破滅の棄却
1
王城、『王の間』。
代々王座が継承されてきた由緒ただしき儀式場。
広めに場所をとったとしても優に百人は収まるであろう巨大な間取り、赤系統の意匠がなされた豪奢な部屋である。
広々とした室内には貴族……それも相当高位と思しき者たちが、僅かな曇りもない鏡面の如き鎧やひどく値の張りそうな正装を身につけて佇んでいた。全員が全員とも体のどこかに紅の紋章を刻んでいる。
重厚な雰囲気を纏った壮年の男女が目立つが、緊張した面持ちの年若い人間も相当多かった。
その数、総勢五十名余りか。
彼ら、あるいは彼女らは一様に口を堅く閉ざし、綺麗な二列に整列していて、荘厳な扉から段差上の王座まで部屋を縦断する人の道を作っていた。
その中には一際威厳を放つ白髪の偉丈夫や、一際不吉な気配を漂わす痩身の男の姿もある。前者には多大な尊敬と信頼の視線が寄せられ、後者には強烈な憎悪と恐怖の目が向けられていた。
シンとした『王の間』を俯瞰する瞳が二対。
暗い天井裏に、レーヴとリーヴィリアの二人の少女はいた。
そこはどうにか二人が収まるかどうか、という手狭さで、四方は大理石のような黒い石材で囲まれている。
といっても当然、木造建築でもないセプレス王城に『天井裏』など存在しない。レーヴが一つ上の階から床を削り、少女二人が身を収められる程度の穴を手ずから開けたのだ。
もちろん普通の建物でそんな真似をすれば床が抜けるだけ。
この『王の間』が王城の中でも最も強固な部屋の一つであり、部屋の内外を隔てる壁が相当ぶ厚かったからこそできた芸当である。レーヴの『作業風景』を目の当たりにして、冗談で言ったつもりであろうクルセウスはその強面を盛大に引き攣らせていたが。
今二人は階段以外には存在しないはずの、階と階との間から『王の間』を覗いているのだ。
「この人たちは……」
「はい……セプレス大貴族の当主の方々ですね」
「何か若いのが多くない?」
「……リプル大臣に前当主を暗殺され、新当主の座についた者たちです」
「……リプル……」
小さく穿った覗き穴から下を盗み見る二人。蚊の鳴くような小声だが、レーヴが遮音、遮衝撃、遮魔力結界を張っているので、余程の大騒ぎでもしなければそもそも気づかれようがない。
全身真っ白のあり得ないほど可愛らしい幼女は覗き穴から人外の視力で一人一人の貴族をつぶさに観察する。
暇を持て余したレーヴの手が所在なさげに動き、手近な黒い壁へと小さな爪を立てた。
少し力を込めただけで石が欠けるのを指先で感じ、レーヴは慌てて手を離す。天井ギリギリまで掘っているので、これ以上掘削するのは得策ではない。
手持ち無沙汰とレーヴの手が空を彷徨いワキワキする。昨日までなら外套を弄っていたところであろう。
その絶世の美貌で威圧する、という示威的な意味もあって外套を羽織っていないレーヴは消えた温もりに少し落ち着かない気分だった。寝る時は布団や抱き枕を抱きしめて瞼を閉じる、実はそんなタイプのレーヴである。
閑話休題。
レーヴは王座寄り、左列前方に痩せた男を発見した。見るからに陰気なオーラを発しており、遠目からでもお近づきにはならない方が良い類の人間である事は明確である。
「あれが……例の悪い大臣か」
「はい。彼奴がリプルです」
「これはまた、如何にも悪そうなヤツだな……」
「それは……確かにそうですね」
下を覗きつつ、リーヴィリアが否定できないといった顔で頷いた。
レーヴは一旦顔を上げ、神秘の煌きを宿す双眸を隣の少女に向ける。
今リーヴィリアは真紅のドレスを着ていて、まさしく絵本に登場するお姫さまといった風体だった。下の豊満な婦人たちには届かないまでも、年を考えれば十分に各箇所の肉づきは良い。レーヴでは望むべくもない将来性を感じさせる胸元には、金属じみた光沢を持つペンダントが光っている。
どう見ても非金属なのにも関わらず金属光沢を見せる珍妙なペンダント。貴重な鉱石も転がっている『竜熱の竃』を制覇せしめたレーヴをもってしても一度として見た事がない。
「…………」
行き場を失くしていたレーヴの手が黒い壁近隣から平たい胸元に移動し、頬周辺で安定した。
レーヴは己の事ながらに凄まじく触り心地の良い頬を弄りつつ、リーヴィリアの胸から指をくすぐる白髪に視線を移す。
つい昨日までは灰色だったレーヴの髪。
ヤトの薫陶を受けて"人化"した当初は赤色青色緑色黄色桃色茶色紫色……と忙しく変転していたのだが、『血染めの森』でリーヴィリアとの邂逅の際に目立たぬようにと無理やり灰色に染めていたのだ。
それが更に昨日の『調整』で白に変わった。
どうやら"人化"には度合いがあるようで、秤を『人』に傾ければ人間に近づき魔物の力は行使できなくなるし、『魔』を強くすると魔物としての能力が使えるようになってくる。レーヴの場合は『魔』を濃くすればするほど髪と瞳の色が魔的な彩りを増やしていくようだった。実に解りやすいことである。
昨日、レーヴは一瞬だけ『石精霊』の力を使用できる程度に『魔』の配分を多くし、騎士さんからの預かり物をリーヴィリアに渡した。
しかしその遺品はリーヴィリアには憶えがなかったようで、金髪の少女はペンダントを手に「これ、何でしょう?」としきりに首を傾げていた。
傾げていたのだが、始めは父の遺品自体よりもレーヴが手のひらから直接ペンダントを出現させた事に暫らく驚いていた。
突如肉を透過してペンダントが出てきたのだ。思えばリーヴィリアの驚愕も当然の事だな、とレーヴは心中で呟いた。
十数年もの間血と骨、皮と肉飛び散る人外魔境を生きたレーヴには『前世』どころか根本的な所で人間としての感性が欠落していた。むべなるかな。既にレーヴは脆弱な人間でなく、圧倒的高位の存在たる王魔なのだ。
覗き穴に顔を戻し、レーヴは無自覚に蟻を眺めるような感覚で居並ぶ貴族たちを睥睨した。子供が蟻の行列を見つめる目と、暇潰しという点ではそう変わらない。……レーヴはあまり自覚していないが。全てはこれから続くであろう、永遠にも等しき無聊を慰めんがためである。
と、場が動いた。重々しい扉が似つかわしくない滑らかさで内側へ開く。
漸く『王座継承の儀』主役の登場だ。正しくは主役をリーヴィリアに明け渡す役回りなのだが。
幾分軽めの足音が、重苦しい金属質の足音を伴って響き。
僅かとはいえ一部の貴族間で弛緩していた空気もが完全に張り詰めた。全ての貴族たちは残らずその場に跪き、恭しく頭を垂れる。
刹那、クルセウスが視線を寄越した事を二人は見逃さなかった。
作戦開始の合図だ。
瞬時に隠密用の多重結界を解除し、レーヴは小さな片手を振り上げる。リーヴィリアは手をぎゅっと握り決意を固めた。顔を上げ、互いに決意を滲ませた目線を交わす。
「……行くぞ!」
「はい!」
驚くほど白い、それでいて薄く赤色づいた幼い握り拳が天井裏を打擲した。見れば誰もが目を疑うような破壊力が吹き荒れ、荘厳な『王の間』の天井の一角が粉々に破壊される。
落下し舞い散る破片と共に場に満ちる空気を切り裂き、レーヴとリーヴィリアは王の間に降り立った。
注がれる八十の動揺の目と、二十の理解の目。まるで水圧のような視線を微風のように払い、二人の少女は背中合わせに悠然と立つ。
「さあ」
白銀の瞳に、確かな興奮を揺蕩わせ。純白の少女は細く、微かに、しかし絶対の勝利を宣告した。
「ショウタイムだ」
2
「私、リーヴィリア=セプレスはセプレス国国王の座を賭け、ヴァレイア=セプレスに決闘を申し込みます」
軽快な所作で着地した金髪金眼の、紅色のドレスを纏った少女は凛然とそう言い放った。
とても十代半ばの少女のものとは思えぬ覇気がその小身から燦然と放たれる。
奇想天外な出現に何らかの発言を目論んでいた貴族たちの声が、その威風を受けて喉元で強制的に停止した。
しばしの放心と呆然の後に天井から現れた人物がリーヴィリアだと気づいた貴族たちは、臣下の礼をも忘れ騒然となった。
『王の間』に波のように広がる驚愕と疑念のざわめき。
しかし特に重鎮と思われる数名はまるでこの事態を予期していたかのように依然口を引き結び、騒ぎを静観していた。既にその面には、天井をぶち抜くという派手派手しい登場を見せつけられた時の僅かな狼狽も消失している。
上を振り仰ぎ、暗い空洞が覗く天井の一角を認めて激しく取り乱すのは比較的若い者たちだ。そこらに転がる黒色の砕片はセプレスで産出される鉱物の中でも随一の硬度を誇る『魔黒晶石』なのだから当然とも言えるが。
彼ら彼女らは唖然とした顔を引き下げ、もう一度少女を注視する。
美しい。しかし、紅のドレスを纏ったあの少女はまさか……リプル大臣の姦計により『血染めの森』へ送られたはずのリーヴィリア殿下ではあるまいか。だが殿下が真実戻ってこられたというのなら……。しかし。ヴァレイア殿下と従兄弟とは思えぬほど気性が穏やかな姫殿下。その殿下がよもや『決闘』とは! いやはや……。
落ち着きを取り戻し始めた諸貴族たちは、首を曲げて『ヴァレイア殿下』を恐る恐る見る。入場と同時にこの事態で、思えば一歩として動いていない。
幾十もの視線が一人の人物に集中した。
件の人物は傍に二人の『紅騎士』を侍らせて静かに佇んでいる。
笑っていた。
左手で心底愉しそうに顔面を抑え、しかし抑えきれぬ喜悦がくつくつと指の隙間から漏れる。
その玲瓏な双眸を凶暴に歪ませて、セプレスを象徴するが如き血のような紅色が混じった赤茶の髪が三つ編みに揺れた。
どこか『竜』の尾を彷彿とさせる赤茶の長髪。
「ひっ……」
誰が零したかも判別できない悲鳴。だが責める者はいないだろう。誰もが青ざめ、誰もが思った。
こいつには絶対に勝てない、と。
それは『強さ』を重視するセプレスにおいて、絶対の価値基準である。
だから政治の才能がなくても、戦闘以外に興味が薄い凶人でも、誰も面と向かって否定しないのだ。
「ふふふ……。あのリーヴィリアが俺に決闘を挑む……か。本当に、まったくもって予想外だ」
「……私が生きていた事には驚かないのですね」
「まぁ、生きてる気がしてたからな。何となく」
ヴァレイアが何でもない風に言い放ち、リーヴィリアが呆れた様子で返した。
「相変わらずですね。……して、『決闘を受けるや否や?』」
「また古風な文句を。……『我が身を以って受け奉る』、だったか」
両脇に侍る『紅騎士』から一本の槍を受け取るヴァレイア。
構える。一分の隙、油断も見受けられぬ至高の域に到達した達人の姿勢。
対するリーヴィリアはゆるりと佇んでいるだけで、身構える素振りも見せない。
「さぁ、やるんじゃないのか?」
「いえ。私はしません」
「何?」
金髪の少女は大きく一歩下がる。
入れ替わりに純白の少女が進み出た。
ヴァレイアが目を見開き、纏っていた凶悪な殺気が霧散した。
「レーヴ=ディアリトスを決闘代理人とします」
その少女はたった今出現したようで、金髪の少女以外の人間殆どが表情を驚きに変えた。
居る事はわかっていたはずなのだが、まるで視線を残らず避けていたかのような気配の薄さ。
それが今はむせ返るほど濃厚な存在感を放っていた。
この少女は一体。
だがそんな貴族たちの疑問は次の瞬間、別種の衝撃によって消し飛んだ。
息を呑む音がそこかしこから鳴る。
純白の、人ならざる造形美。この場に美術家はいないが、もしいれば絶対に表現しきれぬ望外の美しさに絶望しただろう。
愛妻家と知られる一部貴族たちでさえ、この少女の前ではどんな美女でも霞む事を認めざるを得ない。
少女が声を発した時、実に九割もの貴族たちがビクリと竦み、自身が硬直していたのを自覚した。
涼やかかつ甘やかな高音が空気を震わせ、『王の間』に波紋を広げる。
「じゃあ」
どこまでも白いその少女は、大量の視線が己に集中しているというのに微塵の躊躇もなく言葉を紡ぐ。
少女はまるで「こんな目線、軽い軽い」とでも言いそうに泰然自若としていた。
「リーヴィリアに代わりお相手いたす。……ってね?」
「……誰かと思えば、お前か……」
「それはこっちの台詞だよ」
純白の少女と赤茶の青年が対峙し、皮肉げな視線を絡ませる。
レーヴはその端正すぎる童顔を歪ませ、意地の悪い笑みを浮かべた。
「なんだ。きっちりしたら割と格好良いじゃないか」
「お前こそ。前よりも今の髪色の方が似合ってるぞ」
投げやりに言って、赤茶の青年━━━━ヴァレイア王子はやれやれと頭を振りつつ手中の槍を回す。穂先が危険な速度で周回し、周囲の空気を円状に切り裂いた。
眼前を猛烈な速さで旋回する刃物に、今頃になって我に返った貴族たちが一斉に後ずさる。
二者を中心として人の輪が広がった。
溜息を吐いてヴァレイアは槍をピタリと止め、寸分違わずレーヴの額に照準する。
赤茶の目が刃のように細められた。
「子供との決闘は主義に反するが……仕方ない。戦いの約束を五年ほど先取りさせて貰おう。一昨日の飯の分もあるしな」
「ま、そうだね。……そんな物欲しそうな顔で言わないで欲しいけど」
緊迫感に満ちた空気など知らぬ存ぜぬとばかりに平和な会話を終えて、レーヴとヴァレイアは剣呑に、しかしどこか楽しげに睨み合う。
「さぁ、おいでよ…………『お兄さん』」
「『お兄さん』は━━━━━━━━やめろ!」




