運命の二人 前
1
レーヴが迷宮を出ると、赤く紅葉した木々が目に入った。
視線を落とすと、一面に赤か黄色の枯葉が落ちていて、地面を見ることはできない。
視線を上げると、雲一つない、どこまでも澄んだ青い空があった。
ゆるやかな風が、レーヴの頬をそっと撫でる。
レーヴは感動のあまり涙腺が緩むのを感じた。
今の今まで、僕はずっと暗くて薄汚い地下迷宮にいたのだ。空の青色なんて、本当いつぶりだろうか。
レーヴが後ろを振り返ると、地面に大きな暗闇が覗いていた。今まさに出てきた迷宮の出入り口だ。
もうここに入ることはないだろう。レーヴは郷愁にも似た感慨を抱いた。
そう考えると、迷宮での生活も悪いものではなかった気がするから不思議なものだ。
レーヴはふっと微笑み、迷宮の出入口に背を向けた。
━━さて。僕には、まずやらなければならない事がある。
レーヴは自身の身体を見下ろした。どこからどうみても、完璧な全裸。見事なまでにすっぽんぽんだ。珠のようなお肌が、お天道様のもとで露出されている。
いくら僕が8歳くらいの、とても可愛らしい童女だからといっても、人間、全裸が許されるのはせいぜい乳幼児まで。それ以降は服を身につけていないと、奇異なものを見る視線を向けられてしまうだろう。
そう、僕には服が必要なのだ。僕はこれから、人間の社会に入ろうとしているのだから、いつまでもすっぽんぽんではいけない。
そう結論したレーヴは右手を掲げ、心の蛇口をほんの僅かにひねるようにして、魔力を少しづつ放出する。
ある程度まとまった魔力が出せられたら、団子状に凝縮し、それをゆっくりと薄く伸ばす。
すると、厚み1ミリ程度、広さ4メートル四方ほどの魔力布が出来た。更にこの魔力布を数回折り畳むと、過不足ない厚みと大きさの布になった。
再度魔力を引き出して、今度は糸状に練り上げる。
後はこの魔力布と魔力糸で服を作るだけだ。
魔力布を空中に固定して、魔力糸でチクチク縫っていく。
レーヴは何度か失敗した後、どうにか納得できる物をあつらえることに成功した。
縦長の布の真ん中に簡単に穴を開けて、そこへ頭を通し、脇の部分を糸で縫って繋げる。いわゆる貫頭衣と呼ばれる類の原始的な服だ。
純白の布地は、これまた純白の糸で縫われていて、清潔感のある装いとなっていた。
服を着て、やっとひとごこちつく。
当分はこの服で事足りるだろう。通貨を手に入れたら、服飾店などでちゃんとしたのを買えばいい。
レーヴは背伸びをして凝り固まった(気がする)肩をほぐし、よいせとその場で屈伸を始めた。次にアキレス腱を伸ばし、それが終わると腰を前後に曲げる。
レーヴは準備運動を終えると、屈み込み、足を地面に叩きつけた。
ぼふんっという音と共に、レーヴは空高く跳躍した。
大量の落ち葉が吹き飛び、ひらひらと舞い散らばる。
レーヴは生い茂る木々の背をあっという間に飛び越して、森の上空に躍り出る。
ほどよい高度で、レーヴは魔力を使い、身体を固定した。
「おぉ……。これは凄い」
空から見えた景色に、思わず感嘆の声がレーヴの口から零れる。
ここは盆地のようで、狭くない森は、標高の高い山脈に囲まれて鬱蒼と繁っている。
周辺の山々の天辺は真っ白な雪で覆われていて、壮大さを感じさせ、足下に見える森は赤色を中心にした、黄色と橙色の世にも見事なマーブル。丁度森の中心を流れる川は、太陽の光を受けて、きらきらと輝いていた。
「むむ?」
と、そこで、レーヴは珍妙な魔物を発見した。
迷宮の中層で稀に遭遇する、『目玉触手』と良く似ている。
木々の紅葉とそっくりな色合いのその魔物は、こちらに背を向けている。ずんぐりした身体から生えた無数の触手が、左右にユラユラと揺れていた。
確か『目玉触手』は戦闘時以外では、触手を体内に収納していたはず。
つまり、あの赤い『目玉触手』は狩をしているのだ。
興味を憶えたレーヴは、空中を移動。その触手だらけの魔物の上方から、何が狩られているのか目視した。
状況を正確に把握したレーヴは、赤い『目玉触手』に向けて、"光線"を撃ち放った。
2
どんな嵐にも耐えられそうな巨大な船が、満月の光に照らされ、悠然と夜の海を走っていた。
魔力を帯びた黒い帆は、風を受けてめいいっぱいに膨らみ、船を目的地へと推し進める。
この偉容を誇る巨船は、その実、たった一人の少女を護送するためのものだった。
護送といっても、少女の身の安全のためではない。少女を確実に死に追いやるためにである。
甲板の下。無数にある船室、その中の一つに、通常の五倍ほどの間取りの瀟洒な部屋があった。
扉の前には一組の兵士がたたずみ、威圧的に辺りを見回している。彼らが顔を動かす度に、金属同士が擦れて音を立てた。
味方など誰もいない船の中、美しい少女が一人、華美な部屋に軟禁されていた。
部屋内部の色調は淡い紅に統一されていて、要所要所の金の装飾がその印象をすっきりとしたものにまとめていた。箪笥から花瓶の一つに至るまで、王国が誇る、超一流職人の作。しかし、扉から、窓の一つ一つまで、完全に封がなされている。
少女、リーヴィリアこと、セプレス王国の姫は、美しいながらも無味乾燥さを感じる部屋の中、ベットの上に腰掛け、諦観と共にそれらを見やった。
リーヴィリアがここで過ごすようになって、もう3日目の夜だった。後少しで、4日目に入るだろうか。
なぜ一国の姫が閉じ込められ、死地に送られているのか。
答えは簡単だった。リーヴィリアは王座を巡る政略戦争に敗北し、政敵である従兄弟の王子に、始末されようとしているのである。
それにしても皮肉な運命だ。リーヴィリアは自嘲した。
親娘二代に渡って、同じ死に方を迎えようとしているのである。
リーヴィリアは不義の娘だった。王弟の父と、王の妾だった母の子。今は亡き王は激怒し、父に『竜の試練』を課したという。
『竜の試練』。セプレス王国の黎明期から続く、古い慣習だ。
セプレス王国の西方にある、決死級迷宮『竜熱の竃』に挑み、もし攻略することが出来たなら、罪人の罪を帳消しにするのだ。
迷宮の攻略とは、最深層への到達および、『迷宮の主』討伐を意味する。
勿論、単独での決死級迷宮の攻略など絶対に不可能。
それは王族などの、刑に処しにくい者たちを、体面良く死刑にするためのものだった。
父は、母との関係を糾弾され、『竜の試練』に挑んだと聞いている。
父は帰って来なかった。
そして今まさに、リーヴィリアは『竜の試練』のために、この船で『護送』されているのだ。
『竜熱の竃』の入り口がある、『血染めの森』で、リーヴィリアは開放される。
『血染めの森』は、迷宮から漏れ出す魔力で、年中真紅の葉をつけた森だ。険しい山脈に囲まれた半島にあり、往き来は船で行われる。
父はセプレス王国随一の、高名な剣士だったが、リーヴィリアの戦士としての腕は並だった。
しかし『血染めの森』は、『王魔』や『公魔』とはいかなくとも、上は『士魔』級までもが確認されている魔境なのだ。
上級魔物を倒す事がせいぜいな、この金色の髪の娘では、迷宮にたどり着くことさえも困難だろう。
リーヴィリアは無念だった。
彼女を蹴落とし、次期国王の座を不動のものにした、従兄弟王子。
彼は今現在、王国最強の戦士であり、男にして、魔術師としても非常に優秀だった。
しかし彼は、王の器ではなかった。
性格がどうとか、思想がどうとか、そういった問題ではなく、単純に彼には、戦以外の才能が皆無だったのである。
したがって正確には、リーヴィリアを殺そうとしているのは、王子本人ではなく、王子を祭り上げたルブル大臣を筆頭とした、諸貴族たちだろう。
彼らは、自身たちが甘い蜜を吸うことしか頭にない。
王子を傀儡にした彼らが、欲望のままに国を動かせば、きっと国民は貧困にあえぐことになるだろう。
しかしリーヴィリアの一番の懸念は、彼女が最後に王子と会った際、彼がぽつりと漏らした一言だった。
「……『地下都市』、征服してみたいな」
地下都市。セプレス王国の西方の大陸に展開する、都市群国家だ。小さな迷宮が大量に在ることで有名で、攻略済みの地下迷宮は住居として利用されている。
リーヴィリアは、ただの戯言と聞き逃していた。しかし、王子が次期国王の座を確定的にした今となっては、冗談ではすまされない。
王子が本気で、かつリプル大臣が王子を抑えきれなければ、地下都市とセプレス王国は全面戦争になってしまうかもしれない。そうなれば、間違いなく双方共に滅ぶ。
両大国の力は完全に拮抗していた。
それだけは、なにがあっても防がなければ。
しかし、閉じ込められたリーヴィリアに出来ることなど、もう何一つとしてありはしない。
己の無力に対するやり切れなさと、逃れ得ない死への恐怖がないまぜになって、リーヴィリアは頬に涙がつたうのを自覚した。
彼女はまだ14歳で、全ての重みを背負うのには、幼すぎたのである。
その二日後の朝、リーヴィリアは目的地、キリス半島に到着した。
3
海と山に挟まれた半島に、黒が印象的な船が停泊している。
荒波が岩礁にぶつかり、白い飛沫が散らばる。
海岸に吹き込んだ潮風が、浜辺の気温を少し低下させた。
半島に到着するや否や、船から降ろされたリーヴィリアは、額に布を巻かれ、目隠しをされていた。
ここから先は、口伝のみで山中の抜け道を伝えている一族が、リーヴィリアを『血染めの森』まで運んでゆく。
この一族抜きでは『血染めの森』にたどり着くのはほとんど不可能だ。セプレス王国が『竜熱の竃』周辺を神域としているが故である。
とっての付いた真紅の箱にリーヴィリアは入れられ、それを数人の船員が持ち上げる。
少女が入った箱を担いだ屈強な男たちは、船に残る仲間に会釈して、前方にそびえ立つ山に分け入っていった。
左右上下に揺られる数時間、リーヴィリアは膝を抱え、箱のざらざらとした壁に背中を預けながら、ずっと父母の事を考えていた。
リーヴィリアの母は、セプレス国王の第三側室という立場だった。
セプレス王国では、正妃、側室合わせて4人とるのが通例であるから、母は最後の王配偶者ということになる。
しかし母は、側室となってから一年もしないうちに、王ではなく、その弟の子を妊娠した。
だが、リーヴィリアを身篭ったのにも関わらず、母にはなんの処断もなかった。
柔らかい雰囲気を持つ女性で、よくベットに横になっていたのを憶えている。今思えば、母は体があまり丈夫ではなかったのだろう。
そんな母は10年前、リーヴィリアが4歳の頃に流行り病で亡くなった。
一緒に過ごした時間は短かったが、母の事は、今もリーヴィリアの中に強く残っている。
━━ヴィリア。
━━私の可愛いヴィリア。
━━今日は一緒のベッドで寝ましょうか。
━━男の子だったら、あなたの名前はレーヴァテインだったのよ。
記憶に残る母の声は、ひどく優しい。
リーヴィリアは、母のことが大好きだった。
反して、リーヴィリアは父の事を伝聞でしか知らない。
実直、誠実。騎士の鑑。誰にでも優しく、皆に好かれていた。
他者から得られた、父のカタチは様々だったが、おおむね父は好意的に捉えられているようだった。
そんな父が、どうして母に手を出したのか。それはわからないけれど、周りが父の話をするときにリーヴィリアに向ける、同情的な視線。
おそらくなにか、皆が納得のいく理由でもあったのだろう。
父の事は誰も話したがらなかった。
王の怒りを買ったからだ。
でも、リーヴィリアは特に父を知りたいとは思わなかった。先の父の話も、聞きもしないうちに教えられた事。
物心がついた時には、既に父親がいなかったリーヴィリアにとって、『父』とは教師に教えられる過去の偉人たちとなにも変わらない、どこか現実味の薄い存在だった。
でも。
同じ場所で、同じ死に方をすれば、父の事が、少しはわかるのだろうか。
リーヴィリアは考える。
そうでもしないと、暗闇の中で自分の心までもが黒色に塗り潰されてしまいそうな気がした。
そろそろ酔いが限界に近づいていたリーヴィリアは、揺れが収まったことに気がついた。
リーヴィリアの入っている箱が着地する。下敷きになった落ち葉がかさりと音を立てた。その後に枯れはを踏む音が続く。運搬人が遠ざかっていっているのだろう。
ついに、着いてしまった。
ここは正しくリーヴィリアの墓場だった。
少し汗ばんだ手で、自らを閉じ込めていた箱を押し開く。
箱から這い出て、リーヴィリアは立ち上がった。視界を覆っていた目隠しが緩んで、ずれて足下に落ちた。
赤く染まった森がリーヴィリアの目に入る。濃密な魔力が充溢していて、リーヴィリアはただならぬ雰囲気を肌で感じ取った。
肌が粟立つ。
ここは、危険だ。長居すれば、間違いなく死ぬ。
魔力を含んだ風が吹き、紅の森をざわめかせた。
深呼吸をして、リーヴィリアは腰元の短刀にそっと触れる。 リーヴィリアが持つのを許されたのは、この実に頼りない刃物だけだった。
リーヴィリアは魔術師だ。これを使うような羽目にならないように祈って、森の奥を見つめる。
リーヴィリアは『竜熱の竃』を、どうやって見つければ良いのか、散々悩んでいた。しかしそれは杞憂だった。
明らかにこの先の場所から、この森を覆っているのと同質の魔力が噴き出している。
酷い緊張で、口の中が酸っぱかった。
あそこに行けば、絶対に死ぬ。
だけど、もう行くしかない。
リーヴィリアは意を決めると、ごくりと酸味を飲み込んで、森の中心部に向かって進み始めた。
踏まれた落ち葉が、がさがさと鳴った。
5/12
修正。御指摘感謝
2013
4/1
修正。御指摘感謝
2015
1/6
修正。御指摘感謝。