我の生すは 6
手始めと、隠す騎士が刺すように呟く。
「"渦焔"!」
騎士の正面に、二つの赤い玉が浮かび上がる。玉は炎と解けながら、宙に渦を描き出す。火の渦は玉が周回する毎に前へせり出し、熱波の螺旋を巻く。
それはまさしく天才の所業だった。彼女は今までの積み重ねを殆ど失い、ほとんど魔術に初めて触れた素人も同然なのである。だというのに、魔術を行使できている。ただ、さしもの紅騎士も余裕のない表情だった。険しい顔を汗が舐めている。
炎でできた竜巻が、獲物を螺旋に巻き込まんと伸びた。
「おおっ」
ぱちくりと見開かれる緑色の双眸。炯々たる嗜虐の眼光に、純粋な賞賛の色が瞬いた。
炎の嵐が容赦無く迫るなか、緑の少女といえば「はぁ」と感嘆の吐息を漏らしている。常人であればひどく逼迫しているであろう事態の最中、彼女は悠長に言葉を紡ぐ。
「やっぱ凄いね。こんな短時間で魔法異常に適応するだなんて、あたし様も長いことやってきたけど全然見たことない━━」にやりと笑って、「━━予想はしてたけど!」
首輪が光る。
ぐわん、と歪んではならない何かが歪む。音が立ったわけではないし、眼に見える現象が起こったわけでもない。しかしその変化は決定的だった。
━━歪む。魔法が歪む。世界の存在方式を定める規則が再び狂う。
"結界"による変遷はどんな嵐よりも激しく、それでいて静かに世界を乱した。
炎の竜巻が制御を失い、解ける。物理を超越する火は魔力へと戻る。ただでさえ不安定な魔術は目標を目前にして四散してしまったのだった。
これは。
誰かが言った。
先ほどとは、また違う狂い方。
それを為した張本人は頬を撫でる熱波の残滓に、心地よさげに目を細めた。反して、口元は凶悪な弧を描く。
「くひひひひ、念には念を込めて! ってね。実のところ、魔法変更式は定期的に変わる」
危ないから間隔狭めとこっと。緑の少女はおどけたようにそう言って、首輪に手をやり側面を撫でる。いっそ美しいといっていいほど美麗に、指と首輪の境界が発光した。
これは━━これは本格的に、まずい。団長は唇を噛まずにはいられなかった。
魔法の歪みに慣れきる前に、歪んだ魔法がまた歪む。さながら撓んだ糸が指先で弄られて別の曲線を描くように。糸の形が魔法なら、それに沿って動くのが魔力であり、ひいては魔術。一度変えられた後の魔法に適応するのでも精一杯なのに、それが更にころころ変わるなど冗談ではない。
"渦焔"という紅騎士からすれば簡易な魔術の行使でさえ全力だったのだ。これでは常用しているような超高等魔術の使用など夢のまた夢。
「そ・れ・に! そこの。お前、見逃せない」
余裕綽々とした緑の少女の表情が一転する。その面貌は己の楽園を侵す者への敵意を湛えていた。
じろり、と睨んだのは隠れた騎士。彼女は悔しげな面持ちで、開いた両手を見下ろしていた。その手の中から、崩れた魔力がさらさらと零れ落ちていく。なんらかの魔術が藻屑と消えたことは明らかであった。
剣呑な声に反応して、視線を上げる騎士。
そこには細められた冷たい眼光。その手に巨大な、緑色の剣が構成されていく。時を待たずしてその切っ先が出来上がり、魔力剣は完成した。
本当に、それは見上げるほどに巨大だった。斜めに持っているというのに、切っ先が二階の天井を擦る長大さ。
轟。
と会場中の大気を抉って魔力剣は振り下ろされた。担い手の手元は剣士の常識を超えた速さで閃き、その切っ先などは恐ろしい速度に達している。
これは受け止められない。咄嗟に判断した三人の騎士は横へ飛んだ。
剣先が着地する。大地を揺るがす衝撃に破片が飛び散り、床石が真っ二つに折れた。床が傾ぎ、客連中がよろめく。
「もいちどやっとくれ!」
老婆は向き直り、魔力剣へ剣を振るう。が、切断は成らなかった。斬撃は巨大剣の横幅半ばほどまで食い込んで、そこで止まっていた。
団長は血の気を失った唇を更に噛み締めた。魔力を使わずに空を飛ぶ鳥を斬ったという逸話を持つ老婆らしからぬ剣技の鈍さである。やはり魔術を使う者である以上、結界の作用からは逃れられないようだった。
そう団長が思った通り、老婆はまさに絶不調の只中にあった。
魔術が使えないだけではなく、全身の筋肉が鈍い痺れに包まれている。
指先が、思い通りに動いてくれない。常ならば木剣の一振りで鉄塊を断つ程度の自信はあったというのに、それがどうだ。手が震えて、剣筋が乱れる。
今まで切れていたものがいつも通りに切れないことは予想以上に冷静さへ濁った熱を注いでいた。
瞬時に再撃。
今度こそ巨大剣は両断された。宙を舞う緑刃のおよそ八割方。それは自身が無為と化した事実を周囲に知らしめる。
刃を殆ど失った剣は、いわば魔力を奪われた魔術師。恐るるに足りない無用の長物。そしてこれだけの巨大な魔力剣、確かに威力・耐久性共に脅威的だが、先ほどの小型のもののようには乱発できまい。そうするには消費魔力が多過ぎるのだ。
魔術が使えないという経験したことのない種類の修羅場に狼狽する自身の心を、老婆は静めた。
落ち着け。そして考えろ、今どうすべきか。
相手の優位さを焚きつけて魔力の消費を煽っていく。結界が維持できなくなるまで追い込めばいい。地味で単調な作業だが、『もしも』を考えればやっておいて損はない。というか、魔術魔導具封印によって奥義秘奥義を軒並み封じられている今、老婆ができるまともな対抗策はそれくらいしかなかった。やはり現状を脱する決め手は、仲間だ。
もう一人の影に隠れて魔法の歪みを解析した騎士。先ほど緑の少女に睨まれていた騎士でもある。
彼女は解析・構築において卓越した能力を発揮する超一流の魔術師であり、構成を理解した魔術だったならばあらかた分解できる"魔術消し"という恐ろしい半魔術技を持っていた。彼女の前では人が使う魔術は勿論、魔物魔術でさえただの魔力に還される。その特性ゆえに即時分解はできなかったが、高等魔術である結界も例外ではない。
その脅威性はどうやら緑の少女にも勘付かれているらしい。先ほどの態度を見るに優先的に狙ってくることだろう。なので彼女を守りつつ、再びその手に完成しつつある"魔術消し"の発動を待てばいい。
巨大魔力剣を破壊し使い物にならなくし、剣撃によって崩れた姿勢を整えつつあった老婆は、そこでふと違和感を覚えた。
直感に従い、視界の端に瞳孔を向ける。
切断した剣の先が、発散されきれなかった破壊力を移動力に変えて鈍く、緩やかに宙を舞っている。すぐに霧散すると思われたそれは、しかし形を保っていた。こういった物理干渉を主眼におく単純明快な魔力剣は、分割されれば『根元』を残して離れた部分は消滅するのが普通。なのに何故消えていないのか。
違和感が理解に及んだ時にはもう遅かった。
口を開きかけた老婆の視線の先で、騎士が魔術消しを編みながら、緑の少女を警戒心も露わに見上げている。その隣には、ちょうど緑色の巨大な剣先。
━━上じゃない、横だ!
声なき声も虚しく。
剣先から無数の針が伸長し、その延長線上に在った騎士の体を背中から突き刺した。
ずぷり、と緑色の針は騎士の小柄で薄い体に埋没した。魔術による防御力を失っていた紅色の騎士制服はあっけなく引き裂かれ、守るべき肉を凶器のもとに譲る。間もなく、鋭い棘が体の前面から飛び出した。
「……っか…………ぁ……」
魔力針は瞬間的なものであったようですぐに消失したが、それはむしろ酷い出血を強いた。全身に造られた穴からどばどばと血を流し、ついでに喀血もした騎士の体は力を失い崩れ伏す。
その手の内の"魔術消し・対結界"は霧消した。
「"結界"を綻ばせる……"綻界"、だったっけ? 散々っぱら非実用的だのなんだのいわれてる結界を使うあたし様が言うのもなんだけど、また妙な術を」眉を曲げ鼻の頭を掻いて、「"結界"自体超が付くほど珍しいってのに、それを崩すものなんて、知ってても使う機会ないでしょ。なのになんで習得してるんだお前。いや、現に機会はあったけどさぁ」
感心と呆れを綯い交ぜにした声を紡ぐ緑の少女。自身の所業になんら気負うことのない口調は、人殺しに慣れ親しんだ者の気楽さだった。
老婆は一段と表情を険しくさせながらも毅然と少女を睨みつける。そしてもう一人の騎士は、穴だらけにされた騎士の姿を呆然とした面持ちで見つめていた。老婆は飽くなき勝利に向けて貪欲なまでに頭を回転させていたが、もう一方は完全に思考が停止していた。
血の気が引いている。
唖然。そして認識。その怜悧な面貌は理解の色を見せてから、次第に憤怒に染まっていく。
常に冷静さを保つ騎士らしからぬ激昂だった。しかし仕方のないことだったのかもしれない。二人は恋人なのだ。
視線を上げ、騎士は凄まじい形相で歯を噛みしめる。その全身を纏うは極淡い光━━"身体鋼化"である。魔法の歪みもお構いなしの強引な魔術行使による魔力の無駄が、光という形で体外に漏れているのだった。
"身体鋼化"ーー体を全体的に強靭にしつつ、運動に際して負担の大きい箇所を重点的に強化するという高度な魔術。この魔術を習得したものは人の限界を超えた駆動を可能とする。自身の肉体という干渉し易い部分ではあるものの、その行使は一筋縄ではいかず、強化の加減を間違えると丈夫になった組織が柔いままの組織を傷つけ破壊してしまうという諸刃の剣でもある。
騎士が抜剣し、全力で地を蹴る。致命的な自傷覚悟の肉体強化。筋肉が筋肉を抉る。神経が骨を削ぐ。肉が裂け、血液が噴き出す。老婆が止める暇もなかった。
「がああああぁぁぁああああああッッッ!!」
宙に赤が曳かれ、振りかざされた刃が月光に煌めく。激甚な衝撃を伴って魔力剣と騎士の剣が重なった。盛大に火花が散り、大気が揺れる。
ままならない魔力で作ったあやふやな足場を踏みしめ、血を流しながらの一撃。しかし緑の少女は魔力剣を片手で支えながら言った。
「そんな無駄だらけの素人じみてる糞みたいな肉体強化で、あたし様の肉体強化に勝てるとでも?」
振りかぶる華奢な腕。そこへ、その細さに見合わぬ膂力が宿っている。外見上の変化はまったくなかった。一分の無駄も無い、完璧無欠の"身体鋼化"。
結界の中でなかったら、騎士も見せていたであろうもの。
瞬間放たれた拳が騎士を吹き飛ばした。碌な強化もされていない剣が粉砕され、その破片がきらきらと宙を彩る。
激突。そして貫通。
こちらの騎士は、壁に縫い付けられた。まるで標本された虫のようだった。
これで四人。いずれも違わず急所を貫かれ、瀕死である。出血多量でもう助からないと思わしき者もいた。
━━普通なら。結界の中でなかったら、こうはならなっかたっだろう。どんな手練れであろうとも、奇襲や暗殺には弱いもの。一流を称される人間ならば、致命傷を一度は防ぐ奥の手の一つや二つ持っているものなのだ。が、やはりそれも魔術的な代物であり、現状機能していなかった。怪我に対する自己処置もまた然り、である。
圧倒。
誰の目を憚ることなく人間最強級を名乗れる騎士たちが、圧倒されていた。
激しい戦闘に呆然としていた客たちも、旗色が悪くなってきたのを察し、些か表情が険しくなってきていた。絶望に呻いている者もいたし、気の早い者などは既に達観顔で、「ここまで強い人間になら引導を渡されるのも吝かではない。しかし欲をいえば人間用の『強さ』などではなく、もっとちゃんとした『強さ』がよかった」などと贅沢を思っているのだった。
客にも戦士としての心得を持つ者はいたが、自分たちとは格が違う戦いにすっかり恐れをなして、加勢することなど思いつきもしない様子で慄然としている。しかしそれでも恐れ知らずはいるもので、隅の方で暴れるいやに眼光が鋭い包帯まみれの男を真面目そうな優男と柔和そうな女性が押さえつける、といった一幕も見られた。
さて。戦闘風景を凝視しながら、冷や汗垂らしながら、緑の少女が見せた回避について団長は考察していた。あれが、彼女が見せた動きの中でも最上級に危険なものだ。解明しなければ勝ちの目はない。
緑の少女。彼女が得意とする魔術は明らかに、障壁系統に属する"結界"と、風系統に属する"飛行"。"飛行"は体術と魔術を高度に組み合わせた魔法剣と同系の半魔術であり、空を飛ぶ以外に活用はできない。だからあの回避は"飛行"の発展系とは考えがたい。
おそらくは"結界"の応用なのだろう。
眉を寄せる。
……なのだろうが、専門的過ぎてわからない。
団長とて一端の統率者。団員の能力を把握するために魔術は様々な分野に渡って学んでいる。だが、結界自体、理論が記載されているだけで実験も何も殆ど為されていない魔術なのである。
いやに高い能力を要求される上に(セプレス人にとっては)地味な結果しか引き出せないので、研究しようと志す人間からしてほんの少し。満足に研究できるような有能な人は早々に「これは手間と時間がかかり過ぎる」と気づいて他の分野に転向する。よって結界はほとんど未開拓なのだった。
団長が知っている情報も、魔道教科書の『高難易度魔術』に載っているものだけ。理解できるかはさておいて、知ろうとすれば誰にでも知れる程度の知識に過ぎない。
団長は溜息を吐く。全七冊の叢書を最後まで網羅している団長も中々だが、それらすべてを開拓し編纂したヘカテの凄さがわかろうというものだった。流石は現代の魔法学と魔術学の創始者にして完成者、である。魔術師はいても、古今東西『大』がつけられる者は他にいない。
さておき、団長は推測する。
あの時、老婆の剣は緑の少女の腹部をすり抜けていた。これは確実である。戦闘中の騎士たちにはよく見えなかったかもしれないが、団長の瞳にははっきりとその瞬間が映っていた。
剣は緑の少女が着た襤褸切れのみを突き破り、肝心の目標には傷一つ付けることも能わず通り過ぎた。生を死へと誘うものであるはずだった衝突は、水か空気の塊の中でも潜り抜けたかのような至って穏やかな邂逅だったのである。
当たったのに当たっていない、という世にも奇妙な現象。普通の人間ならば目を疑っていただろう。しかし紛う方無き事実であり、現実である。
まるで意味のわからない光景を作り出す。
高等魔術の行使において間々あることだが、そういった類の魔術はその構造を知るための手掛かりを見た目に求められない。見た目と仕組みがあまりにもかけ離れているからだ。それは攻撃側にとっては美点で、防御側にとっては欠点である。
外見から判断できない魔術は、それこそ起きた現象と使った状況から推測を打ち立てるしかない。
団長は回顧する。起きた現象と、使った状況。
起きた現象は透過。
使った状況は━━
そういえば、と団長は思う。
何故、緑の少女は最初から件の回避術を使わなかったのだろう。始めの剣に、青炎の槍。少なくともこの二つは普通に避けていた。これらもすり抜ければいい話なのに。
始めの剣は、まだ小手試しのような雰囲気があった。噂に聞く紅騎士団はどれくらいのものか、という雰囲気が。団長としては青炎の槍を普通に避けたことの方が気になる。
青炎の槍と、その後すり抜けた老婆の剣との違い。
それは、青炎の槍は魔法攻撃としての側面が強いが、老婆の剣は物理攻撃としての側面が強いということ。
つまり、物理攻撃は透過できても、魔法攻撃はできない。……のではないだろうか。
更に、回避術は一瞬で発動し前動作も必要としない様子だが、使うのは人間。回避と次の回避との間には命中させられる隙は必ずある。
「…………」
先の顛末は、
拳からすり抜けた後、多重障壁で自分を囲む。黒の海をやり過ごし、斬撃をすり抜ける。障壁は切り裂かれていただろうから張り直し、炎の中を耐える。
ということだったのだろう。
緑の少女の攻略法は、出会い頭にさながら土砂降りの如く大人数で魔術を浴びせかけること。その場に釘付けにし、障壁を削り切れば勝利できる。
しかし逆に、閉鎖された場所で一度"結界"を使われてしまえば、もう勝つのは難しい。魔術を禁止させられ、頼みの綱の物理攻撃も完全回避。そもそも、通常時でも障壁の防御力が高すぎて中々通らないのに、"結界"内なら尚更である。
ここまで分析しても最早この戦闘で活かせる余地がない。いかな老婆といえども、この状況下からの形勢逆転はもう不可能だろう。
障壁を維持するための魔力は、小瓶に入れた帯性魔力で賄ったのは間違いない。その小瓶を大量に消費させ、残りを僅かにまで追い込んだことは明白だったが、もう有効打を与えることができない。
どうにか"結界"の範囲外に出ることが出来ればなんとかなるかもしれないが、人質がいる以上それもできない。
誘き寄せた獲物が大き過ぎて、渡すつもりのなかった釣り餌を釣り針ごと失う。まったくもって間抜けた展開である。
もう打つ手がない。
いや、ないというより、"結界"によって潰されたというべきだった。
団長は意識を戦場へと戻す。
緑の少女は口角を上げて、悔しげな老婆を見下ろしている。場は少しばかり停滞していた。つかの間の余所見は許されるであろう。
団長は目間を揉み解し、空を見上げた。月光は冷たく、半壊の王城を照らしている。
━━ここは諦めて、『紫』を招集するか……?
一旦撤収して、追加戦力を集める。夜空を見つめながら、団長はそんなことを考えた。
しかし、その場合の被害は甚大である。彼女は問答無用の爆撃を仕掛けてきており、非常に攻撃的であることが見て取れる。この場にいる高官が助かる見込みはあるまい。仲間がいることも仄めかしており、もしその仲間たちが襲来し、彼女と同じ超一流級の実力を備えていたらならば、ここ首都が壊滅させられる事態も十分考えられる。騎士の総力をもって彼女がとるであろう破壊行動を足止めするしかないだろうが、彼女は対人戦において無類の強さを持っており、まともな時間稼ぎは難しい。
どうする。
騎士たちに勝る『強さ』を持つ緑の少女へ畏敬の念を感じながら、団長はその『強さ』を打ち砕く策を練る━━
転じて老婆。
彼女は頭の隅で考える。朝起きた時はこうなるとは予想もしなかったが、なってしまったものは仕方がない。だが、諦めるという選択肢はなかった。
生き汚なく足掻くつもりだった。これまでそうやって生きてきたし、そうやって死のう。
そう覚悟を整えた老婆は改めて自身の装備を確認した。
超一流の戦士にとって魔術や魔導具は絶対の生命線。そして今、その両方が使えない。
だが老婆はひとつだけ、魔術依存ではない奥の手を備えていた。植物系魔物の素材と鳥獣系、蟲系魔物から採れる魔法毒をぐずぐずに混ぜ合わせた強烈な毒。そしてそれを塗布した短剣。短剣も特別製であり、毒を劣化させない効果を持つ。とはいってもこちらは魔術的なものなので、機能停止してしまっているだろう。
ともかく、毒である。魔力を持っている生物だと体内魔力の働きによって毒物は抑制・排泄され、短時間しか効かないのが常だが、この毒は人の魔力抵抗を完全貫通できるほど強い。素肌に触れさえすれば、それだけで七転八倒の末に悶死するのは実証済みである。
決心すると、老婆は懐から抜き放った毒の短剣を素早く、しかし渾身の力を込めて投げつけた。瞬きを狙おうにもしてくれないので、緑の少女の意識が僅かに緩んだ一瞬を狙っての攻撃である。しかし彼女は見事に反応した。
緑色の障壁が二人の間を分かつ。
毒刃は障壁に深く食い込んだが、そこで止まった。
ここで諦める老婆ではない。懐からとても鋭く頑丈な、しかしいってしまえばそれだけの短剣を取り出した。
手の内でくるりと回す。指で刃を挟むようにして持ち、投げた。この間一瞬である。
柄を頭にして宙を疾走する短刀。その柄底が、毒刃の柄底に衝突した。押しだされた毒刃が障壁を砕き、貫く。
そしてそのまま生身を抉る━━と思われた。
「無・ぅ・駄」
すり、抜ける。
笑った少女は目を細めて、その粗野な雰囲気にそぐわない優雅な仕草でその手をくるりと大きく回す。描いた軌跡に魔力が連なり、大量の魔力剣と化す。一本一本の密度は薄い。しかし数があった。
老婆には、失敗に終わった切り札を嘆く暇さえ与えられなかった。
「はい」
雨。それは緑の雨だった。
老婆は必死で剣を振るう。してはならない肉体強化を、けれどもせざるをえない。それでも取りこぼした魔力剣が老婆の体を抉った。
少女が腕を振る度に緑の魔力が凶器となり、降り注ぎ、老婆を傷つけていく。
それらは綺麗に比例していて、奇跡的な何かが混在する余地はなかった。
「くひ、ひひひ、ははははは! あ〜っはっはっはっはっ!」
高笑い。緑の少女は空中で踊り狂いながら、笑い転げた。
既に勝者の態度だった。
老婆にはもう、どうすることもできない。極限まで無駄を省かれた魔力剣が舞い乱れ、無駄に塗れた魔術が応じる。
泰然と見下ろす少女と一分の余裕もない老婆。優勢と劣勢は残酷なまでに明らかだった。
「あはは! これが世界屈指の最強の、紅騎士ぃぃぃ? 弱っ! 弱ぁっ! いや。いやいや! あたし様が強すぎるのか!」
空中で腹を抱え、指先で滲み出た涙を拭う緑の少女。その間にも緑雨は降る。最早ひとりでに軌跡は描かれ、魔力剣を生成した。
あまりに傲岸不遜。しかし彼女にはそうするに相応しい超級の実力があった。
人間殺しの魔術師。"結界"さえ展開したのなら、人間相手だとほぼ無敵。
とどのつまり、相手取るには最悪の敵なのだった。戦ってはならない奴だったのだ。遅まきながら、本当に遅まきながら、老婆は気づいた。老婆も、他の騎士たちも、人として隔絶した実力を誇っていたから、そのような人間がいたことを考えもしていなかったのである。人間相手に負けることなど想定していなかったのだ。
「あはは……はぁ。まったく! 犯罪者相手にそんな様じゃあ使えないね……」
台詞を区切りに雨が止む。
しかしそれが意味するのは暴虐の終わりではなく、終局の宣言である。
「もう騎士辞めれば? 死んじゃえばぁ?」
細めた目に揺蕩うは嗜虐の快楽。唇をちろりと舐めて、愛の言葉でも囁くようにそう言った。
「心底性格悪いねぇ……ア、ンタ……」
返す老婆の体はもうぼろぼろだった。
老婆の肉体は、若かりし頃より衰えている━━それでも若い人間と双肩できていたのは、ひとえに魔術の巧みさ故だった。霞んだ目を晴らす魔術。萎えた体を機敏に動かす魔術。剣筋を研ぎ澄ます魔術。その他多数。そしてそれら魔術の複合。
それらがあってこその『強さ』。
魔術・魔導具封印というこの状況下においても、まだ一流の『強さ』を保持せしめるのは流石と称する他ない。
だがそれもここまでだった。
酷使した筋肉が、筋が、神経が、骨が。迫る限界を訴えていた。
尽き果てる力。震える腕。
老婆の膝が、音もなく落ちた。剣を握る手の力が抜け、それでも指を離さない。剣士の矜恃であった。
「いや、その様子じゃあ無理かぁ……糞の始末も自分でできそうにないし。仕方ないから」
掲げる魔力剣に、緑色の炎が灯る。
ただの魔力炎ではない。特殊な効果を持った魔術炎。剣の刃は段々と明るさを増し、緑と白の中間色となった。
その危険な輝きは人の骨どころか鋼の柱をも容易く溶断するであろうもの。形を成した灼熱が、風をも焦がす。
「あたし様が馘してやるよッ!」
そんなものが、もうまともに身動きできない老婆の首筋へと、無情にも振り下ろされ。
━━じゅうと音を立てて、老婆の首級が挙げられようとしている。客たちの半数は戦士の最期に敬意をもって黙祷し、もう半数はその終末を見守らんと目を見開いた。次は自分たち。老婆の終わりはそれぞれが思い描く自身の似姿として、諦観と共に受け入れられていた。
宙に弧を描く残光。そして、
横合いから白くて小さな手がうにゅっと現れた。
「ちょっと待った」
むんず、と白熱した刃を素手で掴む。鋭い炎刃を手のひらに押し当てて、親指と四指でその腹を挟み込む。軽く握ったようでしかないのに、剣はこれ以上なくがっちりと固定されていた。
その白無垢の幼女は緑の少女に向けて、咎めるような視線を向けた。




