我のなすは 2
レーヴは駆け寄ろうとする人間を制止した。
小さな手の平を向けられたあらゆる者は勢いを失い、足を止める。
首を傾げる女王に目線で確認を取って、白い箱の中の緑の少女に向き合う。
緑の少女は、深い息を吐いたところだった。一瞬前までは熾烈な魔術の攻撃を繰り出していたのだが、白い箱にかすり傷も付けられぬと見て、不貞腐れたように胡坐をかいている。会場を見回すその瞳は、怪しげな自信に満ちていた。
レーヴは今一度、緑の少女の姿を確認した。
まず目を惹くのはその身なりだろう。服と称してよいか迷うほどの襤褸切れだ。なんらかの出来事で崩れてしまったのか。元々は厚手かつ質素な拵えの趣味のいいドレスだったものだと思われた。僅かに残る面影から鑑みるに、おそらく長袖のドレスとタイツで基本的な露出はほぼ皆無に抑えつつも胸元を開いて色気も出す、という意匠であったのだろう。
そしてなんというか、全体的に緑色だ。髪も目も服も鮮やかな緑。相貌は中々整っていた。おおよそ美少女と称してよい、鮮烈な印象を放つ娘である。言動は刺々しいが、擦り切れた服の合間から健康的な肌色がちらちら覗いてそういう意味でも目の毒だった。
なんかこの娘、変にエロい。なんだろうか。敵っぽいから却って興奮するんだろうか…………お尻もみたい。
真面目くさった顔をしながらレーヴは内心そんなことを考えていた。透き通るような白銀色の瞳が微妙にねっとりとしているのだが、誰も気づいていない。望外の美貌を誇る少女がそのような妄想に頭を働かせているとは露ほどにも思わないのだった。
レーヴは一旦、白い箱に背中を向け、老婆に向けて歩き出した。
老婆。紅騎士のひとり。
警戒心も露わな鋭い視線が向けられる。全身ぼろぼろで膝を着いているが、大事はなさそうだった。
「お婆さん、大丈夫?」
と声をかけると、険しい表情だ。どうやら信用されていないようだ、とレーヴは気づいたが、騒動を面倒くさがって人目を避けてたんだからまあしょうがないか、と苦笑しつつ納得した。
その端整さの極地とでもいうべき瑕瑾すらない美貌に、老婆は鋭く目を細めた。
「……わしゃね。しかし他の……」
老婆は視線をレーヴに固定したまま震える指を滑らせる。
指先を辿ると、倒れ伏す騎士たちの姿。自分はいいからあちらを優先してくれ、という意味であろう。
レーヴは頷いて、緑色の彼女を尻目に最寄りの騎士へ駆け寄った。会場の視線が純白を追随する。
さて、と呟き、レーヴは騎士を見下ろす。悲惨な光景が広がっていた。
明らかに致命傷だった。あるいは、治っても深刻な障害を残すであろう傷だった。
身体が裂けて、てらてら光る赤い肉や白い骨、その中の赤い骨髄や黄色い脂肪が空気に直接触れていた。特に破壊された組織は砕け、崩れ、周囲に飛び散り、時には隣同士で混ざり合っている。漂う匂いは血液のそれだけではない。
レーヴは迷宮生活で様々な生物の中身を見る機会に恵まれていたために、大した衝撃は受けなかった。しかし悲惨なものは悲惨だし、痛々しいものは痛々しいものだ。
溜息ひとつ。
”円滑的魔力行使用魔術”を発動させながら、レーヴは傷口に白い手を翳す。
さて、魔力に一体どのような意思を込めたものか、とひと思案。
ただ傷を治す、だけでは傷そのものは治っても失った血液がそのままなので治療としては不完全であろう。レーヴは人体学に造詣が深いわけではないし、予期せぬ不具合が起こるかもしれない。
治す……じゃなくて、戻す? 時間を巻き戻し、文字通り元どおりにする。記憶や精神は除いて。
レーヴは頷いた。これなら造血や予測外の事故への対処も不要だ。別に「治す」でもいけそうな気は十分したが、こういうのは単純化するに限る。取り返しがつくだろうとはいえ、失敗して割りを食うのはレーヴではないのだから。これ以上の痛苦を味あわせるのは、何より気が引けた。
などと考えて、レーヴは翳した手に力を込めた。
小さく呟く。
「痛いの痛いの飛んでいけ」
戻れ。
念じる。自らの裡で魔力を燃やしながら。
白色の魔力が、レーヴの輪郭に薄く淡くきらきらと舞う。
すると――見る見るうちに塞がっていく傷。
床に広がる黒い血液が綺麗な赤色に色を変えながら、細まる傷口へ我先にと飛び込んでいく。所々異様に膨らんでいた肌がしぼみ、常態を取り戻す。骨が折れて隆起していたのだろう。青色に染まっていた皮膚も、滑らかな白色へと返っていく。
深い皺と共に固く瞑られていた目蓋が開き、瞳が朧げながらも自身に焦点を結ぶのを眺めて、レーヴは自らの選択が正しかったことを確信した。
騎士の体に染み込んだ魔力を抜き取って処置を終え、その他の騎士たちの元にも、たたた、と小走りで回る。他者の魔力が残留すると不快感が強いらしいことはヴァレイアのおかげで判明しているので、そこは念入りに。
そんな一幕を見つめる観客たちの価値観は――。
今度こそ、決定的な変容を来たしていた。
治癒魔術というのは、高度な技術である。あらゆる生物は自分以外の魔力を受け付けない。だから魔術による体内への直接攻撃は不可能であるわけだが、これは治癒行為も同じである。治療と破壊の境目は曖昧であり、無意識によって統制されている魔力の防衛機構は侵入してきた魔力の良し悪しを判断することができない。よって、そのすべてを弾く。
しかし、本人がその魔力の持ち主を心の底から信頼していた場合はその限りではない。この人にならすべてを預けられる、と本心から思えるような相手だと魔力による体内干渉を受け入れられるのだ。治癒魔術もこれと同じ理屈である。術者と被術者の双方が信用し合って始めて、治癒魔術は成立する。
つまり治癒魔術とは、単純な術者の腕だけよるのではない、密接な信頼関係に基づく魔術なのだ。治癒魔術に頻繁に世話になるような戦士たちには意図して心を開く技術が伝わっているが、これもやはり意識がある状態でこその技。
そう。
治癒魔術は、対象が気絶していては使えないのだ。
なのに、これは一体どうしたことか。昏倒している紅騎士たちが、次々と治されていく。
――考えられるのは、無意識下においてでも受け入れるほど親密な関係を騎士たちと白い幼女が結んでいるというものだったが、これは一心同体といえるほどの関係でなければ不可能だ。気難しいことで有名な紅騎士の彼女たちがそのようになる可能性は、親しくない観客たちの目からしても明らかに皆無。よって観客たちにとって現状は本来ありえないはずのものであり、しかしそれが現実となっているという事実は、生々しい実感を伴った巨大な衝撃をもたらした。
とある学者風の女性は落ちた顎と零れそうな眼が戻らないようだし、とある高貴な御老人は白目を向いて細かく振動している。無表情で自分の額をひたすら叩いている偉丈夫や、傾げすぎて首が折れそうな顔面汗みずくの男性の姿もあった。
呆けた表情で白い幼女を見つめるだけの機械と化した観客たちを尻目にして、レーヴは緑の少女を捕らえる魔力の箱の前に戻った。たん、と足の裏を床に当てて、顔を上げる。
緑の少女は、レーヴを凝視しつつ口元に手を当て、静かな面持ちで思案に耽っている。
レーヴは、空中に浮かぶ箱の中の緑の少女を見上げる。
緑の少女は、静かに見下ろす。
箱の極薄い壁越しに、二色の視線が合う。
レーヴは口を開いた。
「理由。聞かせてくれないかな」
それは会話の誘い水だった。
先ほど短いながらも言葉を交わしたレーヴは、緑の少女を翻意させることは難しいと感じていた。悪いことをしたのだから素直に反省して刑に服せ、とは言って通じる人種とは思えない。
だから説得を諦めて、せめてわけをきくことにしたのだ。
実は知人を人質にとられこのような凶行を強制されており、募る罪悪感から逃れんがために殺傷嗜好を獲得するに至った――のかもしれない。
リーヴィリアはレーヴの背中に「本来ならば大深罪――実験材料に確定ですが、超一流の魔術師は拘束するだけでも非常に大変なので、どうぞ処分なさってください」と言っていたが、そういうことなら話は変わる。可能性を考えれば即時処断はあまりにも憐れというもの。
あとは単純に、このような事態を引き起こす精神性に興味がそそられる、というのもある。
緑の少女は口元に手を当てたまま、会場の外に眼をちらりと向けた。間もなく視線を戻し、口の端から笑んだ口角を覗かせる。
細められた緑色の瞳が怪しく輝く。
「理由?」
「そう」
レーヴは頷く。彼女の立場からすれば乗らざるを得ない会話だと思っていた。逃走不能の拘束状態。ここを無言で通して立場が良くなるとは考えないだろうし、少なくともレーヴには考えられない。それとも、レーヴの思考の埒外にある回答を示してくるのか。
果たして、緑色の少女は口を開いた。
手の平をくるんと回して、あっけらかんと言い放つ。
「趣味だよ。性癖だ。気持ちいいからやってんだ」
レーヴは「え、えぇ…………」と表情を崩した。
白い柳眉を寄せながら問いかける。
「その、僕にはわからないんだけど……なんでそれが気持ちいいの?」
「お前らだって性交するだろ。それと同じだよ」
「せ……」
眼前の少女の紅い唇から飛び出た言葉にうろたえながら、レーヴは「いやそれは違うと思うけど……」と呟いて目を泳がせた。その頬は僅かに赤らんでいて、一人の金髪碧眼の少女が鼻血を垂らしたりする。
レーヴは頬を白い爪の先で掻きながら、話を戻す。
「ま、まあ、それはおいておいて……君はさ、暴力が好きなんでしょ? それは迷宮とかで魔物と戦うんじゃ駄目なの?」
緑の少女が会話に応じたことに内心安堵の吐息を零しつつ、レーヴは会話を続けてみることにした。
そう、迷宮だ。暴力衝動の発散というのなら、これほど最適な場所もない。そうでなくても、この世界にだって戦場のひとつもあるだろう。兵士など天職なのではないか。
首を傾げたレーヴの内心を察知したのだろう。
「駄目だ。この崇高なるあたし様は、単なる魔物斃しだの人殺しだのに惹かれるほどお子ちゃまじゃない」
それは……おこちゃまなのか……?
当惑するレーヴを他所に、自らの膝に頬杖をついた緑の少女はくひ、と笑った。
「あたし様は、大切なものが壊れる様に絶望する人間が見たいのさ。ま、苦痛に悶える顔ってのも悪くないけど」
「根性ねじくれ回ってるな……」
呟くレーヴに、欠片も頓着する様子がない。事実堪えていないのだろうし、言われ慣れているのだろう。聞き飽きたと言わんばかりの態度であった。
それにしても、とレーヴは眼前の少女を想う。
非常に邪悪である。普通ならば外に出てこない攻撃性がすべて綺麗に析出したかのようだ。加えるなら、彼女は興奮しているにせよ、その度合いは特別なものではない。話はきちんと通じている。理性的なのだ。
いわば、冷静な害意。
彼女にとって人を傷つけることは当たり前のようだ。まるで「攻撃」という字が心の根底に刻まれているかのよう。本人は趣味などと嘯いているが、真実かどうか。
どうだろう。本当に趣味なのだろうか。レーヴは考える。
――人を傷つけることに特別な快感を感じるってことは、逆にそれだけ人間を大事なものだと捉えてるってことだよなあ……人の存在にゴミ程度の価値も認めてなかったら、わざわざ関わろうとも思わないはずだし……
などと思考しながら、嘘だな、とレーヴは結論した。趣味人に共通する『こだわり』がないように見受けられたのである。趣味というより義務というか。本当に大好きなのだったら、どこが好きなのか熱烈に語ってくれてもよい。今はそんな場面であり、彼女はそんな性格である。
眼前の少女の姿をした人間の、その奇妙な人格がどのようにして育まれたのか、レーヴは一抹の興味を覚えた。
なので、もう少し会話を続けてみる。
「それは代替が効かないの? ほら、例えば……体操とか健康的な方向で」
緑の少女はうんざりとした様子で返答した。
「お前は一番欲しいものが手に入るって時に、わざわざ他の似たようなもので我慢するのか? その必要もないのに?」
「いや、必要はあると思うけど…………や、」
レーヴはふいと目線を上方に向けて、再び思考に没入した。
この娘は、そう。横暴だ。
例えば、視界の中で誰かが好みの菓子を持っていたとすると、彼女は即座に奪い取るだろう。
そういう気質の人間である。少なくともレーヴはそう判断する。
自分に付き合わされて傷つけられる他人の都合を、彼女は微塵も酌量していないのだ。
傍若無人。しかるに自己中心的。
レーヴは先ほど彼女に自制を促したが、しかし思うに、彼女のような人間には「周りが迷惑するから自重しろ」という主張は通用しない。
何故かというと、他人より自分の方が圧倒的に大事だからである。優先順位の問題だ。彼女の中では、一位と二位以下が揺るぎなくかけ離れているのだろう。
他人よりも自分が大切というそれは、ある意味当然のことでもある。それでも協調性を保つのが普通のところ、なのだが。常識から抜きん出た力を持ち、周囲にすべてを強制でき、それ故に「仲間」を不要とするなら。
そんな人間ならば必要ないのかもしれない。他を慮り、優しくする必要が。
結論。
超人じみた自己中は、他人の事情を鑑ない。必要がないから。
なるほどなるほど。
という思考を瞬間の内に終えて、レーヴは白銀の瞳を正面に戻した。
「そっか。君にとっては必要ないのか」
目線の上昇と下降は、ほとんど連続の動作だった。
緑の少女は面食らった様子で困惑する。一瞬、瞳が所在なさげに揺れる。
一方、レーヴは再び物思いに耽っていた。
――なんか僕が向かい合うのって、こういう人間ばっかだなぁ。
どうやら真性の戦闘狂いであるらしいバーミット。
決闘という名目でしきりにじゃれてくるヴァレイア。
そして嗜虐趣味というか破壊主義者の――
「そういえば君……名前は?」
今頃気づいた自分に少し呆れながら、上目遣いで問いかける。
緑の少女は、僅かな間に冷静さを完全に取り戻した様子で、剣呑に澄んだ瞳を向けて、鼻を鳴らした。
「名を尋ねる時は自分から名乗れよ。お前は礼儀も知らないのか?」
「……確かに。僕は、僕の名前は、レーヴ。君の名前は?」
「教えることであたし様になにか得でも?」
緑の少女はせせら笑う。会場の灯が夜風に吹かれて、彼女の顔の陰影が揺れた。
「名乗られたら名乗り返すのも礼儀じゃないの?」
「礼儀なんか、あたし様は今まで一度も気にしたことねえよ馬ぁ鹿」
これは……とレーヴは目を丸くして少々唖然とする。ここまで素直に悪意を向けてくる相手は初めてだった。正直、どう反応すれば正解なのかわからない。失礼な態度への怒りよりも、驚きにも似た新鮮さが先に立った。
もしこれが男だったらレーヴは真顔になっていただろうが、そして鉄拳が炸裂していただろうが、相手は犯罪者といえど見目麗しい少女だ。緑の少女に対するレーヴの態度はかなり柔和な域を維持している。
「そっか……」
レーヴはひとつ頷いて、別の方向から言葉の矛先を向けてみた。
「でもさ、人殺しってのは悪いことじゃないか。他のことで代わりがきくのなら、そうすべきじゃない?」
「はぁ?」
緑の少女は数度、瞬きをする。
「――『悪い』? 悪いって?」
突然、腹を抱えて、まるで眼前で豚が逆立ちして下痢便をぶちまけたのを見たかのように激しく大笑いし始めた。会場に、少女のいやに愛らしい笑い声が響く。
ひ、ひ、とひきつけを起こしながら、彼女は涙を零してレーヴを嘲った。
「お前、それだけの力があるのに、どんな育ち方してきたらそんなになるんだよ」
緑の少女は笑い止んで、眼を瞬いているレーヴへ、出来の悪い生徒を諭す教師のように言葉をかける。
「いいも悪いもねぇよ」
レーヴは即座に反論した。
「いや、あると思うけど」
「いや、ないね」
緑の少女は断じた。刺々しさを含んだ楽しそうな声音で続ける。
「いいか? この世に絶対の善悪なんかありゃしない。何がいいか何が悪いかなんて人が自分の都合に合わせて決めて押し付けてるだけだ。そして皆それを隠れ蓑にやりたいことをやってるだけ」
華奢な顎先を撫でさすりながら、緑の少女は眼を細める。
「いいことはやったほうがいいことで、悪いことはやっちゃいけないこと。そうだろ? なぁ……何か気づかないか。そうだ。そうなんだよ。これって、行動を制御するのに役立つだろ?」
緑の少女は一転して、真摯な声音で言葉を連ねていた。まるで、罵倒し合いに逃げて話を逸らすことなど許さないとでもいうように。しかし誠実にしか響かない声は、絡みつくような温度を帯びている。
「道徳教育は価値観の統制だ。内輪で傷つけあうことを厭い、全体にとって益になることを尊ぶ価値観に矯正してるんだよ。確認してみろ。お前らの倫理ってのはそうなってるだろ?」
「……」
小さく嘆息して、続ける。
「結局、善悪ってのは免罪符や予防線、大義名分と同じ言葉さ。もっともらしい理由付けがないと、したいこともできやしないのかお前らは?」
心底からの軽蔑を乗せた、穏やかな口調。
「あたし様にとっては悪いことで、お前らにはいいこと。お前らには悪いことで、あたし様にとってはいいこと。そこにどれだけの違いもない――すべて等しくなんでもない」
緑の少女はレーヴの瞳を見つめながら、言う。
「だからあたし様は悪くない」
緑色の爪を突きつけ、
「むしろ自覚もなしに、さも当然のように、いいことしてるみたいに……自分の善悪を相手に押し付けてるぶん、お前らの方がずっと、ずうぅぅっと、タチが悪い」
見開かれる緑色の双眸。滴るような悪意の視線。
「だからねぇ……善悪なんて存在しないが、あえて言うなら、」
緑の少女は爽やかな笑顔を浮かべて、はっきりと言った。
「お前らが『悪い』」
けして大きいわけではないその言葉は、会場中に響き渡った。
水を打ったように場が静まる。
誰もが、対する白い幼女の反応を固唾を呑んで見守っていた。
「……」
あらゆる視線の中で、レーヴは少し俯いていた。
「なるほど……」
顔を上げ、緑の少女を見上げて、レーヴは口を開いた。
「君の言うとおりだ」
緑の少女の眦が、ピクリと歪む。
「歪んだ……いや、歪んではないか。でも確かに、僕の正義感は正当なものじゃなかった」
「……そうだ」
白い箱の中の少女は尊大に頷いた。
その口元は、本人でも見抜けないほど僅かにだが、緊張している。
威丈高に首肯して見せた緑の少女であるが――内心、彼女は困惑していた。
この世には善行も悪行もなくて、人間は素晴らしくもなんともない。肉塊風情がお涙頂戴微笑み合って、それで、だからなんだ?
悪の言葉には一切耳を貸さないといった思考放棄した人種には通用しないが、この手の、相手を理解しようとする類の連中には有効な言葉である。
こういう『どんな意見も頭ごなしには否定しない良識のある自分』に酔っている輩は、人の善性を何にも代えがたい聖域であると理想化して、それを精神の土台にしている傾向が強い。
人間というものは、ここを揺さぶられると冷静でいられないものだ。逆上するにせよ、狼狽するにせよ、硬直するにせよ――自分の根底を守るために、なんらかの反応をせずにはいられない。
だから、無様に動揺する。そんな姿を想定していたのだ。そしてその隙を突こうと。
なので、これほどあっさりと同意されては、却って困る。
「やりたいことをしているだけ――後は全部、善悪も何もそれらしいだけの理由付け」
美しい真っ白な幼女は、呆れたように一息吐く。
「それが君の理屈。耳触りの悪さは、まぁおいておいて。とりあえず理にかなってはいると思う」
白銀色に輝く双眸を細めて、緑の少女に視線と言葉を投げかける。
「やりたいことをやる。うん。その通りだ。僕はやりたいことをやってる。やろうとしてる」
小さく頷きながら途轍もなく綺麗な声で言って、レーヴは緑の少女に尋ねかけた。
「――ちなみに、参考までに訊きたいんだけど、『やりたいこと』がバッティング……もとい、競合しちゃった場合はどうするの?」
「……それは、力の強い方が」
打ち勝って自らの欲望を果たす。
緑の少女は自然と返答していた。それは、彼女が常々反芻していた信条だったから。
言った後で、はっと緑色の目が微かに見開かれた。
「僕は君にむっとしている。君を懲らしめたいと思う。僕はこの間違った正義感に従って君をいてこましたい」
レーヴが意識の間隙を縫うような滑らかさで宙に浮き上がり、白い箱に近づいた。
ぴたり、と白い手のひらが半透明の壁面に触れる。
純白の少女は、きらめく笑顔で言った。
「だから、そうするね」
「――ッ!」
ぞっ――とただならぬ圧力が、華奢な白い背から逆巻くように緑の少女へ襲い掛かった。襤褸切れから覗く肌がぶわりと粟立ち、発汗していく。
華奢な腕が白い壁を透過して迫るのを、緑の少女は額に大粒の汗を伝わせながら凝視していた。
距離が削れるにつれ、いよいよ表情にも余裕がなくなり、本格的な戦慄の色が覗いてくる。首輪に手をやるが、そこも白銀の視線が向けられると火花を散らして完全に沈黙した。
ああ、終わるんだな――と誰もが思った、次の瞬間。
緑の少女の顔に笑みが浮かんだ。
汗に塗れ、畏怖に染まった表情の中に現れた、引きつるような小さな笑顔。例えるのなら、そう――それは九死に一生を得た笑みだった。
レーヴは瞬時に気がついた。
緑色の双眸の焦点が、レーヴよりも後方の空間にある。
「まあでもとりあえず」
レーヴは緑の少女の腕を掴んだ。しっとりと汗で薄く湿った健康的な肌を、小さな指先が完全に固定する。これでもう腕を千切らない限り逃げられないし、そうしたところで次の瞬間にはもう片方の腕をレーヴは握っている。
さあ振り向こうか、と首を曲げようとすると、コンコン、と大理石を軽く弾いたような音が鳴った。
離れかけていた視線を戻すと、緑の少女が自由な方の手の人差し指で、半透明の壁を叩いていた。
いささか悪い顔色ながらも、立派に口の端を吊り上げて、緑の少女は言った。
「この結界モドキ……どうやら音は通るみたいだな」
自由な片手で指を鳴らす。
無色の衝撃が爆発した。
直後、会場にいるほぼ全員の鼓膜が破裂した。散乱していたガラスの食器の残骸が、甲高い音を立てて弾け飛ぶ。
空気そのものが、大地震の渦中にあるかのように激しく振動していた。
レーヴは知る由もないが、それは”白昼世界”と呼ばれる音魔術だった。とある士魔の使う魔物魔術を再現したもので、膨大な音波の塊で相手を「殴りつけ」、物理的な損害を与える魔術である。構成の難易度は上の上。
緑の少女のなけなしの魔力すべてを注ぎ込まれて発動したそれは指向性を犠牲にして本来の数倍の爆音を撒き散らし、反応できた僅かな人間以外に絶大な衝撃をもたらした。
結果として、鼓膜を破壊された者のほとんどが瞬時に昏倒し、レーヴもその意識を囚われる。
「なんじゃこりゃー……!?」
めっちゃブルブルする世界に何故か囁き声で驚愕しつつ、レーヴはびくっと肩を竦ませる。ちなみに緑の少女の腕はしっかりと掴んでいる。
黒板を引っかくあの音を数百倍に凝縮したみたいだな。などと思いながら、不快感に眉をひそめ、いやいやそうじゃないだろ、と我に返った。そうである。緑の少女がレーヴの後方に意味深な視線を向けていたのだ。これは陽動だろう。レーヴは考えた。この驚きで確認するのを忘れたら緑の少女の思う壺だ。そしてそれは、癪。
レーヴは背後に振り返った。
その先には、黒い残像が揺れていた。
それも、すぐに消える。
「……?」
ううん? と思いながら、首を戻すために筋肉に力を入れる。
あれ、もしかしてこれが誘導だった? とちょっと顔を赤らめつつ前に向き直ると同時――。
ふっと空気がざわめいたかと思うと、レーヴの手は虚空を掴んでいた。
冷たい夜気が手の中をすり抜ける。
掴んでいた彼女がいない。
焦点が合うと、緑の少女がいた場所では、黒い靄が薄く漂うのみ。
白い箱の中は、いつのまにか空っぽになっていたのだった。
レーヴは目をぱちくりとさせる。
何事?
と思ったところで気づいた。後ろにいる。
「遅ぇよ……!」
「自分で先行しておいてその台詞か。くだらん」
そこには緑の少女と、身知らぬ男が浮いていた。
不健康な雰囲気を纏う黒衣の男だ。体のそこかしこが皮の帯で締め付けられ、引き絞られたような筋肉質の輪郭が浮き出ている。少しこけた頬の上では、灰色の瞳が粗い砂のような質感で曇っていた。
視線がかち合う。
レーヴは尋ねた。
「……、どなた?」
男は燕尾服のような長い裾を夜風に翻しながら、レーヴの言葉を無視した。掴んでいた緑の少女の二の腕から手を離し、肩に置き直す。
「退くぞ」
「くっそ……クソが」
冷たい闇で出来た刃のような瞳を、緑の少女がレーヴに向ける。
敵意に満ち満ちた眼光。
緑色の害意そのもの。
その光景を最後に、男と少女は消失した。
二人が浮遊していたはず空間には薄く黒い残像が漂い、それも消える。
一息の間に、会場には静寂が広がっていた。




