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茨木くんと名雪さん  作者: 橘悠


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【スニーカーの再就職】

三限が終わって教室を出たところで、右足に違和感があった。床を蹴るたび、ワンテンポ遅れて何かがついてくる。

階段を降りようとして足元を見ると、スニーカーの靴底のつま先が、見事にベロンとめくれていた。


「……マジですか」

「どしたの、茨木くん」

「見てください。経年劣化が、予告なしに訪れました」

「うわぁ、ベロンってる。逆にここまできれいに剥がれると清々しいね」


パタン、パタンと恥ずかしい音がする。ドラえもんのひみつ道具で“靴底だけ透明マント”とか出ないだろうか。

このまま駅まで歩くのはさすがにまずいので、キャンパス近くの商店街にある靴修理屋に行くことにした。ゼミのプリントを抱えたまま、俺は「パタンパタン」と控えめに効果音を鳴らしながら歩く。


「こういうのって、自分でボンドで貼っていいんですかね」

「まあ応急処置ならアリだけど、ソール(sole)にはソウル(soul)込めてもらった方が長持ちしそう」

「ダジャレで人生訓を語らないでください」


商店街の端に、小さな看板。「靴・カバン 修理」。

ガラス越しに、作業台と古いミシンが見える。入ると、革の匂いがふわっとした。


「すみません、靴底がこのような状態でして……」

俺が靴を脱いで差し出すと、店主のおじさんが「おおー、見事にいったねえ」と笑った。

「貼り直しと、つま先にパーツ噛ませとけば、まだまだいけるよ。三十分くらいでできるけど、待てる?」

「はい、お願いします」


待ち時間、店の前のベンチで名雪さんと座る。俺の右足は靴下一枚、すごく無防備だ。

「なんか“靴のレベル上げ中”って感じですね」

「エンチャント待ちの武器みたいですね。攻撃力+3、移動速度+5くらいは欲しいです」

「スプラなら“イカ速”つくやつだね」


商店街を行き交う人を眺めながら、自然と足元に目がいく。ヒール、革靴、厚底スニーカー。みんな、何気なく大事な部分を地面に預けている。

「俺、この靴けっこう履いてたんだなと実感します」

「うん。靴底って、思い出の裏側だからね」

「いい表現ですね。今日録音しておけばよかったです」

「いま言ったのは“前フリ”で、本番はこっち。茨木くん、歩くってね、地面と握手するために靴に通訳頼んでることなんだよ」

確かに、靴無しで地面を直接歩くのは危ない。素足で歩けば痛い地面も、この道は固いだったり、滑りやすいから注意、ぐらいに翻訳することで世界と対話することが俺達はできる。


しばらくすると、ドアのベルがチリンと鳴り、おじさんが顔を出した。

「茨木さーん、できたよー」


受け取ったスニーカーは、つま先がしっかり貼り直されて、薄いゴムのパーツが追加されていた。めくれていたところが、むしろ頼もしそうに見える。

「おお……生まれ変わりましたね」

「またパタンしたら来な。今度は全底張り替えだ」

「ありがとうございます。大切に履きます」


店を出て、さっそく歩いてみる。さっきまでのベロン音は消え、靴底がちゃんと地面を掴んでいる感覚が戻ってきた。

「どう?」

「完璧です。世界との接続が復旧しました」

「よかった。じゃ、このまま少し遠回りして帰ろ。せっかく“再就職した靴”だし」

「そうですね。出勤初日に付き合います」


夕方のアスファルトは、もう熱くはなかった。

一歩ごとに、小さく「大丈夫」と言われているような気がして、俺はわざと歩幅を揃えてみる。

一度ベロンといった靴底も、ちゃんと直せる。

たぶん俺たちの日常も、同じだ。

そんなことを思いながら、いつもより少しだけ遠い角を曲がった。

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