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茨木くんと名雪さん  作者: 橘悠


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8/42

【羽化】

研究棟の敷地植えてある、夏蜜柑の木。

その葉の一枚に、青虫がいた。

名雪さんは翌日、得意げに透明ケースを抱えてきた。


「プロジェクト名“アゲハ・プロトコル”開始します」

「コードネームが大げさです」

「だって、進化演出でしょ? 最強コンテンツ」

「演出って、、、まぁ俺も見たことないので興味はあります」

アゲハ・プロトコルが始まった。


青虫はすごい。その身体からとても想像できないくらい、さながら小さな怪獣のように葉を食べる。

朝、教室へ行く前に覗くのが、俺の日課になった。

数日すると、急に食べるのをやめ、ウロウロと歩き回りはじめた。

「これは、、、?」

「うーーんと、これはどうやら蛹になる場所を探しているみたいだね」

スマホを手に名雪さんが答える。青虫はいい場所がきまらないのか、ウロウロし続けている。

「お気に入りの場所が決まるといいね」


講義からもどると、青虫は枝にぶら下がっていた。

どうやら前蛹というらしい。糸で身体と枝をくっつけて固定している。


翌朝

「茨木くん、今日の様子は?」

「前蛹から蛹になってましたよ!」

「よし、それなら羽化だいたい2週間後だから……たぶん来週の土日あたり」

「“たぶん”なんですね」

「そこが良いの。いつ来るか分からないライブ」

「ゲリラ配信と変わりません」


その“いつか”は、金曜の午後に来た。

それに気づけたのは奇跡に近い。

窓からの斜光の中、蛹の表面がすっと裂ける。

透明だったなにかが空気と出会い、色になる。


「……すごい」

「でしょ」


先輩の声は、いつもの勢いがどこかへ置いてきぼりで、やわらかい。

羽は皺だらけの薄紙みたいで、本当にこんな羽で飛べるのかと思う。

でも、ずっと見ているとじわじわと羽が伸びていく。

毛細管現象って言葉を思い出す。

俺たちの時間にも、いつかこんなふうに血が通うのだろうか。


「外に出しても……大丈夫でしょうか」

「もう少し乾かしてから。羽が折れちゃうと飛べないからね」

「承知しました」


三十分後。

ケースを開け、非常階段へ。

風が優しくて、空が遠い。

蝶は一度だけ俺たちのほうを見て、それから斜め上へ跳ねた。

紙飛行機よりも軽く、でも確実に遠くへ。


「いってらっしゃい」

名雪さんが、ほんの少しだけ寂しそうに笑う。

その横顔が、蛹の殻よりも薄く見えて、俺は慌てて言葉を探した。


「先輩。あの……」

「ん?」

「俺たちも、いつか、ちゃんと飛べるでしょうか」

「飛ぶよ。たぶん、気づいたら飛んでる。今日の蝶みたいに」

「そうだと、いいですね」

「大丈夫。もし落ちても、非常階段がある」

「頼り方が具体的です」


帰り道。

風で転がってきた葉を、先輩が靴の先でぴっと跳ね上げる。

その跳ね方が、蝶の初速とよく似ていた。

俺は何も言わず、心の中で拍手をした。

殻は置いてきた。たぶん、俺たちも少し軽くなった。

アゲハ蝶の飼育はおすすめです。羽化したらちゃんと逃がしてあげましょう

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