我のなすは
c-3
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損得勘定。
いい換えれば、利益と損害の計算。
損得勘定に従って生きるのは悪いことなのか。
いや。けしてそうではない。それどころか、動物として当然のことだ。何せ、そうでないと死んでしまうのだから。
利と害を量れない者が、あるいは量りとったそれに従おうとしない者が、早々に破滅することは語るべくもない事実である。
利益のみを追い求め、損害は徹底して切り捨てる。
これは正しい。生物にとっての絶対正義といっていいだろう。
そう。生物にとっては。
では、人間にとっては?
損得勘定に従って生きるのは正しいといえるのだろうか。
自らに降りかかるあらゆる事象を、機械のように『得』と『損』に振り分け続ける━━そんな人間がいたとしよう。
それの一体どこに、人間性があるのだろう。
人間味。人間性。人間らしさ。
人間と獣は違うものだ。この二つは隔絶していて、一緒くたに語ることはできても同列に扱うことはできない。獣性と人間性は異なるもので、重なる部分はあれどそうでない部分は確実にある。
ではどこが違うのか。
感情?
違う。獣にも想いはある。
理性?
違う。獣だってもの思う。
無駄だ。
獣には無駄が無い。人にはある。その個体が支配しうる範囲内での無駄の有無。それこそが獣と人の相違点なのだ。
事実、無駄のない人間には人間味がない。
無駄。
例を挙げよう。「損得を超えたもの」が世界にはある。
例えれば。
親が子に抱く愛。自分より仲間を優先する志。大事な誰かのために命を投げ打つ覚悟。
損得感情は自分だけのものだ。究極的な損とは死亡であり、巨大な利益があったところで死んでしまっては元も子もない。その回避に全力を尽くすのが生命としての本分である。
それを思えば、これら「損得を超えたもの」は異常に思える。
しかし、実はおかしくない。
何故なら子孫とは自分であり、仲間とは自分であり、大事な者とは自分だからだ。
より大きな自分を守るために自分を殺す。理に適った行為である。
よってこれらは本当の意味での無駄ではない。
自分と自分に属するもののみに抱く「損得を超えたもの」。それが他人に向けられて初めて、無駄となる。
赤の他人のために自らの何かを犠牲にする行為。利益が期待できない投資。これこそが無駄。
人間性とは何か。
万の言葉を尽くしても語れるまい。それをできるかぎり簡単に表すのならば、つまり、獣らしくないところが人間性なのだ。損得勘定でいうところの非効率で、無駄で、ともすれば自ら損に向かって行くことこそが、人間味というやつである。
そして誠意とは━━見返りを求めない真心とは、その筆頭で、とても大切なものだ。
レーヴはそう思った。
短くはなかった迷宮生活における、とるにたらない思考のひとつだった。
━━どうでもいい話だ。
前世での世界観を基にした話だし、第一レーヴ自身もう人間ではないのだから。
レーヴは頭の片隅でそう思った。
「で、出たー! 紅騎士団! 王国最初期から名を変え色を変えしかしいつの時代も最強の名を恣にしてきた世界屈指の強者の巣窟! 基本二人組もしくは三人組で行動し、上級士魔でさえ倒し得るという。代々戦闘能力だけでなくアクも強い団員を抱えながらも厳しい規律をもって高い水準で統率された彼ら彼女らは『セプレスの光』とまで呼ばれるのだーッ!」
「……何をおっしゃっているのです?」
「聞きかじりの情報を言ってみたかっただけ」
リーヴィリアの訝しげな声に、レーヴはさらりと返した。
夜天に爆音が轟いてから、レーヴとリーヴィリアは事件現場に赴いてきていた。もうもうと煙る緑色の霧が晴れた跡には紅騎士と犯人が向かい合っている光景があり━━それを目にした二人はことの成り行きを眺めようと、肩を並べて瓦礫の陰に潜んでいる。会場から二人を探す者がいれば、とある瓦礫の端から純白と金色の塊が飛び出しているのが見えたかもしれない。
冷たく暗い風が無数の瓦礫の合間を縫うように流れていく。リーヴィリアは体を震わせたが、レーヴにはまったく寒くない。
会場跡には緑色が鮮やかな犯人と高貴な紅色を纏う騎士たちが対峙している。
炎も凍えるような酷薄な視線が宙でぶつかり魔力場を乱している。
それをレーヴは、安全地帯から眺める。
全身真っ白の恐ろしいほど綺麗な幼女は、ちょっとした観客気分だった。
一時は助太刀しようとも考えたのだが、そこで目にしたのは機敏に駆けつけた騎士たちで、その仕事を奪うような真似は控えた方がいいだろうと大人しくしていることにしたのだ。
レーヴはその人外の視力にあかせて、彼女らを凝視する。
張り詰めた糸のような緊張感を作り出す女性たちは、合わせて五人。全員が全員、種類は違えど目の醒めるような美人だ。一人だけ皺だらけの老婆がいるのだが、背筋が伸びた彼女は一挙手一投足が恐ろしく洗練されていて、また別の意味で美しい。
油断なく細められた双眸、毅然と上げられた面持ち、隙を見せない佇まい。全身を包む完成された雰囲気。
魅力的な女性たちの凛々しい姿に、白い幼女は不謹慎ながら平たい胸を高鳴らせた。かっこいい魔物と迷宮『竜熱の竈』で出会った経験はあるが、綺麗な人間の女のひとが毅然としている姿を傍から見るのは初めてなのであった。
真性の幼女なら決してしない、妙に熱っぽい瞳で見蕩れていると━━ふにょん、と柔らかいものがレーヴの細い手首を包んだ。
「ぅえ?」
それは、人肌の温度。覚えがある生々しい感触に、レーヴの心臓が跳ね上がる。
しきりに瞬きをしながら視線をやると、リーヴィリアがレーヴの腕をふくよかな胸の中に抱きかかえていた。
「あ、あの……リーヴィリア?」
沈黙。
じっとりと湿った視線が、レーヴに突き刺さる。
レーヴは何が彼女の気分を悪くしたのか理解できずに狼狽する。その姿に、リーヴィリアはどこか不機嫌そうな顔をして、抱きしめる力を強めた。
腕を優しく圧迫する柔らかさに、レーヴは顔を赤らめて視線を彷徨わせる。
「ちょ……ちょっと……?」
ふと、拗ねるような表情がゆるんだ。
にこっと子供のように笑い、これ見よがしにふにふにと押し付けてくる。
「レーヴ様、どうかしましたか? お顔が赤いようですが」
白々しく首を傾げたリーヴィリアの長髪が揺れて、レーヴの肩をくすぐる。
レーヴは無言で目を逸らした。
なんか……この子、積極的過ぎやしないか? 恥ずかしいんですけど……
という今更な思考が、白い頭の内部を駆け巡る。
くるくると頭の中でなんらかの反応が起こり、不意にレーヴはリーヴィリアが防人のマルとなにやら不穏な話をしていたことを思い出した。そう、確か、『ペロペロ』。
黙するレーヴの小さな背中を悪寒が襲う。
肌を粟立てているレーヴを、リーヴィリアはきょとんとした顔で見た。
藪を突いて蛇が出られてはかなわない。
というわけで話題の転換を図る。
「……というか。大爆発だった割にはあんまり壊れてないね、ここ」
「爆発の予兆を感じた騎士たちが咄嗟にその向きを上に逸らせたのでしょう。建材が元々丈夫だったというのもあるのでしょうけど……」
力が緩んだ隙に腕を抜きつつレーヴが目を向けると、天井が崩れてできた瓦礫が床に散乱し、食品を乗せていた大卓はその下敷きになっていた。
その周辺には食器の破片が無数に散らばり、料理は無惨に潰れ埃に塗れてしまっている。美しく飾り付けられていた内装も今やボロクズの体だった。
しかし最初から外に開いている一方を除いた三方の壁は、傷つきながらも概ね健在と称せる状態にあった。爆発の規模を考えれば軽い損害だといえるだろう。
もったいない……まだ食べてないのあったのに。
レーヴはふにゃりと眉を下げ、悩ましげな表情で指を咥えた。
「それはともかく。随分と余裕だね」
ちらりと、白い幼女は横の少女を見る。
二人の前方では、今まさに闖入者と紅騎士たちの戦いが繰り広げられている。
レーヴが目を離した隙に、戦いの幕は落とされていたのだった。それは人間同士の戦いを知らないレーヴから見ても熾烈なもので、魔術の光が絶え間なく瞬いている。
現状は、騎士たちが爆発の犯行者を一方的に攻撃している━━どうやらそんな様子だったが、襲撃されたのが会場でありリーヴィリアがその主である以上、危険であることには間違いない。
それにも関わらず、金髪碧眼の端麗な少女は余裕の面持ちだった。
「レーヴ様の隣ですから。……身勝手だとはわかっています。それとも、助けてくださいませんか?」
一転して、この国の女王は不安気に問いかけた。庇護欲を誘う、上品さを保った寂しげな表情である。
状況が悪くなれば首を挟もう、と最初から思っていたこともあり、レーヴはいいよと返した。
しかしそれを、当のリーヴィリアが遮る。
「もちろん、只でとは言いません」
常時よりやや低く響いた言葉に、おや、とレーヴは思った。
レーヴがリーヴィリアを助け、リーヴィリアがレーヴに助けられる。
無粋ないい方をすればそのような、レーヴの一存で浅くも深くもなってしまう関係。それが二人のつながりだった。
セプレスという国がレーヴを厚遇することはあっても、リーヴィリアが直接お礼を携えてきたことは今までない。勿論、感謝の言葉は幾度となく送られたが、明確な行動を伴う謝辞はなかったのだ。
そのような状況にこの台詞である。
つまり、リーヴィリアは言っているのだ。
曖昧に済ませていた関係は終わりにして、きちんとしたお付き合いをしましょう、と。
レーヴの態度から、そんなことはせずとも友好な関係性は続くとわかっていただろうに。
こういう誠実な人柄はレーヴの目には好ましく映る。
一体リーヴィリアはどのような『お礼』を提示するのか、とレーヴは密やかに白銀の瞳を煌かせた。
リーヴィリアは慈母か女神のように美しく微笑み、言った。
「対価として私の貞操を捧げます」
耳が痛くなるような静寂の後、レーヴはこめかみを引き攣らせながら聞き返した。
「………………なに?」
リーヴィリアは困ったように頬に手を当てる。
「お気に召しませんか……? なら私の純潔か、それとも処女を……」
平然と妄言を連ねるリーヴィリアに、レーヴは眩暈を覚えた。
「……お気に召さないのはそこじゃないし、どれも同じだ!」
「そうでしょうか」
「そうだよ! 断じてそうだよ!」
可愛らしい声で鋭くつっこみを入れ、
「というかそれじゃ、得するのどっちかってーと僕よりリーヴィリアじゃないか!?」
「そうでしょうか」
「そうだよ!」
レーヴは眉尻を下げて、額にしわを寄せ、目を閉じる。
白い眉を寄せ白い肌を火照らせたまま、レーヴは観念したと言葉を発した。
「はぁ……もういいよ。助ける。助けるから」
「確かに私にとって最高のご褒美ですけれど、レーヴ様にとって悪いだけのこと、ですか?」
「………………」
レーヴは思った。その話まだ続けるつもりなのか。
返す言葉を見つけられず、沈黙する。
リーヴィリア。見透かしたことを言う小娘だった。なるほど、一国を背負う者として恥ずかしくない程度には聡いらしい。それは認めてやろう。だがその言いようでは、まるでレーヴが女の癖に女が好きな者のようではないか。
……や、まったくもってその通りである。白い幼女は内心頷いた。
だけど、と思う。
見透かすような真似をされると不快だった。これが可憐な少女相手だからよかったものの、例えば軽薄な青年や脂ぎった中年が相手だったら、恐ろしき王魔であるところのレーヴの機嫌は確実に降下していただろう。そしてどかーんとなっていただろう。肉片とかが飛び散っていただろう。
ふん、と鋭く鼻を鳴らしてレーヴはそっぽを向く。
少々気障な仕草だったが、頬が赤い。図星を突かれた照れ隠しなのであった。
視線を注ぐために顔を背けたわけではないので、勿論、意識はリーヴィリアにあったのだが━━虚空に結んだ焦点の先で、レーヴは衝撃的光景を目の当たりにした。
薙ぎ倒される紅騎士。
飛び散る血液。
レーヴたちが話に興じている間に、騎士たちと闖入者の戦いはあろうことか、前者の劣勢に大きく傾いていたのである。
レーヴの目が驚愕に見開かれて、頬の赤みが消えた。口を半開きにして視線だけは固定して、リーヴィリアの方を向く。
「ちょっ……!」
叫びかけたレーヴを遮ったのは、リーヴィリアの声だった。
「レーヴ様」
いつになく強い口調で断じるリーヴィリアに、レーヴは口をつぐむ。
不満と共に目を向けると、大人にならない未熟な少女とはとても思えない貌があった。先ほど年相応の幼げな表情を浮かべた人間と同一人物だとは、こうして実際に目の当たりにしなければ信じられなかっただろう。
目を瞬くレーヴに、リーヴィリアは続けざまに言った。
「レーヴ様には、本当に感謝してもしきれません。それなのに、私はまだ何も返せていない」
「本心を言えば、振るえる力のすべてをもって義理を果たしたい」
「でも私は王です。この国の全権を担う者です。国家を左右するような私情は、挟めない」
神に祈る聖者のように、
「だからせめて、王の責と重ならない、私自身に関してのお願いなら、どんなものでも全うします」
その言葉は、スイッチを押した。
レーヴは押し黙り、視線をリーヴィリアに向ける。
一転して真顔になった純白の幼女は、抑揚のない声で言った。
「リーヴィリア自身に限ってはなんでも僕の言うこと聞くってこと? 本気?」
「ええ」
「おい」
レーヴは冷ややかな目で対面する少女を見た。
すると、レーヴの面貌は俄かに人外じみた雰囲気を帯びる。今までの人情味溢れた表情は最早そこになく、あるのは外見に相応しい石の如き無機質な貌だった。
「かっこつけるのはやめろ」
瞬間、殴打されたかのような衝撃がリーヴィリアを襲った。少女の胸が呼吸を忘れる。━━ただ濃密なだけであった白い魔力がその在り方に一定の方向性を得て、確かな質量を獲得したのである。声に乗った微量の魔力だけでも、それは常人を気絶させるのに十分な圧力を有していた。
ぐらりと揺れたリーヴィリアの、地を向いた瞳孔が激しく収縮する。少女は、昏倒寸前の状態で崩れようとする体を必死に支えていた。
それを少しの間見つめたレーヴは静かに目を閉じて、透き通る声で訂正した。
「いや、やめて欲しい」
瞬間、瓦礫の陰を支配する圧が減じた。
リーヴィリアが幾度か咳き込み、焦点の合わない瞳が常時のものに戻る。項垂れていた赤い顔を上げ、額に張り付いた金髪が震える指先で除けられると、どこか乳臭いような甘い汗の香りが立った。
リーヴィリアは全身に降りかかる魔力の濃さに身震いしながら、どこか陶然とした表情をレーヴへ向ける。
レーヴは冷然と言い放った。
「仕事に関わらない範囲でなら自分を好きにしていい? やり過ぎだ。僕はそんなの求めてない。それに自分の安売りはいただけないよ」
リーヴィリアは潤んだ瞳で、しかしはっきりと否定した。
「いえ、私はそうは思いません。自身と国の窮地を救っていただいて、この程度では申し訳ないほどです」
「僕こそそうは思わない。借りを返したいと望むなら、君が僕の尺度に合わすべきだ」
互いの吐息が交じり合う距離で、二人は言葉を交わす。
「いえ、本当のところ、私は借りを返したいのではありません。……ただ……胸から溢れる気持ちをぶつけているだけなのです」
リーヴィリアがまだ少し苦しそうに言うと、レーヴの眼光が険しさを増した。
「リーヴィリア。もちろん、感謝されるのは嫌じゃないよ。でもね……感謝してる振りをされるのは嫌いだ」
つまらなさそうな半眼で睨む。
「私はこんなにもあなたを尊敬しています、大好きです、憧れています、だからあなたも私を大事にしてくださいね━━って。しゃらくさいよ」
レーヴが言い終えた時、周囲の温度は明らかに低下していた。気を抜けば薄氷を踏み抜いて、奈落の底へと落ちていってしまいそうな、仮想の極寒が空気を満たしていた。
「いえ。私は誓って、そのようなことはありません」
リーヴィリアは胸に両手を置いて、祈るように言った。
「ただ単純に私がそうしたい……捧げたいだけなのです」
真っ向から見つめ返す。
「それこそ王務に抵触すること以外なら、処女でも純潔でも貞操でも」
そう冗談めかして、リーヴィリアは締めくくった。
口調とは裏腹に、その青い瞳はどこまでも清く澄んでいる。
白き王魔は目を細める。静かに浮いて、上目遣いを辞める。
目と目を合わせる。
「じゃあそこらのごろつきに股を開けと言っても?」
「はい」
白銀の瞳が青い瞳を射抜く。
青い瞳が白銀の瞳を見返す。
「レーヴ様がそう望むのなら魔物にだって体を開きましょう」
その目に映る色は、純粋なる真摯さ。
無言で見つめ合う人間と人外の間で、視線に乗った僅かな魔力がぶつかり合い、淡くきらめく。
レーヴの両手が女王の顔を挟んだ。
華奢な指がリーヴィリアの頬を撫でる。
それはただ美しいだけの指ではない。
鋼を粘土のように抉りうる指だ。
十本の指が、少女の頭蓋骨の形を確かめるように動く。
すべてを呑み込むような、果てしなく深い白銀の瞳。それがただ綺麗なだけの、人間の青い瞳を貫き通す。
リーヴィリアの頬に一筋の雫が垂れた。呼吸は荒く速まり、華奢な体は微かに震えている。
しかし少女は目を逸らさない。
レーヴは問うた。
「本気?」
「……はい」
輪郭が淡く光って見えるほどに白い肌と毛髪が闇夜の中に浮いている。その中で異様な存在感を放つ赤い口が開き、覗いた桃色の舌が、動く。
「━━本当に?」
リーヴィリアは答える。
「私は私以外を除いたすべてを、レーヴ様に捧げます」
揺ぎない声だった。
ふっと、レーヴの雰囲気が和らぐ。先ほどまでの冷たさが嘘だったような、いつもの表情だ。
それはつまり、レーヴが迷宮外に出てから始めて見せた真剣な、いうなれば『臨戦態勢』が終わったことを意味していた。
レーヴは浮遊を止めた。かつてないほどへにょりとした表情で、頭を下げる。
「ごめんね……最低なことを言った」
「いいのです」
言いながら、リーヴィリアはどこか物欲しそうな目をする。
不満。もしくは、期待しているのと違う。そういう瞳だ。
レーヴは小さく首を傾げた後、気づいて、
「それと、ありがとう」
「……はいっ」
満開の笑顔が咲いた。
その愛らしさに目を奪われつつレーヴは白い頭を掻く。
「あー、うん。じゃあ早速命令。僕の命令には、聞きたい時だけ従うように」
青い目を幾度か瞬かせた後、王女は思いついたように言う。
「嫌です」
レーヴの目が見開く。一呼吸分の空白の後、少女たちの密やかな笑い声が瓦礫の陰に広がった。
一息ついた後、リーヴィリアは眉を落とした。
「……でも実はやはり、下心もあります。レーヴ様と親密になれば国も私もあらゆる点で益がある……なんて下心が」
「まったく……そこまで言わなくてもいいんだよ」
レーヴは苦笑した。
リーヴィリアは誠意を見せた。今度はレーヴの番だ。
「じゃあ、ちょっといってくるね」
@
空気が凍りついた。
瞬時に老婆と緑の少女が顔を向ける。ついで観客たちがそれに気づいた。
肉が焼ける音も臭いも何もなかった。
愛らしい指の隙間から、ただ灼熱の光が零れる。
━━そこに居たのは、怖気立つほど美しい少女だった。
いい意味でも悪い意味でも宝石のような、冷たく完成された、白く幼い美貌。まるで己がこの世界の中で唯一の本物であると主張するかのように、存在そのものの輪郭が濃い。
そんな圧倒的な存在感を持つはずの白い少女には、しかし気配がまったく無かった。
気配が無さすぎて、逆にいるのがわかるほどである。まるで人の形に存在感を漂白しているような、達人にしか気取れないであろう「無い」という存在感がそこには有った。
その場全員の心境が一致する。
こいつ、何を素手で掴んでいるのだ。
熱気で、少女の顔が照らされている。
手元の炎から、毒々しい緑の光が放たれている。
そのどれもが、白い少女を傷つけること能わず。
向けられる疑問も驚愕も呆然も構うことなく、純白の幼女は言った。
「駄目だろ。人を怪我させたら」
「━━━━、」
一瞬。人の心臓が一度鼓動するよりも短い刹那。
緑の少女は即座に無言で動いた。
空いている片手に魔力剣を生成し、喉元に振り抜く。肉体強化した上での稲妻の如き一閃。
「おっと」
己の頚に飛んできた緑色の剣を、白い少女は華奢な指先で摘まんだ。
猛然と空を薙ぐ緑色の剣先がぴたりと静止する。さながら羽毛を掴むように優しげな手つきなのに、停止したきり剣は微動だにしない。
両手に柄を握る少女と、両手に刃を握る少女。尋常ならざる力が二対の足元に集中し、強固な床石に四つの罅を入れさせる。
緑と白の視線が絡み合う。
少女、といっても両者の背の高さは女性に成りかけのそれと少女に成り立てのそれである。目と目は斜めにぶつかった。瞳に宿す色の温度差は、激しい。
━━緑の少女が仕掛けた。
両手の剣を手放し、軽やかに後方へ飛ぶ。
白い少女の手には二振りの剣が残された。
そのうち、魔力剣が霧散した。緑色の魔力があっけなく夜の闇に溶ける。
「おぅ?」
白い少女が目線を下げると、魔術剣は崩れておらず。
それは消える代わりにとでも言わんばかりに、金属が擦れ合うような不穏な音を短く発した。
血よりも淡く、しかしどこか毒々しい赤色へと、魔術剣の色が変わり始める。
緑から薄い赤へ、あっという間に変色していく魔術剣━━
を白い少女の手が握り潰した。
指の届いていない範囲にも破壊は伝わり、剣全体が一瞬でひしゃげ折れる。
鉄くずのように潰された緑のそれに、不自然な白色の罅が広がっていく。時を待たず全体が白色に染まりあがり、白い燐光となって飛散した。
白く小さな手から、純白の霧が薄く立ち上る。
白い少女は柳眉を顰める。
それは苦々しい表情でありながら異様に華やかで、観客の幾人かが呼吸を忘れた。静止しているのが相応しいであろう無機質な造詣が表情豊かに変化するという事実は、いっそ感動してしまうほど綺麗だった。
「危ないじゃないか。今の凄い爆発が起きてた気がす」
一、
撃。
小規模な爆発。
緑の少女が掲げる雷光の錐が、白く華奢な首筋に命中した。
顔を上げる白い少女へと緑の少女が瞬時に地を蹴り接近し、腕を振り下ろしたのである。
命中した魔術は瞬時に炸裂し、その効力を完全に発揮した。
顕現の時間を終え、振り切ったその手に握る光の杭が消える。
"竜鱗貫く雷針"━━。それがたった今、緑の少女が使用した魔術の名だった。効果時間と攻撃範囲と射程距離と消費魔力と準備時間を犠牲に威力だけを高めた極小・貫通型の超威力魔術。名前の通り凄まじい穿孔性能を持つ悪名高い魔術であり、人間に向ける代物ではない。それを選んだ緑の少女の心境は如何なるものか。
そんなものを受けた白い少女は。
魔術の余波が作り出した薄い霧が夜風に晴れる。
さらりと美しい白髪が揺れる。
彼女は、とても不愉快そうに表情を歪めていたのだった。
その首は変わらず白く、まるで何事もなかったように精緻な美を保っている。
魔術による防御は絶対になかった。というのにあの魔術を受けて、無傷。魔術学を少しでも齧った人間、つまるところのその場の誰もが、思考を停止させた。
静寂に支配された会場跡地に、あどけない声が響く。
「……だからさ、駄目だって言ってるんだ。こういうこと言っちゃなんだけど、人にされて嫌なことは自分もしちゃいけないって教わらなかったの?」
緑の少女は片腕を振り切った後の、ほとんど抱き合うような体制のまま動かない。
冷たい夜風に白い髪と緑の髪が嬲られて、互いの頬を擽る。
緑の瞳は忘我に震え、焦点を結んでいなかった。
「聞いてる?」
白い少女が訝しげに耳元で囁きかけると、緑の少女は小さく震えた。
目を見開き、仰け反った彼女は素早く身体を翻し、後ろへと大きく跳躍する。
砂煙を立てながら離れた場所に着地する緑の少女。少し屈んだ体勢のまま深く息を吐き出し、彼女は鋭い目線を上げた。
発せられる戦意には微塵の衰えもない。
「まだいける」。そう言わんばかりの猛々しい顔を見て、白い少女は目蓋を降ろし、ぽりぽりと額を掻いた。
そして、不意に気づいた。
違和感。
目をぱちくりさせる白い少女。長いまつ毛が揺れる。
それは、強く意識しなければわからないほどの極めて些細な差異。
本当に僅かな、ねっとりとした空気の淀み。
釦を掛け違えたような、歯の噛みあわせが悪いような、名状しがたい違和感だった。
「………」
白い少女の意識が、緑の少女から逸れる。
今まで気にもしていなかった彼女だが、こういう感覚は一度気づくと途端に気に障り始めるもの。薄く肌に粘つくようなそれは温度の高い湿気に覆われたかのごとき独特の不快感で、神経を逆撫でする。
どうやら、魔術的なものであるらしい━━理解した白い少女は、除外の意を込めた魔力を出し、さっと手を振った。
小さな手が虚空を撫ぜ、白い魔力を浸透させる。不可視の波紋が空間の狭間に広がる。白い波が緑の石にぶつかる。二つの魔性が競合し、緑が負ける。石が砕ける。違和を生む歪みの根幹が消え失せる。
波が引くように不快感も引いていく。
ふぅ、と満足気な吐息を小さく漏らし、白い少女は緑の少女へと意識を戻した。
「━━で、どうなの?」
尋ねに応えはない。緑の少女は訝しげに、ただ空中へと視線を走らせる。
一呼吸ほどして、何か勘づいたように鋭く息を飲んだ。
「……なに? ……いや……おい、う、嘘だろッ……!」
緑の少女は険しい表情で首元に手をやった。触れた首輪の光は不規則に明滅している。
それはまるで、翼を失い地に墜ちた鳥の目に浮かんでいるような輝きだった。
白い少女は点滅する緑色の光を眺めながら、重ねて口を開く。
「やっと口、きいてくれたね」
「お、お前……あたし様の"結界"をどうしやがった……!」
血相を変え、相対する者を睨む緑の少女。握りしめた両の拳は凍えたかのように震えている。紅騎士と戦っていた時の余裕や、先ほどまでの冷静さはもう欠片もなかった。
白い少女は、予想だにしていなかった言葉に目を丸くした。
「"結界"?」
「━━そうだッ! あたし様の"結界"だ! 何しやがった!」
ほとんど叫ぶようにして、激しく問い詰める緑の少女。その眼光は冷徹の氷から瞋恚の炎へ変じていた。燃え上がる激情に任せるまま、ことの真実を問う。
対する白い少女は、無口だった相手がいきなり烈火として怒り出すものだから目を白黒させる。
「……ううん? いや、僕は知らないけど……それより奇遇だね、結界なら僕もできるんだよ」
白い少女は言って、自身を包み込むように展開していた『魔力の流れを絶つ』仕切りを解く。
瞬間、世界の意味が変わった。
今までも非常に美しい少女だったが、格が違う。この世界がひとつの絵画に収まっているとすれば、白い少女だけが明確に、くっきりと、浮かび上がっていた。特別な絵の具で描かれているかのように。
誰かが呟いた━━あの少女は我々と同じ処にいながら、異なる域にいる。
その瞬間誰もが理解した。今現在会場跡地を席巻しているこの気配こそ、包み隠されていた白い少女本来の存在感なのだと。
「ね?」
緑の少女は震えていた。首輪の下の喉が、ごくりと音を鳴らす。
「……はッ!」
大粒の汗を垂らしながら、緑の少女は言葉を吐き出す。
「結界ィ!? ちげぇよ!」
「えっ」
激昂して叫ぶ緑の少女に、白い少女はたじろいだ。衝撃を受けた表情で一歩後ずさる。
そんな所作のひとつひとつさえ恐ろしいまでに煌めいている。
白い少女を前にして見蕩れず、むしろ警戒を強めた緑の少女は流石といえただろう。常人ならば口を半開きにして呆けている。
「……違うの?」
「違う! まったく違うッ! どうやったらそんな勘違いできるんだボケぇッ!」
白い少女は罰の悪い様子で言い訳めいた釈明をする。
「いやその……なんとなくそれっぽかったし」
「結界ってのは法則を作り変え世界を操る、最ッ高の魔術なんだよ! お前のそれはな、障壁に色付けただけだ、この糞ッ垂れが!」
「そんな味付け海苔みたいに……」
白い少女は眉尻を落とした。いや、と首を降る。
「まあいいよ。それはいいよ」
しゅば、と虚空に手刀を落とす。
「こうやって会話がようやく成立したんだし、本題に入ろう」
「……あ?」
瞳に映る敵意の質が、二度目の変化を迎えた。熱から冷へ。鉄槌の如き粗暴さから鋭刃の如き冷徹さへ。
襤褸を夜風にはためかせる緑の少女。その口元に、邪悪な笑みが浮かんだ。
「いやだね」
手の甲で緑色の髪を払い、緑の少女は見下ろすような視線を白い少女に向けた。
「どうやらお前は……理不尽に……丈夫みたいだけど、お前以外はどうかなぁ?」
「はぁ」
白い少女が外見に似合わない気の抜けた声を漏らす。台詞の意図するところが理解できなかったという表情である。
その純粋な瞳に、緑の少女は嗜虐的な色のついた吐息を吐き出す。
「この会場に"獅子竜の怒号"を仕掛けた。あたし様の言葉に従え━━さもないと、そこらの屑どもを殺す」
「獅子竜の……?」
白い少女は首を傾げた。
『獅子竜』という上級士魔が使う不可視の設置型爆弾を模した魔術。それが"獅子竜の怒号である"。範囲は広くない代わりに高い指向性と威力を持ち、何より生半可な手段では感知することさえできない。
強力な爆発物がどこか近くにある。その事実に、今まで声を忘れていたようだった観客がざわめき出す。控えめな悲鳴や息を呑む音が入り混じり、瞬く間に空気の色味が変じた。
「爆弾?」
緑の少女は鼻で笑った。
それを白い少女は肯定と受け取る。
数度、瞬き。白銀の双眸が不可思議な光を帯びる。
白い少女はぐるりと会場に視線を巡らせ、疑わしげに呟いた。
「そんなのないじゃないか」
相変わらず、可愛らしいことこの上ない。しかしながら、一切の反論を認めない声音であった。
少女たちの一挙一動に神経を尖らせていた観客たちの喧騒に、安堵の色合いが混ざる。白い少女への理屈ではない信頼が場に築かれつつあった。
息を詰まらせた緑の少女は、得体のしれないものを見る目を白い少女に向けた。
「…………お前、『何』だ……? 人逸魔術師……じゃない……まさかお前が、あいつらが言ってた……」
「やっぱり嘘か。嘘は駄目だよ……」
諭すように言う白い少女に、緑の少女は唾を飲んだだけだった。
白い少女は溜息を吐き、再び話しかける。
「こんなことしちゃ駄目だ。やめなさい」
「……断固拒否する」
観客たちが固唾を飲んで見守る中、可憐な声が交差する。
「やめる気はないってこと?」
「その通り」
目を細めた白い少女の言葉に緑の少女が小さく刃のような声で返す。
「これからも続けると」
「当、然」
夜の冷気が、戦いの熱を浚っていく。白い少女は━━レーヴは、白い髪を抑えながら口を開いた。
甘えるようで涼やかな、愛らしい声質が無数の鼓膜を揺らす。
「そっか」
白い少女は緑の少女の頭上を見た。夜の冷気だけが存在する、何の変哲もない場所。
魔力の呼応。
白色の魔力で構成された拳大の立方体が現れ、一瞬で巨大化し、緑の少女を床に押し潰した。
「ぐ……ッ!」
肋骨が軋む。
呻き声と共にうつ伏せ体制を強いられた緑の少女は、魔術で床石を破壊した。一瞬の早業だ。そうやって開けた隙間から、彼女は跳ねるように脱出する━━が飛び出した先で新たな立方体が出現する。
地面に擦るように横へ高速移動していた緑の少女は、自分を囲まんとするそれを認め、床を蹴らずに上へと直角に跳ねた。慣性を無視したかのような不自然な動き。"飛行"だ。
完成しかけの立方体が完全に実体化するその直前。緑の少女は範囲外に逃れていた。
緑の少女が口角を吊り上げた、次の瞬間。
先ほどまでとは比べものにならない大きさの立方体の輪郭が、彼女を中心にして現れた。今までの物は人間が数人入る程度だったが、会場自体を半分くらい覆うほどだ。
加速する。しかし間に合わない。
顕在化した半透明の白い箱は、その中に緑の少女を閉じ込めた。




