【羽化】
研究棟の敷地植えてある、夏蜜柑の木。
その葉の一枚に、青虫がいた。
名雪さんは翌日、得意げに透明ケースを抱えてきた。
「プロジェクト名“アゲハ・プロトコル”開始します」
「コードネームが大げさです」
「だって、進化演出でしょ? 最強コンテンツ」
「演出って、、、まぁ俺も見たことないので興味はあります」
アゲハ・プロトコルが始まった。
青虫はすごい。その身体からとても想像できないくらい、さながら小さな怪獣のように葉を食べる。
朝、教室へ行く前に覗くのが、俺の日課になった。
数日すると、急に食べるのをやめ、ウロウロと歩き回りはじめた。
「これは、、、?」
「うーーんと、これはどうやら蛹になる場所を探しているみたいだね」
スマホを手に名雪さんが答える。青虫はいい場所がきまらないのか、ウロウロし続けている。
「お気に入りの場所が決まるといいね」
講義からもどると、青虫は枝にぶら下がっていた。
どうやら前蛹というらしい。糸で身体と枝をくっつけて固定している。
翌朝
「茨木くん、今日の様子は?」
「前蛹から蛹になってましたよ!」
「よし、それなら羽化だいたい2週間後だから……たぶん来週の土日あたり」
「“たぶん”なんですね」
「そこが良いの。いつ来るか分からないライブ」
「ゲリラ配信と変わりません」
その“いつか”は、金曜の午後に来た。
それに気づけたのは奇跡に近い。
窓からの斜光の中、蛹の表面がすっと裂ける。
透明だったなにかが空気と出会い、色になる。
「……すごい」
「でしょ」
先輩の声は、いつもの勢いがどこかへ置いてきぼりで、やわらかい。
羽は皺だらけの薄紙みたいで、本当にこんな羽で飛べるのかと思う。
でも、ずっと見ているとじわじわと羽が伸びていく。
毛細管現象って言葉を思い出す。
俺たちの時間にも、いつかこんなふうに血が通うのだろうか。
「外に出しても……大丈夫でしょうか」
「もう少し乾かしてから。羽が折れちゃうと飛べないからね」
「承知しました」
三十分後。
ケースを開け、非常階段へ。
風が優しくて、空が遠い。
蝶は一度だけ俺たちのほうを見て、それから斜め上へ跳ねた。
紙飛行機よりも軽く、でも確実に遠くへ。
「いってらっしゃい」
名雪さんが、ほんの少しだけ寂しそうに笑う。
その横顔が、蛹の殻よりも薄く見えて、俺は慌てて言葉を探した。
「先輩。あの……」
「ん?」
「俺たちも、いつか、ちゃんと飛べるでしょうか」
「飛ぶよ。たぶん、気づいたら飛んでる。今日の蝶みたいに」
「そうだと、いいですね」
「大丈夫。もし落ちても、非常階段がある」
「頼り方が具体的です」
帰り道。
風で転がってきた葉を、先輩が靴の先でぴっと跳ね上げる。
その跳ね方が、蝶の初速とよく似ていた。
俺は何も言わず、心の中で拍手をした。
殻は置いてきた。たぶん、俺たちも少し軽くなった。
アゲハ蝶の飼育はおすすめです。羽化したらちゃんと逃がしてあげましょう




