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17.瞳の奥にあるもの


 わたしは手を引いた。

 けれど、手首に巻き付いた男の手指は外れない。むしろ、こちらの身じろぎを戒めるかのように掴む力が強くなった。


「離せ」


 仕方なく、口で訴えた。

 なのに、それにすら反応はなく、黒騎士は静かにこちらを見下ろすばかり。

 埒があかないので、わたしは立ち上がろうと腰を上げた。相手がすぐ目の前に立っているので、そこに肩からぶつかっていくように前のめりに伸び上がる。

 いくらなんでもこれで退けるだろうと思ったのに、今度は手を掴んでいないほうの男の手が肩を掴んできた。


「なんだ、その手を――あっ」


 わたしの抗議は、身体が急に傾いて、中断を余儀なくされた。

 強い力が肩にかかって、上半身が大きくのけぞり、そのままガツンと大きな音を立てて後ろに倒されてしまった。肩鎧と兜が噴水の縁にぶつかって、なかの肉体に不快な衝撃が波紋のように広がった。思わずぎゅっと目をつむる。

 だが、今度は兜になにかの力がかかったのを感じて、すぐに目を開けた。目庇から見えたのは、革手袋に覆われた男の手だけ。兜を、掴まれている。


「やめろ!」


 わたしは叫んだ。

 黒騎士は倒れたわたしの上に乗り上げるようにして、兜を取ろうと手に力を込めてくる。その手を掴んで食い止めた。


 頭のなかに、さきほど水鏡で見た光景がよみがえる。

 皮肉にもいま自分が置かれている状況は、ゼフュロスが殺した騎士の顔貌を暴いたあの構図と、奇妙なほどに似通っていた。

 だが、わたしは死体ではないし、上にのしかかってきている男はゼフュロスではない。

 その違和感が、そのまま巨大な嫌悪感になり、わたしは兜を取ろうとする黒騎士に全力で抵抗した。


 男の指が兜の突起にかかろうとするたびに、両手で掴んで外させる。

 噴水の縁に横向いて寝たようなかたちになったわたしの脚に、黒騎士の脚が触れた。

 それが、なぜか、たとえようもないほどおぞましい感覚に思えた。


「いやだ! どけ!」


 外面や体裁などという概念は、一瞬で頭のなかから消えた。

 わたしは不自由な体勢のまま膝を蹴り上げ、黒騎士の身体と自分の腹のあいだに割り込ませた。そのまま足先で噴水の縁を踏むように突っ張って、いくらでも密着する身体を離そうと膝で黒騎士の身体を押しのける。

 黒騎士の手は片方がわたしの肩を押さえつけ、片方は兜にかかったままだ。わたしは兜を両手で押さえながら、肩を揺すった。男の手は外れない。びくともしない。


 まわりの空気が動き出す。マナがうねるのを感じる。さきほどの水鏡を操ったときと同じ感覚が全身に走る。

 あとはこれを取り込んで、魔法にして発動させてしまえばいい。筋力強化でも、目くらましでも、なんでもいいから。

 そう思うのに、頭の芯のほうで、なにかが焦げ付くのを感じた。

 それは記憶だった。

 周囲を包む歓声と怒号のなかで、どろりと淀んだマナを取り込んだときの感覚。あの息苦しさ。重苦しい、死のかけらのような魔力の塊。それはどんなに働きかけても定形を取らず、毒のように身体の奥深くまで勝手に溶けていってしまう。

 悪魔の業、重魔力。

 あれを使ったのは、いま目の前にいるこの男だった。

 その記憶が、わたしに魔法を使うことをためらわせた。


「おまえは」


 そのとき、黒騎士がはじめて口をきいた。

 わたしが全力で抵抗しているというのに、それを歯牙にもかけないような、平然とした口調で。


「おまえの名は、エルティニア・マルセルか?」


 黒騎士の冷たい声は、掠れていた。

 疲れ切ったひとのような、絶望に飲み込まれてしまったひとのような、生命力の希薄な声に聞こえた。

 そんな声で呼ばれた名前は、まるで知らない音のようで。

 だから、わたしは一切動揺を表さずに済んだ。


「貴様、気でも触れたのか?」


 あからさまな軽蔑の声音で言ったのに、黒騎士の表情は動かない。

 なにかがおかしいと、そのときになってようやくわたしは気づいた。

 見た目は剣舞会でまみえた黒騎士ジュードとそっくり同じだし、上から押さえつけてくる手も力強いが、その表情も声も、まるで作り物のように不自然に固まっている。


 なんだ、これは。


 わたしは得体の知れない感覚に身体が震えてしまうのを抑えられなかった。

 その拍子に、押さえる手の力が緩んでしまい、あっという間に兜を取り去られた。

 視界を狭めていた鉄板がなくなると、異常ははっきりと目にも映る。

 上から見下ろしてくる黒騎士の灰褐色の瞳は、焦点が合っていなかった。間近にあるわたしの顔を見ているはずなのに、どこか遠くを眺めているかのようなその視線は、盲いたものの目にも似ているようで、まったく違う。


 人形の目とは、こんなものなのではないかと思う。

 なかに生命が入っていないつくりものならば、こんな、空虚な表情をするのではないだろうか。


「エルティニア、だな」


 黒騎士の唇が動くのを、呆然と眺める。

 なにか、否定するような言葉を言わなければと思うのに、わたしは凍り付いたように口が動かなかった。

 不快感が、遅れて背中を這いずり上がってくる。ぞくぞくとまた身体が震え、わたしは弓なりに背がしなるのを止められなかった。


 名前を呼ばれた。エルティニアと。

 まるで死人のような声で呼ばれた。

 かつて愛する家族が呼んでくれた名前を。


「一緒に来てもらうぞ、エルティニア・マルセル」


 男の手がふたたびわたしの手首を掴む。

 そこから男の体温を感じることに、ひどい違和感を覚えた。人形のような存在に、生命を感じさせる温もりがあるなど、悪い冗談のようだと思った。

 手が引かれる。無理矢理起こされたところで、はっと我に返った。


「離せ! マルセルの娘など知らぬ!」

「絵姿なら何度も見た。おまえはエルティニア・マルセルだ」


 身体をひねって逃れようとするが、黒騎士は平然と捕まえたまま答える。


「マルセル家の悲劇ならわたしも知っている。わけのわからん流言飛語に惑わされたか」

「昔の話をしているのではない。いまのおまえと同じ姿を写した絵を知っているのだ。来い」

「なんだと?」


 エルティニア・マルセルの身の上話は、当時、ひとびとの格好の噂話になった。

 名家の醜聞であり、戯曲めいた悲劇でもあったマルセル家の没落に関わる顛末は、戯作者や風刺画家の題材として扱われ、勝手な憶測と誇張が入り交じった創作物となって民衆に流布した。

 それらのいくつかをわたしも見聞きしたことがあるが、話に出てくる『エルティニア・マルセル』は、金髪の美しい姫として描かれたり、そばかすの浮いた灰色の髪のみすぼらしい娘として描かれたりと、その作者によって千差万別の容姿をしていた。

 そのうちのひとつくらいなら、わたしと同じ特徴を捉えた描写があってもおかしくはないと思ったのだが……いまのわたしと同じ姿、とは?


「とにかく、離せ!」


 まともに取り合っていたらこちらの気までおかしくなりそうだ。

 わたしは強い口調で言って、捕まれた手首から男の手を振り払おうといっそう強く横に振るった。一瞬、拘束が離れた。そう思ったのだが、


「暴れるな」

「っ!」


 手首から離れた男の手が、わたしの頬に強く当たる。

 まるで子供をしつけるような平手打ちは、騎士同士ならば明らかな侮辱だ。


「黒騎士、貴様っ」


 張られた頬の衝撃が痛みに変わると同時に、わたしは目の前の男をにらみつけた。

 灰褐色の視線とわたしのそれとが真正面からぶつかり……


 ふいに、ひどい違和感を覚えた。


 のぞき込んだ黒騎士の瞳が人形のように平板なのは変わらない。

 その、奥に……なにかある。物理的なものではない。


 本来ならば意志を映すはずの瞳に、代わりのようへばりついた『なにか』。

 渦巻くもの。澱のように溜まって淀むもの。どす黒くて、濃密で、不快なもの。

 これをわたしは知っている。あのとき……剣舞会で吸い込んだもの。まったく同じでないとしても、本質がよく似ているもの。

 なぜ、それがこんなところにある?


 気づくと、周囲のマナが動き始めていた。

 さきほど動揺したときと同じように。あるいは、水鏡を練ったときと同じように。

 収束して、わたしのなかに入ってくる。

 それは魔力に変換され、自律する生物のようにするりとわたしの意志にからみつくと、次の瞬間には視線を通して外に流れていく。

 そうして、視線でつながる目の前の灰褐色の瞳に向かっていった。


「なんだ……?」


 黒騎士の顔に、初めて感情のようなものが浮かんだ。

 驚いたように見開いた目を通して、わたしの魔力がそのなかに入り込んでいく。まるで乾いた土に水が浸透していくように次々と流れ込んでいくのが、自分でも驚くほどはっきりとわかった。

 わたしの魔力が、さきほど見た凝ったものに殺到する。

 それを包み込み、溶かして、流していく。

 とはいえ、完全には融解できない。相当の量の魔力を流し込んでも、消えたと思えたのは表面に見えたわずかの部分だけ。

 けれど、それがもたらした変化は劇的だった。


「おまえ……なにをした?」


 黒騎士ジュードの表情には、いまやはっきりと驚きの感情が出ていた。

 声にも、驚愕と疑念の混ざり合った抑揚がついている。

 わたしは目を瞬いた。それと同時に、わたしから黒騎士へと流れ込んでいた魔力も止まる。そしてその代償のように、鉛のように重い疲労が急に全身にのしかかってきた。


「なにを……俺になにをした、エルティニア・マルセル」


 黒騎士の両手がわたしの二の腕を掴み、揺さぶる。

 ただでさえ重苦しい倦怠に苛まれている状態だというのに、不快感を増大させるような仕打ちに眉根が寄る。だが、黒騎士のほうはそんなことに構ってはくれない。

 施しにすがる餓えた人間のように、必死な様子でこちらに詰め寄ってくる。


「知るか。離せ」

「なにをしたのかを言え。なにか、魔法を使ったのか?」

「離せと言っている!」


 怒鳴って身をよじるが、そうするとますます強く男の手が腕に食い込む。逃がさないとでも言うかのように。

 そこには、さきほどまではなかった焦りのようなものを感じられて、わたしは舌打ちをしたい気分だった。

 これでは、自分で自分の首を絞めたようなものだ。馬鹿ものめ!


 そもそも、なにをしたのかと聞かれても、わたし自身もよくわからなかった。

 ただ、のぞき込んだ瞳の奥にあるものを不快だと認識したとたん、魔力が勝手に動いたのだ。そうとしか表現できない。なにをしようと思ったわけでもない。

 とはいえ、こんな乱暴狼藉を働くような相手に素直にそれを言ってやる気はない。


「やはり俺と一緒に来てもらうぞ。すぐそこに転移門(ゲート)がある」

転移門(ゲート)……?」


 黒騎士の口から出てきた言葉に、わたしは動きを止めた。

 転移門? それは、ゼフュロスが使ったものと、同じ……?


「あ、がっ!?」


 油断した。

 動きを止めたのを好機と取られた。片腕を引かれて体勢を崩されたかと思うと、腹に男の堅い拳が叩き込まれた。

 熱い痛みと強烈な吐き気、息苦しさが同時に来る。頭がそれを処理しきれず、意識が一瞬で真っ赤に塗りつぶされた。


 身体から力が抜けたところを、男の腕に足を掬われる。

 受け身など取れるはずもなく、再び噴水の縁に倒れたわたしは、後頭部をしたたか固い石にぶつけた。苦痛に染まっていた意識にさらに追い打ちがかかる。

 このままではまずい。そう思うのに、身体も意識も、凍り付いたかのようになにひとつ自分の思うとおりにいかない。


 身体に男の手が掛かったのはわかった。

 なにかをはぎ取られる。肩のあたりが軽くなったので、おそらく半身鎧を外されたのだと思う。

 胸の圧迫がわずかに緩み、わたしは急いで呼吸した。赤く染まっていた視界がわずかに色を取り戻す。

 しかし、次には身体を荒っぽく持ち上げられ、視界が大きく揺れて不快感が増大した。気づくと、黒騎士の両腕に横抱きにされていた。


 抵抗、しなくては。

 はやく。


 そう必死で思うのに、意識がだんだん鈍くなる。

 視界も、赤いと思っていたものがじわじわと上から黒く落ちていく。

 だめだ。

 だめだ、意識を失ってはだめだ。

 そう思って、わずかに動く唇を噛む。ぶつりと歯が食い込む痛みが意識を刺すが、それでも弱い。意識が塗りつぶされてしまう。だめだ。


「ぐっ!?」


 そのとき、頭上で黒騎士が呻いた。

 ただならぬ声色に、一瞬わたしの意識が戻る。

 痙攣するまぶたを必死に抑えて見上げると、異様なものが目の前にあった。


 手だ。

 かたちとしては人間の男の手が、黒騎士の顔を鷲掴みにしている。

 だが、その爪は鋭く、色はどす黒く、さらには手の甲と間接に、硬質な突起のようなものが浮いている。


「離レロ」


 次いで耳に入ってきたのも、歪に掠れた男の声だった。

 だが、この声は……?


「ぐわっ!」


 黒騎士が苦悶の叫びを上げ、その身体がまるでなにかに押されたように横ざまに吹き飛んだ。

 その腕のなかのわたしは、一緒くたに飛ばされる前に、堅い手に奪い取られるようなかたちで抱えられ、もぎ離された。頬にやわらかなローブが触れ、背中に硬質な腕が回る。

 強い力で抱き抱えられると、大量のマナが流れ込んできた。それらは癒しの波動となって、全身の苦痛をあっけなく払拭していく。

 一気に意識が覚醒し、そのあまりの急激さにわたしは咳込んだ。


「大丈夫?」


 緊迫しながらも気遣うような声が上から降ってくる。

 わたしは顔を上げ、自分を抱える男を見上げた。


「アルン、バート」


 呆然と男の名を呼ぶ。

 わたしを抱え、黒騎士を吹き飛ばしたのは、我が直属の上司にして天才魔導師、アルンバート・バーティアスだった。

 しかしその容貌はいつもの柔和で美しいだけの男ではない。

 その顔面の鼻筋から額にかけてを、鋭角に尖った黒い鱗が覆っている。

 そして、目が……


 白目の部分が真っ黒に染まり、橙色だったはずの虹彩は金色に輝いている。

 そしてその中心にある瞳孔は、まるで蛇のもののように縦に割れていた。

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