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茨木くんと名雪さん  作者: 橘悠


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30/42

【退路の設計図】

期末の締切が地平線いっぱいに並び、目の前のレポートは一行も増えない。図書館の机に額だけが重たく乗っていると、名雪さんが小声で言った。


「逃げよ。ちゃんとした現実逃避、しよ」


「“ちゃんとした”というと? 具体案はありますか」


「うん、“逃避ガチャ”。紙を四つ折りにして、引いたやつだけやる。時間は一時間、帰ってきたら続き」


箱の中身は——「校内の自販機で当たりを引く」「野音で雲の名前を三つ言う」「ゲーセンで音ゲー一曲フルコンに挑む」「文房具店で新しいペンを一本だけ買う」。俺が引いたのは音ゲーだった。


「よりによって難度の高い……」


「大丈夫、“フルコン”は目標。できなくても一曲分、頭を空けるのが任務」


駅前のゲームセンターの中は薄暗くて、ネオンが水面みたいに揺れていた。スピーカーからはBPM160。知らない曲の譜面が流れ、丸いボタンが星座のように光る。俺は手を消毒して深呼吸。三十秒後、ノーツの川に溺れていた。


「うまくいった?」


「まったくです。ですが、譜面の“流れ”だけは掴めてきました」


「それで十分。現実から半歩だけ外に立つのが目的だし」


結果はフルコンどころかグレート止まり。でも、終わった瞬間、レポートの枠組みが頭に戻ってくる。音の粒が、段落の粒に置き換わる感触。まだまだ、頭は切り替わってくれない。


駅前から大学に戻り、広場である野音へ。ここは周り高い建物がないので空がよく見える。


「次は私の番。“雲の名前を三つ”。——あ、飛行機雲! あれは、積雲かな? うーーん、あとひとつが見つからない」


ちなみに積雲は、いわゆるわた雲で一番よく見る雲だ。右に左に雲を探して動いているといると頭も一緒にほぐれてくる感じがする。


「あの、あたりどうです?」


「お、巻雲だね。これで3つ。ほら、逃避も目的があれば"意味のある休憩"になる」


図書館に帰る途中、名雪さんがぽつりと言った。


「“現実逃避”って、悪い言葉に聞こえるけど、私のは“退路の確認”に近いんだよね。『フリーレン』でさ、旅の途中で寄り道するみたいに、歩ける道をもう一本持っておく感じ」


「理解できます。レイドボスに挑む前に、セーブポイントを置く行為と同義です」


「そう、それ。逃げ道が見えてると、逆に前を向ける」


席に戻る。俺は見出しを二つ増やし、論点をカードに分解した。指先がさっきのボタンの位置を覚えていて、段落がリズムで並ぶ。名雪さんは、図を清書している。インクが紙の上で小さな川を作り、迷路の出口みたいにつながった。


「ね、もう一回だけガチャ引こう。最後の一枚は“スイカゲーム一戦”」


「いいですけど、十分だけ、ですよ」


スマホを横にして、果物を重ねる。山を築いて、崩れて、笑って、終わる。時間はちゃんと進んで、逃避はきちんと終わった。机の上の現実は少しだけ軽くなっていた。

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