王都への旅路 4
7
「レーヴ、ちゃんっ」
「んぐっ」
「大丈夫ですか、レーヴ様……」
レーヴはマルと名乗った女性の膝の上で抱き抱えられていた。
何か既視感がある。
時折妙な掛け声と共に身体に絡まる腕に力がこもる。
特別苦しい訳ではないのだが、首筋に押し付けられる膨らみはいかんともし難い。
レーヴは首を反らして上を見る。レーヴの身長はかなり低く、マルはかなりの長身のために身長差は著しい。だからレーヴの頭頂部はマルのあごに掠る事もなく、その胸の谷間に収まった。
マルはレーヴが己の顔を見つめている事に気づくと、慈母の如き微笑みを浮かべた。頭にタンコブを拵えているのが少々みっともないが。
「どうしたの?」
「……いや、別に」
レーヴが顔を正面に戻すと、リーヴィリアが上品にくすくす微笑していた。どうやらこの笑い方はリーヴィリア特有の癖のようだ。
笑われたレーヴの頬が不満で膨らむ。
「…………なに」
「いえ……だって、あのレーヴ様がタジタジだなんて……」
「むぅ…………」
レーヴとしては少し自覚もあるので、反論できない。
リーヴィリアから視線を外して、レーヴはもの思いにふけった。
――――しかしこのマルとやら、始めとえらく印象が違うのだが。
レーヴは記憶の糸をたどる。
どうしてこうなったのかと。
大きな馬車の後部で、二人の麗しい少女がクーデターの計画を煮詰めていた。
会話の内容が内容なのに、まったく二人の間に流れる空気は緊迫していない。それどころか和気藹々と口を開いていた。
灰色の少女は右隣に座るリーヴィリアに、金髪の少女は左隣に座るレーヴに。それぞれ相好を崩して語りかけている。
「今のところは一応順調だな」
「でも、かえって不安です」
字面だけ見れば少し陰気なのだが、そんな台詞を吐き出す口はにこやかな笑みを形作っている。
二人は上機嫌だった。
山脈上空を飛行中、二人は具体的にどうやって計画を進めるか検討した。
まずレーヴとリーヴィリアは、クーデターを始めるにあたって政治的に強力な味方が不可欠だと考えた。
ぶっちゃけてしまえば、レーヴさえいれば力業で強引にどうにでも出来る。けれど、そんなやり方では貴族や民衆に認めてはもらえまい。
だから貴族たちを納得させ、世間体を整えられる人間が必要なのだ。
レーヴが適格な人物はいるか? と尋ねところ、リーヴィリアの口から『クルセウスおじさま』なる人物が出てきた。
以下、レーヴがリーヴィリアに詳しく聞いた彼の人物像である。
名はクルセウス=マセルダ。
齢50ほど。セプレス王国随一の大貴族、セプレス家の今代当主。
誰もが認める傑物で、多芸に秀でる温厚な好々爺。というには少し若いか。
先の次期王座を巡っての政戦ではリーヴィリア側につき、かの悪い大臣を押さえる要になっていた。もしクルセウスがいなければ、暗殺、謀殺された人間は優に倍を超えていた、と貴族たちにまことしやかに噂されているほど。
そしてクルセウスには男三人、女一人の計四人子供がいる。
そしてその三人目の息子が有名人で、『防壁南部砦』で隊長をやっていると。
つまり二人は、クルセウスと連絡をとるために、その息子を訪ねようとしているのである。
「ん、それでクルセウス氏の三男坊、なんていうんだっけ」
「はい。確か、バーミ……」
「あの」
レーヴの問いかけにリーヴィリアが応じようとしたとき、誰かが声をかけてきた。
高めの声域。女性だ。
二人は互いの顔に向けていた目線をその女性に移す。
一人の女性が二人の少女のすぐ近くに佇んでいた。女性にしてはかなり背が高い。柔和な顔立ちで、リーヴィリアよりも薄い金色の髪は短めに切り揃えられていた。
彼女に相対した九割方の人間の第一印象は『優しそう』だろう。
だがしかし。
こちらを見下ろすぎこちない笑顔に、汗を伝わせた頬。
なんだか調子が悪そうだ、怪我でもしているのだろうか。とリーヴィリアは女性の身を案じ、レーヴはこの女性に関われば十中八九よろしくない事になりそうだ、と嫌な予感をひしひしと感じていた。
長い金髪の少女は心配そうな目で、肩ほどまでの灰色髪の少女は胡乱げに彼女を見やる。
「はい?」
「…………」
「わ、私マルと申します」
「……イリアです」
「レーヴ」
リーヴィリアが名乗ったのは偽名……ではないのだが、今リーヴィリアが姫だと悟られるのは得策ではない。
なので『イリア』とはそのために二人で決めた仮の名だった。
レーヴたちの名を知ったマルは少し安堵した様子で微笑んだ。表情のぎこちなさは少なくなっている。
マルは二人のそばに腰を下ろした。
「私は『防壁南部砦』所属の『防人』なの…………レーヴさんとイリアさんは?」
――――というか、そもそも何故『防壁』の東部に位置する『マーデ森林』に?
そんなマルの心中が読み取れるかのようだったが、とりあえずは口に出された言葉に返答しなければならない。
無難な台詞で凌ごうとして、しかしレーヴは気づいた。マルは自身の立場を名乗り、レーヴたちに「貴方は」と訊いているのだ。
ちょっと待て。立場を尋ねられて、何をどう答えるというのだ。『王魔』です? 今政権を握る王子に反逆を企てています? そんなこと言えるはずがない。
----あれ、僕ってもしかして。いや、でも……やっぱり……無職?
驚愕の新事実を見出したレーヴは俄然焦り始めた。マルではないが、頬を冷や汗がつつっと伝う。
『無職』。それは前世では一種特別な意味合いを持つ言葉であった。こんな話を聴いた覚えがある。『無職』の人々は真っ当な職業に就いて毎日仕事をする人間からは蛇蝎の如く嫌われ蔑まれる。『何もしていない』彼らは最悪の世間体に晒され余計外出しなくなるという悪循環。就職活動しようにも『空白の時間』。まして就職率が下がってまともな人間でもそうそう仕事などみつからないこのご時勢。ただただ部屋で食って寝ての繰り返し。そして終いには親からも愛想を尽かされ――――
「レーヴ様……?」
「レーヴさん……?」
突然ぶつぶつ言い始めたレーヴを、二人は怪訝な表情で見た。
レーヴは膝を丸めて両ひざに顔を埋め、足元を見ていた。どんよりと暗い雰囲気を纏っている。ただでさえ小さな体が余計に小さく感じられた。
「えっと……レ、レーヴ様?」
「だ、大丈夫?」
リーヴィリアは始めて見るレーヴの姿におろおろと狼狽した。
マルは呼びかけてもレーヴが正気に戻らないのを目にして。
彼女はレーヴの如何にも柔らかそうな頬を突ついて起こそうとした。
ふにぃ。
「レーヴさん、大じょ…………っ!」
マルはレーヴを呼び覚まそうとして----中止し、再度レーヴの頬に指先で触れて、そっと押す。
ふにぃ。
「……!」
引いて、押す。
ふにぃ。
「…………っ!」
ふにぃ。ふにぃ。
マルの手の往復運動は段々と加速していく。途中から片手ではなく両手になり、より激しく灰色の幼女の頬を攻め立てる。
リーヴィリアは困惑して、レーヴとマルの顔を交互に見つめている。
肝心のレーヴは今だ絶賛停止中であった。
ふにぃ。ふにぃ、ふにぃ。
ふにぃ、ふにふに。さすさす。ふにぃ。
ふにふにさすさすふにふにさすさすふにふにさすさすふ----
触られるレーヴの頬ではなく、触りまくるマルの頬が何故か紅潮している。
今やマルの手つきは突つくというより撫でさする、あるいは揉み解すといった方が正しい有様だ。
「ふぁふぃ…………?」
これには流石にレーヴも覚醒した。頬を蹂躙する謎の感触に目を白黒させながら、顔を上げ下手人の姿を目の当たりにする。
レーヴの目に映るのは顔を紅く染め、息を荒らげ、一心不乱にレーヴの頬を十指で包み込み弄りまくる一人の女性。マル……否、変態だ。
訳の分からない状況に混乱しつつも、レーヴはマルに抗議の目線を向けた。
本人は気づいていなかったが、この時レーヴは瞳に涙を溜めた上目遣いをマルに向けていた。
マルの胸から何かが撃ち抜かれる音が響いた。
「むぉ……」
「レーヴさん!」
レーヴはこの凶行を止めようとしたが、マルは瞳に危険な光を宿して、最早我慢できぬ! とレーヴに抱きついた。
両の腕が素早く後頭部に回り込み、豊満な二つの塊がレーヴの顔面を挟み込む。頭頂部にはマルの顔と思しき物がグリグリと押し付けられた。
「んぐっ」
「あぁっ、レーヴさんレーヴさんレーヴちゃん可愛いわレーヴちゃんっ!」
「んむ…………!」
顔を圧搾する、未だ嘗て味わった事のない巨大な母性の象徴にレーヴは己が真っ赤になっているのを自覚した。ヤトとのアレは黒歴史。ノーカウントである。
レーヴは羞恥に苛まれながら、どうやってこの地獄(天国?)から抜け出すか必死で考える。
今レーヴは三角座りで、マルはその上に覆い被さるようにしてレーヴに絡みついていた。
そしてマルはその十二分に女性的な身体をくねらせ、レーヴの幼い肢体に擦り付ける。
レーヴは沸騰しそうな脳みそを無理やりに稼働させ、膝に回していた腕でマルの腹を押す。その小ささに見合わぬ怪力でマルの拘束を緩め、レーヴは空いた隙間から逃げ出した。
「はぁ、はぁ」
「ハァハァ」
レーヴはにじり寄るマルの魔手から身を守るように後ろに下がる。尚も寄って来るマルにレーヴは敵意に満ちた視線を送った(つもりだった)。
マルからは涙目で頬を紅潮させた、レーヴのいじけるような花の顔が目に映った。
再びマルから何かが撃ち抜かれる音が響いた。
「レーヴっ、ちゃーーーーんっ!」
リーヴィリアはこれら一部始終を興味津々と注視していた。
美しい童女と美女が絡み合い、それを頬を淡く染めて見守る美少女。今馬車の後部には極めて危険な空間が形成されていた。前部の男たち(一人除く)は必死でこの桃色空間から顔を逸らしている。
そしてリーヴィリアに、マルが『オルトロス』の如き動きでレーヴに飛びつくのと、ついに限界点を突破したレーヴがマルの頭を叩いた光景が見えた。
その後、頭を摩りながら執拗にどうしても、と哀願するマルにレーヴが折れて、レーヴはマルの腕の中に収まる事となったのだ。
冒頭に戻る。
「それで、結局レーヴちゃんとイリアちゃんは私たちの『塒』……『防壁南部砦』に何をしに?」
レーヴを膝の上に乗せて抱き締めるマルが、極々上機嫌で尋ねた。
最初のしおらしいマルは何処かに消えてしまった。ここに居る僕を抱く女はただの変態だ。レーヴはそうひとりごちた。その頬にはまだ羞恥の赤が残っている。
そんなレーヴを尻目に、クスクスと笑いながらリーヴィリアがマルの質問に答える。
「はい。バーミット=マセルダさんと面会したくて」
「隊長? 隊長ならあそこに居るわよ?」
マルは手も使わずに目線だけでバーミットを示した。余程レーヴから離れたくないらしい。二人もそれに追随して目を向ける。
一人だけ、茶色髪の野生的な雰囲気の男が、レーヴたちを見ていた。
見つめてくる男とレーヴの目が合った。
「あぁ……バーミットってあの変な男か」
「レーヴ様……失礼ですよ」
いやだってずっと見てくるし。
……確かに少し不気味ですが。
そんな二人の会話を聞いたマルが苦笑した。
「バーミット隊長はレーヴちゃんの圧倒的な『強さ』を見たからね。……多分、『塒』についたら決闘申し込まれるわよ」
「決闘?」
リーヴィリアが首を傾げると、マルはレーヴを力の限り抱き締めつつ答えを返す。
「ええ。隊長は『強い』ってのが大好きだからね。強そうな人には片っ端から声をかけてるわ。……今まで『塒』で隊長に勝てた人間はいないわね。私も含めて」
「ふぅん。それって僕になんの得があるの?」
マルの台詞にレーヴがようやく口を出した。
マルは満面を喜色に彩り、レーヴを抱き締める力を更に強くした。
「隊長に勝てればの話だけど、昔『なんでも一つ聞いてやろう』って言ってたわね」
「…………」
レーヴが再びバーミットに視線を向けると、彼は異様に鋭い目でレーヴを凝視していた。
二者はしばし睨み合う。
その時、馬車が揺れた。
「『門』に着いたぞー!」
「あっ、レーヴちゃんイリアちゃん、『門』を抜けたら『防壁南部砦』に到着よ」
誰か、おそらく馬車の御者の声が届いて、マルが説明を付け足した。
やっと目的地到着という訳だ。
馬車が停止して、続々と男たちが石化した仲間を担ぎ降りていく。
マルはレーヴを抱っこして行きたい、などと戯けた事を言ったが、レーヴの無言の、しかし猛反発に合い、名残り惜しげにレーヴを解放した。
バーミットも降車して、最後に三人が馬車から降りる。
すると急に空が広がり、真昼の空の青を見せた。強い日差しがレーヴたちを照らす。
「おぉ……」
「やはり壮観ですね……」
「ふふ。私も始めて来た時は驚いた憶えがあるわ」
『防壁南部砦』は、『防壁』に同化する形で存在していた。左右にどこまでも伸びる『防壁』の一部が西側、『マーデの森』の反対方向にせり出している。
『防壁』と同じ煉瓦色の、砦というより殆ど城だ。
レーヴの目測でも優に20メートルはありそうな巨大建造物である。
しかし。
レーヴは疑問に思った。砦も相当大きいが、こうして見てみると『防壁』はその砦よりも更に高い。
「こんなのどうやって造ったんだ……?」
この台詞に対する二人の反応を見て、レーヴはこれもこの世界の常識なのか、と思った。
首を傾げていると、マルが答える。
「この『防壁』は昔、大魔術師ヘカテ様が造ったのよ」
「"天地創造"……魔術師なら誰もが憧れる大魔術ですね……」
大魔術師ヘカテとやらが一人で造ったのか。それは凄いな。レーヴは感心してから、後ろに振り向く。
そこに居たのは、野生的な印象の男。
じっと黙ってレーヴを見ている。
レーヴが見返ると、バーミットは口を開いた。
「……嬢ちゃん、メシの後に『試合場』で待ってるぜ」
「…………」
バーミットは獣のようにギラついた目でレーヴを見、砦に入って行く。
レーヴは溜息をつくと、バーミットに驚いているリーヴィリアとマルを急かし、バーミットに続いて砦の入り口へと向かって行った。




