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茨木くんと名雪さん  作者: 橘悠


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【湯気の奥にある合図】

昼の学食は、いつもより香ばしかった。今日の限定メニューに「豚みそ丼」と掲げられ、行列の先頭で味噌の湯気がぼわりと膨らむ。味の粒子が、ベルトコンベアみたいに鼻へ流れてくる。


「これだ、これ。たぶん“麦味噌ベース+甘口”の匂い」

 名雪さんがトレーを抱えて小踊りする。

「赤だしの雰囲気もありますが、香りは軽いですね」

「茨木くん、学食の実況がプロすぎる。——小鉢、半熟卵つけよ。豚みそに卵は“確定演出”」


席につくと、丼の中央に置かれた白いごはんが、茶色いみそだれを受け止めている。端には刻みネギ、すみに一欠片の柚子皮。

「演出、細かいですね。柚子は後半に回すと味が綺麗に切り替わります」

「わかる。——まずは素で一口」


名雪さんが箸を入れる。豚バラがみそを抱いて、つやりとほどけた。

「……うま。甘いのに、最後だけ塩が締めてくる。米が“おかわりの準備いい?”って誘ってくる」

「みその水分を飛ばしきらず、艶を残す匙加減が見事です」


「混ぜる? 混ぜない?」

「“一口目は素で、二口目で混ぜる”派です。味の変化を記録しておきたいので」

「研究ノートか。じゃあ私も追従」


丼の上で、米と豚とネギが出会う。みそだれは粘度低め、米粒に薄い膜をつくって、噛むたびに香りが立つ。

「——卵、投入」

「少しだけ崩して、黄身を“川”にします。流路ができると、塩味の角が丸くなりますから」

「はい出た学術用語。“流路”って言った瞬間、食べ物が理論に昇格した」


黄身が広がると、丼は急に優しくなる。甘さとコクが“仲直り”して、湯気が甘い。

「この瞬間、『衛宮さんち』みたいな幸福値が来る」

「あれ、読んでるとすぐその料理食べたくなりますよね。——柚子、いきますか」

「終盤のジョーカーいこう」


刻んだ柚子をひとつまみ。ふっと香りが跳ね、味噌の奥に小さな光が差す。

「うん、世界が少しだけ明るくなるね。——ねえ、豚みそ丼って“合図の料理”だと思う」

「合図、ですか」

「お腹すいた、ってサインを受け取って“はいどうぞ”って返す感じ。みその匂いって、返事の速さが気持ちいい」


「確かに。味噌は“待たせない旨味”です。だしで整え、糖と塩で即座に納得させる」

「その即答が、今の私に刺さる。課題に追われてると、食事も“タブ開きっぱなし”みたいになりがちで」

「昼食が思いつかないとき、だいたい失敗しますよね。今日は、大成功ですね。消化のログまで残します」

「ログ……ご飯にログ刻む男、嫌いじゃない」


「——完食。丼が“今を終わらせた”って顔してる」

「丼の底が見えるのは、読了と同じ満足がありますね」


湯飲みの緑茶をすすぎながら、名雪さんがふと笑う。

「私、次にへこたれたら、またこれ食べに来る。みそは“再起動の味”。」

「次は七味を少しだけ足して、難易度を上げても楽しいかもしれません」

「すぐゲーム化する——でも賛成。周回プレイは大事」


返却口へ向かう途中、厨房からまた湯気があがった。昼の喧騒に混ざって、甘い匂いが合図みたいに届く。

「ね、茨木くん」

「はい」

「この丼、二人で食べると、湯気がちょっとだけハート形に見えるね」

「科学的検証は難しいですが、感覚としては同意します」


俺たちは笑って、空になった丼を重ねた。味の合図は確かに受け取った。次に少し疲れたときも、ここへ戻ればいい。湯気の奥にある合図は、いつでも同じ速さで、俺たちに返事をくれる。

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