二度目の黎明 前
1
夢だろうか、それが最初に思ったことだった。
ぼんやりとしていた意識が次第に覚醒してくる。
やけにすっきりとした気分であった。
はて、いつのまにか寝てしまったのかな、と僕はひとりごちた。
夢を見ているのだから、眠った筈なのだが、そのような記憶はない。なんだか記憶の前後が曖昧だった。
まあそれはいい。どうせ夜更かしでもして、いつの間にか眠ってしまったのだろう。
しかし、今までこれほど鮮明な夢は見たことがない。これが噂に聞く明晰夢というやつなのか、などと思いつつ、改めて前方を見てみる。
--妙に視界が揺れるなぁ。
まるで度のきつい眼鏡を掛けたような感覚である。
僕の目に入ったのは、ほの暗い廊下であった。一方は見える限り真っ直ぐに続く通路。反対方向は行き止まりで、側面と同じ壁がある。なにやら『もや』のようなものが漂っているのも相まって、先まで見通すことが出来ない。
廊下は横に広く、縦にも高い。これで小綺麗なら、何処ぞの王宮のように荘厳だったろう。しかし残念ながら薄汚れていて、気味が悪いだけだった。
お化け屋敷、心霊スポット、肝試し。そんな単語が思い浮かぶ。
不気味な雰囲気だが、一体この廊下の先にはなにがあるのだろうか。
やけに興味をそそられた僕は、この得体の知れぬ状況にもまったく躊躇せずに、揚々と歩き出した。
否、歩き出そうした。
歩き出そうとして--
踏み出す足がないことに、僕はようやく気がついた。
否、失ったのは足だけではない。腕も、頭さえもない。あるのはただゴツゴツとした大きく透明な石だけ。
それが今の僕であった。
--何が……!?
なぜだかその時僕は、その無駄に大きな、不思議な色合いの石の体が、変わり果てた己の姿だと確信していた。
しかし、驚愕の要因は水晶の塊のような、自身の姿ではなく、自身の視えているものと、その視え方だった。
何故か自分自身の姿形が克明にわかる。まるでゲームのような俯瞰視点。
--なぜ自分で自分が見えるんだろう? というか、僕は振り向かずに後ろが行き止まりだと、どうやって知ったんだ?
意識してみると、実に恐ろしいことに天井に床、左右と後ろの壁が同時に目に入る。そして右下には僕自身の姿も映っていた。
僕の視点は宙に浮いていて、更に視界は全方位に渡っていたのである。
今になってやっと、僕はこの状況が只の夢ではないことに気づいた。
2
しばしの混乱の後、冷静になって考えてみる。
まず第一にこの水晶の体は只の高そうな石の塊、という訳ではないらしい。
何せフヨフヨ浮いているのだ。これで普通の石のはずがない。
この事に気付いた時は実に驚かされた。どういう理屈で浮いているのだろう?
その次にこの状況、夢ではなさそうである。
考えてもみて欲しい。
もし夢の中ならば、まるでレースカーのような速さで走ったり、空高くジャンプしたりなら可能かもしれない。
だが、人間の枠をはみ出しているような夢は人間の脳みそでは見られまい。そして、こんな百目のような視界は明らかに人間の枠をはみ出している。
そうなると当然「じゃあこれどうなってんの?」ということになるのだが、そうなると濃厚な線は、例えば人体実験とかではないだろうか。
……一般人であるところの僕からしてみれば、ほとんどなきに等しい可能性だが。
それでも最初に思いついた『異世界』なんてのよりはよっぽど現実的である、はずである。そう思いたい。
そんなことをつらつらと考えていたが、結論は出ないであろうから、僕はひとまず周辺の探索に赴くことにした。幸い、足はなくても低速ではあるが移動は可能なようである。伊達に浮遊している訳ではない。
僕は不安を押し殺して、フヨフヨと暗闇の先に進み始めた。
3
しばらくの間、一直線に廊下を進んでいた僕だったが、不意に物音が聞こえて、動きを止めた。
--この体、音もわかるのか。
しかし感嘆は、すぐにより強い驚嘆で上書きされた。
『もや』漂うほの暗い廊下の向こうから、規則的な二連の音が聞こえてくる。
--これは、足音……?
それは『もや』に包まれた廊下の先からやって来た。
小学生中学年ほどの小柄な体躯、毛のない茶色のごわごわした肌。三本指しかない左手に、不恰好な石剣をたずさえて現れたのは、奇怪な猿のような生き物だった。その顔に浮かぶのは醜悪な凶相。名付けるならば、猿鬼である。
僕は突然出現した怪物に絶句した。
てっきり人間か、それに類する者が来るとばかり思っていたのである。
前屈みで歩いて来た猿鬼は、浮遊しているこちらに気づくと、走り寄り。
僕を力の限り打擲した。
--!?
ガヅン、と石と石がぶつかって、大きな音を立てる。
痛みはなかったのだが、かなりの衝撃に面食らい、僕はおおいに取り乱した。
硬直する僕などお構いなしに、猿鬼は狂ったように叫びながら、石の剣を振り回す。耳障りな打撃音が連続して廊下に響いた。
続く衝撃の最中に僕はふと思った。もし砕かれたら、僕はどうなるのか。
--もしかして、死ぬ?
空恐ろしい想像に、僕は恐れ戦いた。
ガヅン、ガヅン、ガヅン、打撃が重なるごとに、恐怖感が津波の如く押し寄せる。
粉砕される水晶の塊。砕け散る欠片。
それは明確な死のイメージだった。
僕は声にならない悲鳴を上げた。
4
ガヅン。
絶え間なく振り下ろされる猿鬼の石剣に、恐慌状態に陥っていたのも昔の話である。
今は回想するだに恥ずかしい。
体を打つ音が百を超えたあたりから、億劫になった僕は数えるのをやめてしまった。
猿鬼はいまだに飽きることなく、僕を叩き続けている。始めと比べれば少し勢いは衰えたものの、間断なく攻撃する猿鬼の体力は驚嘆に値する。
だが、出来ればその活力は他の方面に向けて欲しい。
ガヅン、ガヅン。
しかし、この水晶のような体の頑丈さも尋常ではない。これほどまでに滅多打ちにされているというのに、小さな疵一つとして付いていないのである。
対する猿鬼の石剣は刃が欠けまくっていた。至る所に罅が入って、今にも砕けてしまいそうだ。
どうやら灰色の石剣とこの薄水色の体では、耐久性に大きな開きがあるようだった。
こうなると流石の僕も落ち着かざるを得なかった。
確か水晶は脆かったはずなので、僕の体も普通の水晶ではないのだろう。
超常事象の目白押し、オカルトのバーゲンセールである。
既に僕の常識は、扉を閉めて鍵を掛け、引きこもり状態であった。
ガヅン、ガヅン、ガヅン。
そこまで考えて、僕は胡乱げに猿鬼の方を見やる。
相も変わらず醜い顔を喜悦に歪ませ、ひたすら僕を殴り続けている。
何が楽しいのか時折ギシャー、と奇声を発しながらである。
その一挙手一投足が僕の癇に障る。
正直ぶっ飛ばししてやりたいが、今の僕には、殴る拳も蹴る足もない。
逃げだそうにも出力が足りず、猿鬼に抑え込まれる。
完全に手詰まりであった。
いくらこの体が頑丈だといっても、限界はあるだろう。
どうにかして、この膠着状態を脱さなければ。
しかし、猿鬼のなんと憎たらしいことか。零れ落ちんばかりの嗜虐的な笑み。自分が上位者と信じて疑わぬ表情である。
猿鬼に遭遇してからの僕の心は、めまぐるしい変遷を遂げてきたが、今胸の裡を支配するのは激しい苛立ちである。
かなりの時間耐えてきたが、最早限界だった。
やりようのない怒りが僕の中でとぐろを巻く。
僕は乗せられるだけの敵意を視線に乗せ、猿鬼を睨めつけた。
--この猿風情が、僕を殴るな!
心中で叫んだ瞬間、ただ辺りに漂っていただけの『もや』が急激に僕の眼前に集合し始め、光る玉を形作る。辺りがかすかに照らされた。
僕と猿鬼は共に硬直し、二者の間に現れたこの不思議現象を凝視する。
そしておそらくは同じ事を考えただろう。つまり、何だコレ? である。
閃光。
突如として光る玉から発せられた一条の光線は、猿鬼の両肩の間、頸の真下に命中した。
猿鬼は、致命的であろう部分に風穴を開け、床に倒れこんだ。
黒ずんだ血が溢れ出し、石色の廊下を色づかせる。こうなると、廊下を汚していたのは、何らかの生物の血痕ないし肉片にしか思えなかった。
エネルギーを使い果たしたのか、光る玉は消え失せ、仄かな暗闇が舞い戻る。
相次ぐ急展開にほとんど茫然自失の僕は、フワフワと引き寄せられるように、うつ伏せに倒れる猿鬼の死骸に近づいた。意識を、血溜まりの中のそれに集中させる。すると死骸からそこらに漂うのと似たような『もや』がほんの少しだけ噴き出した。僕は本能の命ずるままに、『もや』を吸い込んだ。
刹那、僕が感じたのは十数年生きてきて初めての感覚であった。
ほんの少しだけ、己の存在そのものが増大、あるいは強化され、『次』の存在に近づく--
ちょっぴり陶酔した後、僕は我を取り戻し、思考した。
あの『もや』のようなモノは僕の感情に反応するのではないか。
僕の激昂と光の玉、そしてレーザー(もしくはビーム)。
体に吸い込まれた猿鬼の『もや』。
どうにも、この体にもやを操る能力があるように思えてならない。
良し、試してみようではないか。もしこの仮説が間違っていても、特に損はない。
小手始めにと、早速そこらに漂う『もや』たちに集中しろ、と軽く念を送った。
と、周辺の『もや』が一点に収束し、光球が形成される。
僕は難易度の低さに唖然としてしまった。
--……一体、僕の我慢は何だったのか。
この事にもっと早く気づいていたなら。
そう思わずにはいられない。
そうならば、あの猿鬼もすぐさま葬り去ることが出来ただろう。
数十分間にも及ぶ苦行を思い出した僕は、憤懣やる方なしと虚空を睨む。
途端、おとなしく浮かぶだけだった光の玉が、光線を照射した。光は闇を切り裂き、廊下の先へ消えて行く。
数瞬遅れてギシャー、と聞いた事のあるような、断末魔の声が聞こえてきた。
取り敢えず、僕は二匹目の猿鬼からもやを取り込むべく、フヨフヨと移動を開始した。