破滅の棄却 6
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「……リ………………」
耳をくすぐる高音域の、しかし微塵も不快でない心地よさに、リーヴィリアは自分が目を閉じていることに気づいた。
目を開こうとするのだが、まるで"接着"されたかのように動かない。いつもは存在すらほとんど意識していない瞼が、今は鉛のように重く感じられた。
「…… リ……リア」
もう一度音が響く。
鈴の音のような涼やかな音が、リーヴィリアの頭の中を席巻していた凝りを解きほぐして次第に薄めていく。
「リーヴィリア!」
それが己が知っている声だと判った瞬間に、リーヴィリアの意識は完全に覚醒した。先の瞼の重みが嘘のように消え去り、リーヴィリアは目を見開く。
眩いばかりの青色が視界いっぱいに広がり、リーヴィリアは思わず目を細めた。
「う……ぁ、レーヴ、様……?」
「はぁ。目、覚めた?」
「……はい……」
リーヴィリアは体を起こし、そして自分が横たわっていた事を自覚した。ぐらぐらと保てない頭の姿勢に、己が魔力欠乏に陥っていることも悟る。
脳が本格的な再起動を果たした事により、リーヴィリアのぼやけていた記憶が整合性を取り戻した。
そうだ。私は━━━━
「私はバーミットさんを倒して……」
リーヴィリア自身も魔力消費の過多で立っていられなくなり、仰向けに転がったのだ。
レーヴの帰りを待つまでの慰みに見ていた天井に、細やかな罅が走り雷のように広がった。
そして黄色の夜空が割れた。
なすすべもなくそれを見つめるリーヴィリアに純白の、小さくて柔らかそうなものが飛んで来て。
リーヴィリアは始めて見るレーヴの焦った表情に、本当にレーヴ様は可愛いらしいな、と的外れな感想を抱いたのだ。
暗転。
「…………」
「大丈夫?」
青空を遮って上方から覗き込んでくるのは、泣く子も瞠目するような人外の美貌である。この世の何処を探しても見つかるまい一種異様な『白』を纏った幼い少女。
そのいかにも少女の心配しているという内心が伝わってくる声音に、リーヴィリアは知らずに張っていた緊張の糸をふっと緩めた。
床に手をつき、側に佇むレーヴを見上げる。
「あの、レーヴ様……一体何がどうなって……」
「それが、『公魔』が居てさ。そいつが『修練場』の天井突き破った上に魔力で吹っ飛ばしたんだよ」
「え……な……『公魔』?」
硬直するリーヴィリアにお構いなくレーヴは話を続ける。
「うん。えらくアレだったから、闇精霊』だと思う。
で、リーヴィリアが危ないって急いで駆けつけて、結界張ったんだけど……」
「え、ちょっと待ってください。ここ、『修練場』なんですか……!?」
リーヴィリアは慌てて空を仰ぎ見る。視界の隅に、申し訳程度の城らしき残骸が映った。周囲には、瓦礫の山がそこかしこにできている。今リーヴィリアがいるのも、その山の一つであった。
リーヴィリアたちがいるのはセプレス城の地下。で、あるはずなのに、リーヴィリアの目に映っているのは白い雲漂う昼過ぎの青空。
『修練場』の位置と今視えた風景を忌憚なく鑑みれば、城が凡そ半分ほど消えているという事になる。
金髪金眼の少女の顎が外れんばかりに落ちる。リーヴィリアはなんらかの手段で外に移動したものだとばかり思っていたのだ。
そんなリーヴィリアの様子に、レーヴは少し言いにくそうにしていたが、口を開いた。
「ゴメン……城は潰れた♪」
「…………」
もはや言葉もない、といった様子で石像のように固まるリーヴィリア。連続する超展開に、少女の思考は凍りついたかのように停止していた。
「リーヴィリア?」
レーヴの声がリーヴィリアの脳みそを解凍した。
再起動を果たしたリーヴィリアが目を見開き、レーヴに唾を飛ばす勢いで問いかける。
「レーヴ様、『公魔』ってなんです!? 今どこに!?」
「多分あっちに居ると思う。今は大人しいけど、じきに暴れ出す気がする」
神妙な表情で言うレーヴ。その割に口調がどこか楽しげである事にリーヴィリアは気づいた。自覚しているかは定かではないが、この状況を面白がっているのである。
レーヴに余裕があってもこの状況。リーヴィリアは慌てずにはいられない。
「あ、あわわわわわわ。『公魔』なんて洒落になりません! お、王都が……潰れる……!」
「落ち着け、リーヴィリア」
レーヴが腰を落とし、リーヴィリアに目線を合わせた。真正面からリーヴィリアを見つめる。
「僕が斃してくるから」
「え? 確かにそれしか手はないですが…………。でも、レーヴ様とその『公魔』が戦ったら、王都に凄まじい被害が……」
「大丈夫、大丈夫。室内なら難しいけど、室外だったらできる」
嘯くレーヴの口調には、まるで誇張や高慢が感じられない。
リーヴィリアにはレーヴが『公魔』を大したものではないと思っているように感じられた。
だが、それはありえない。レーヴは『血染めの森』で始めて逢った際に『夜刃神』と見知っている風な口ぶりだったし、ならば『竜熱の竃』での道中で遭遇した『公魔』の強大さも解っているはず。
何よりレーヴ自身が『公魔』なのだ。同格同士で争えばどうなるかぐらい……。
そこまで考えたリーヴィリアは、どこか不自然である事に気づいた。
『血染めの森』でのレーヴの口調は、『公魔』と同格というより、むしろ『王魔』たる『夜刃神』と対等のような━━━━
恐ろしい可能性に思い至り、リーヴィリアは背に冷や汗を垂らしながら黙考した。
━━━━そんな、いくらレーヴ様でも。それはさすがに……。いやでも、そうでなければ。……やっぱり、まさか、レーヴ様は。
リーヴィリアはからからに乾いた口を無理やりに動かした。
「レーヴ様、貴女は……お……『王魔』……?」
「ん。その通り」
あっさり首肯したレーヴに、今度こそリーヴィリアは愕然とした。
確かにレーヴが『王魔』であると考えれば辻褄が合うのだが、信じられないのだ。
世界に六体存在する『王魔』。
真紅に染める『龍』。闇に堕とす『霊』。三国を隔てる『海』。大地を裂く『地』。西海を支配する『空』。そして『花』。
『王魔』が六体である事はもはやこの世界に生きる人間の常識である。母親が寝物語に語り、ことわざにも引用される。一部では信仰されてもいる。それほど深く生活と文化に根付いているのだ。
人の身では踏破する事能わぬ、『決死』級迷宮の深淵に座す至高の存在。六体の魔神。
それが『王魔』である。すんなりと信じられるわけがなかった。
だが他ならぬレーヴの言葉だ。信じないわけにもいかなかった。そして何より、リーヴィリアの心の奥底が納得していた。
レーヴの言葉をどうにか信じ、飲み込んだリーヴィリアの胸に新たなる疑念が再燃した。
リーヴィリアの渦巻く胸の裡が、意図せず唇から零れ出た。
「となると……レーヴ様は、一体どの迷宮の『王魔』なのでしょう……?」
「……どういう意味?」
「『帰天の海』? 『地裂の洞』? それとも『魔女の庭』……?」
「……話を聞け」
レーヴの白い指がリーヴィリアの頬を摘まんだ。うにーっと頬っぺたを引っ張られ、リーヴィリアは強制的に思考を中断された。
レーヴが感心したような声を出す。
「む。良い触り心地」
「ふぇーふひゃま!? ぷはっ、な、なんですか?」
「いや、どこの迷宮がどうとか、どういう意味?」
疑問を投げかけるレーヴに、リーヴィリアは諭すように返答した。
「レーヴ様は、『王魔』。なんですよね?」
「ん」
「ではどの決死級の迷宮を治められているんですか?」
「僕はなにも治めてないけど」
「え?」
「え?」
噛み合わない会話に双方首を傾げる。白と金の髪が揺れた。
どうにもすれ違いの解消できない二人は眉根を寄せる。
いまだ立ち上がれないリーヴィリアの隣に、レーヴがぺたんと腰を下ろした。
「えっと、レーヴ様は、『王魔』」
「うん」
こくん、と肯くレーヴ。実に愛らしくて、リーヴィリアは己の心臓が跳ねるのを感じた。このままでは何か禁断の運命を征く事になりそうだ、と頭の隅っこで直感する。
「だったら、レーヴ様は六つある臨死迷宮のどれかの主ですよね?」
「ううん」
レーヴはふるふると小さく頭を振った。
「え」
「なにか勘違いしてるようだけど」
レーヴは至近距離からリーヴィリアを凝視した。ムッとした顔だったが、どんな表情でもその美しさは些かも衰えない。
面前まで迫った幼い美貌にリーヴィリアはさっと頬を紅くした。
「僕、七つ目の『王魔』だから」
「……え?」
リーヴィリアはきょとんとして、数回瞬きをした。同じ回数金色の睫毛が上下した。
「え?」
リーヴィリアの頭の中で、絶対不変と信じていた常識と敬愛するレーヴの言葉がせめぎ合い、結果、リーヴィリアの理解を超越した。
台詞の意味が真剣に解らず、リーヴィリアは握り拳三つ分ほどの距離にあるレーヴに疑問を吐息のように吹きかけた。
「え……あの、すみません。今なんと?」
「僕は、新しく、生まれた、七体目の、『王魔』」
可愛らしい唇から紡ぎ出される、驚愕の新事実。それをリーヴィリアは確かに理解した。
リーヴィリアはぽかんとした表情のまま、心此処に在らず、といった様子でレーヴに尋ねた。
「あの……本当ですか?」
「本当」
「……真剣に、ですか?」
「真剣」
「まじ……ですか」
「マジ」
「…………」
「…………」
リーヴィリアはゴクリと唾液を嚥下した。
レーヴは変わらずリーヴィリアを凝視している。
黙々たる少女たちの睨めっこが始まり、複雑な色が伴った金色と銀色の視線が交錯した。
レーヴは、
━━━━事実なんだけど。ヤトのお墨付きだし。そんなに信じがたい事なのか……。
あ、なんか睨んでくるリーヴィリア可愛い。
などと考え。リーヴィリアは、
━━━━え、いや本当に? レーヴ様がこんなに真剣に言っているのだからもしかすれば。でもあり得ません。七って……。
あ、じっと見てくるレーヴ様可愛い。すごく愛らしいです。何故レーヴ様はこれほどまでに可愛いのでしょう……。世界中過去と未来を探してもレーヴ様に比肩するような人を見つけるのは難しい……というか絶対にレーヴ様より可愛い方なんて存在しないに違いありません。確実に。
あぁ、レーヴ様を見ているだけで頬が紅くなっているのが解ります。レーヴ様の気配もいつも以上に濃くて、まるで昨日"人魔"である事を教えてくれた時のよう……。可愛いらしさ三割増しです。
でも、これは……"経絡"らしきものが……レーヴ様から私に……通っ……て……。
などと考えていた。
微妙に赤みも増した顔を付き合わせる二人の少女。非常の綺麗な顔立ちをした少女たちの間に漂う静寂は、沈黙を重ねる毎に(片方が一方的に)温度を上昇させていった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………レーヴ様」
「…………何?」
「あ、あまり、私を見つめないでください…………ま、魔力が……強すぎます」
「!?」
リーヴィリアが視線を斜めにずらし、レーヴはその茹で上がった顔に遅まきながら驚愕した。
魔力とは、意志が介在する全ての行動に付随するもの。当然、本体の保有魔力が多ければ、引きずられる魔力も多くなる。
現在、リーヴィリアには"人化"を程々に解除したレーヴから主に『心配』……つまり親愛から派生した感情が込められた視線が向けられていた。
これが並の魔術師なら、見られた者がほっと安心する程度の効果に収まっていただろうが、生憎とレーヴは『王魔』の化身である。
その効果下におかれたリーヴィリアの頬は過剰に紅く染まり上がっており、漏らす吐息も妖しい色が混じっていて短く激しい。魔力素養が特出しているリーヴィリアでも、レーヴの双眼に長時間凝視されて、魔法的な抵抗力は削られきっていた。
いわば今のリーヴィリアは、『闇精霊:触手種』などの『魅了の魔眼』の効果に曝されたのにも似た状態である。
リーヴィリアの湿った目線が、自然とレーヴの腰元に刻まれた大胆なスリットへと移る。
そこから垣間見えた眩いほど白い腰部と幼い柔らかさに、リーヴィリアはくらつくような、体の奥底が滾るような、名状しがたき熱い衝動を覚えた。
同時に悟る。己が後戻りできない領域に深々と踏み込んだ事を。
視線を戻し、冷や汗を垂らして顔を引きつらせているレーヴと、至近距離で見つめあう。
相変わらず。と、リーヴィリアは思う。セプレスの貴族学院で持て囃されていた美形の男女━━━━そこには当然リーヴィリアも含まれていたが━━━━が、ちゃんちゃらおかしくなるような可愛らしさだ。
リーヴィリアの視線が舐めるようにレーヴの貌を蹂躙した。レーヴがビクリと震える。
その様子を、例えようもなく可愛らしい、とリーヴィリアは思った。
リーヴィリアがレーヴに感じていた愛らしさ。それは魔力その他の影響をたっぷりと受け、唯一無二の愛しさ及び劣情に変じようとしていた。
リーヴィリアの手がもはや無意識的に動き、僅かに逃げようとしていたレーヴの頬を優しく捉えた。
その余りの感触にほう、と息を吐き、ゆっくりと顔を近づけていく。
リーヴィリアの小さな握り拳三つ分しかない二人の顔が、更に距離を縮める。
三つ分は二つ分になり、
二つ分は一つ分になり、
こんな事してる場合じゃない、と思いつつ、リーヴィリアは絡まる吐息にえもしれぬ快感を覚えた。
鼻がぶつからない様に角度を僅かに傾けて、自らの唇と幼い唇を重ね合わせようと━━━━
〈ゥゥウオォッ!!〉
したところで王都に響き渡るような叫びが二人の耳朶をしたたかに打った。
びくっ! 震えたリーヴィリアの狙いが逸れる。少女の唇は幼女の頬に着陸した。
止まった時間の中、微かな音を立てて唇が離れる。
「…………ッ!」
一拍遅れて我を取り戻したレーヴは、一瞬でリーヴィリアの傍から離脱した。
口元に小さな手を触れさせたレーヴ。幼げな頬がかぁっと紅潮する。
「ぼ、僕『公魔』斃しにいってくるから!」
「……はい」
レーヴはリーヴィリアに背を向け、叫びが聞こえた方向に慌ただしく駆けていった。
「…………」
リーヴィリアは火傷したかのように熱をもった唇に、いつまでも触れていた。
一部台詞修正。
御指摘感謝
2015
1/6
修正。御指摘感謝。




