つくらいしろよ。余裕ねぇなあ」
やれやれとため息混じりでこぼした口調が魔導師本来の砕けたものなので、どうやらいまのマナの動きで防音魔法をかけたらしいとわかった。
「ルーティナリア姫はここ数ヶ月で言動が著しく変わった。ちょうど剣舞会のころからだ」
「隊長……!?」
アルンバートの苦言に動じることなく、どこか苦々しくこぼしたリオンタール隊長の台詞に、わたしは思わず非難めいた声を上げてしまった。
「それは、まさか、ティナさまをお疑いということですか?」
否定して欲しかった。
頭のなかに、ついさっきお会いした美しい姫君の、年相応の寂しげな表情が浮かぶ。
好きなひとの気を引けないと何気なくこぼした、あの言葉に含むところなどなにも感じられなかった。
しかし、わたしの願望と裏腹に、隊長はあっさりと頷かれた。
「エウクレストは知らぬだろうが、ルーティナリア姫は本来もっと享楽的なかただ。興味はご自身が着飾ることと周囲を騒がせること。気まぐれに見目のいい男を誘って駆け引きを楽しまれることもあった」
「リオンタール様、お言葉が過ぎます!」
「事実だ。私はそれをずっと見てきた。それが、剣舞会のあとからおひとが変わられた。新しい宝飾品を探すでもなく、令嬢を引き連れて茶会を開くでもなく、政の知識を集めだし、政界の上層部と積極的に交流し、私に王太子になると宣言なされた」
「それのどこがおかしいのですか? 王女殿下にも太子に指名される資格がおありです。王族の自覚をお持ちになられた……喜ばしいことではありませんか?」
「喜ばしいで済む変化ではない。変わり過ぎなのだ。鳥がある日突然水中を泳ぎだしたようなものだ」
わたしの反問に、珍しく苛立ちを露わにされて隊長が席を立つ。
「アルの言う、悪魔の業を使うことすらいとわぬ転生者とやらを、私は絶対に止めなくてはならない。王族を護る騎士は、ひいては国を護らねばならない。国を脅かす存在は看過できん。
……太子指名を狙うと宣言されたときの、姫の望みを覚えているか?」
「ティナさまの」
わたしは息を呑んだ。
隊長とともに初めてティナさまのお部屋をおとなった際、ティナさまはたしかに次代の王になると宣言された。
なにゆえに、と尋ねたリオンタールさまに、ティナさまはおっしゃった。
自分は愚王になるのだと。
ガルリアン王朝を破滅に導く、そのために王になるのだと。
「国ひとつ揺るがすのは、たやすいことではない。だが、王ならばそれが出来る。王が悪魔の業を使うのならばな」
「そんな……そんなことを、ティナさまが」
否定しなければと思うが、言葉が続かない。
ティナさまのもとへ伺うようになってひと月ほどになるが、わたしはなんだかんだで、王位継承に対してのティナさまのお心を問いただせずにいる。
熱心に知識を得ようと努力なさるお姿を間近で拝見してきたが、そこにどんな真意をお持ちでいらっしゃるのか、踏み込もうにも、王女と一介の騎士という身分差を気にしてしまって……
ああ、だめだ。これは単なる言い訳だ。
わたしは恐ろしかったのだ。
ティナさまの心の奥深くまで踏み入るのが、単純に怖かった。
わたしには友人と呼べるほど近い存在など、いままで皆無に等しかったから……どう近づけばいいのかがわからない。
そうした足踏みが、ティナさまの真意を探りたいという隊長からの任務を、滞らせているのだ。
だからいま、リオンタール隊長の言葉を否定も肯定もできない。
悪いのは自分だ。認めろ。
「落ち着けっての」
そこに、魔導師が呆れ顔で割り込んできた。
「ここで喧嘩してなんか進展するか? 一気に考えようとするから、こんがらがって腹立ってくるんだよ。まず情報を整理しようぜ」
そう言って、勝手知ったる顔でリオンタール様とわたしに、部屋の奥へ向かうよう仕草で示す。
隊長の執務室の奥には、扉で区切られた専用の応接間がある。上官同士での内々の会談のための部屋で、窓がないので薄暗い。
魔導師が指を鳴らすと、魔法の光が天井付近に灯って、室内を煌々と照らした。
「カシウスの言ったことは、おれの危惧ともぴったり一致してる。王様なら国を簡単に壊せるって意味でね」
「だが、ティナさまは」
「落ち着いて」
応接用の円卓に我々3人が座ると、アルンバートが口火を切った。
わたしが口をはさもうとしたのを片手で制し、指折り数え上げる。
「主立った王族は現在6人だ。
国王、先王の弟のハーディン公爵、あとは王の子であるクレイグ王子、ルーティナリア姫、エルフィン王子、リデル王子……王妃を入れたら7人か」
「傍系を入れればきりがないがな」
「うん、宰相とか大臣にも血縁はいるしね、とりあえずそれは外しておく。これは怪しんでる候補から外すってことじゃなくて、いま、カシウスから出た質問に答えるために、とりあえず除外するぞってこと」
国王陛下は今年で即位33年となられる。御年が61になられるが、いまも威光の衰えぬ絶対君主であらせられる。
女性の登用、魔術師の地位向上、通商の規制緩和や身分に応じた教育改革など、28歳で戴冠なされてから今日に至るまで、数々の大胆な政策を実現されてこられたおかただ。
現王妃は第三妃にあたられるリュシール妃殿下で、ルーティナリア姫様を含めた三人の御子の母君でいらっしゃる。もとは西方の辺境伯の令嬢で、敬虔な巫女姫であられたという。
クレイグ殿下は唯一、いまは亡き第一妃セレンティ姫の御子で、お身体の弱かった母君に似て、ご幼少のみぎりは病気がちで室内で過ごされることが多かった。いまはご壮健でいらっしゃるが、そういったお生まれのせいか、たいへんに温和なお人柄で有名である。
ルーティナリア姫……ティナさまは、クレイグ殿下のふたつ年下で、リュシール妃殿下がまだ寵姫の身分であったときにお生まれになった姫君である。
とはいえ、教会にも正式に認められた王の御子であることには変わりない。
エルフィン殿下とリデル殿下は、ティナさまの同腹のご兄弟であらせられ、それぞれ8歳と2歳というご年齢のため、まだ後宮でお過ごしあそばされ、滅多に人前にはおいでにならない。
噂では、母君や姉君によく似た、たいへんに美々しい若君ということだ。
先王弟のハーディン公爵には、アンリ・ティリエスという、もうひとつの御名がある。
神名とも呼ばれる特殊な姓を名乗られているのは、彼こそが教会の最高権力者、教皇猊下でいらっしゃるからだ。
神の血を引く王家の一員として、国の信仰を正しく導く使命を帯びた聖人である。
ガルリアン南部にある聖地アレンティナにお住まいであるが、そのお姿を見られる機会は数少ない。なにしろ齢84というご高齢でいらっしゃるので、現在は公務も最低限こなされているだけと聞く。
「このなかで、直接政治のことに口を出せるのが国王とハーディン公爵。実家や後見人を介して発言力があるのが王妃とクレイグ王子。
あとの3人は後見人なんかの後ろ盾がないから政治的な発言力は現在持ち合わせてない。年齢的には問題がないのに構造的に発言権を奪われてるのは、そのなかでただひとり、ルーティナリア姫だけだ」
魔導師の解説に、リオンタール隊長ははっきりとした渋面をつくる。
好悪関わらず、これだけ感情の露わな表情をなさる隊長を見たのは初めてのことで、わたしは解説を聞きつつ意外に思った。
アルンバートもそんな隊長を見て、どこか呆れたような、気遣わしげな、複雑な表情を浮かべる。
「で、これを踏まえて考えると、姫の変心ってそんなにおかしいことか?
国王は女性の社会的地位向上を20年も前から訴えてるのに、その娘である姫は18歳になっても政治的発言権が与えられない。子供のうちはそれでよかったかもしれないけど、だんだん違和感が増えてくる。
カシウスもニアもわかるだろうけど、貴族の自覚なんてもんは環境がつくるんだよ。噂や甘言、無言の圧力……おまえはそこでなにをしてるんだってな。社交界の腹芸に慣れた頃にそれを感じたときに、焦るのはふつうのことだと思わない?」
侍女にかしずかれ、高位貴族にもてはやされ、きらびやかな品々を当たり前のように消費する生活。
わたしも伯爵令嬢だったころはそうだった。
乳母や侍女、騎士に恭しく扱われるうちに、自分はただの娘ではないのだと自然と背筋が伸びたものだ。
一方で、遠足と称して家族だけで過ごす時間がとても愛しく大切なものに感じていた。無邪気に弟と転げ回って遊ぶお転婆な自分と、令嬢として淑やかに躾られていく自分とに、だんだんと分かれていった。
両極の自分は、きっと他人の目からみると大した変心に見えただろうと思う。
「アルは姫を疑ってはいないということか?」
「そうは言ってない。でも、積極的に疑うほど突出して怪しくはないと思ってる」
「王朝を壊す発言については?」
「あー……そういうの、そっとしておいてあげたほうがいいと思うなぁ。誰にでもそーゆー時期ってあるでしょ」
「あるか?」
「カシウスもわりとその時期まっただ中だから気付いてないだけだと思うナー……ぎゃっ!」
がつん、と硬質な音とともに、小剣がアルンバートの目の前の卓に突き立った。
慌てる魔導師と対照的に、投げた側であろうリオンタール隊長は涼しい顔である。というか、前後含めて投擲の動作が見えなかった。いったいどんな早業だろう。
「刃傷沙汰反対! 暴力反対! 円卓は争わないための円卓なんですけどっ!」
「エウクレスト、改めてそなたの考えを訊きたい」
「あ、あの、はい」
「ひでえ、無視! パワハラだパワハラ!」
「ルーティナリア姫の側仕え、このまま継続し、私に報告することに異存はないか?」
わめき声を無視して、隊長がまっすぐわたしを見てくる。
その口から出てきた言葉を理解するのに、一拍の間が空いた。
ぼんやりしていた意識が一気に凝縮するかのような感覚を覚える。
「できます。やらせてください」
腹に力を込めて、はっきりとした発音で答えた。
 




