【モノローグの温度計】
放課後の喫茶店。カップに落ちる一滴の音が、やけに文学的に聞こえる。
名雪さんがノートを開き、表紙に黒ペンで大きく書いた。
「本日の議題。“佐藤友哉ごっこ”。——暗い独白で笑わせる、あれをやる」
「初期の感じですね。面白そうです。俺は『飛ぶ教室』が好きですが。構成案は?」
「三段ロケットでいく。①最初にちょっと嘘をつく、②但し書きで急に正直になる、③それを台無しにする軽口。……で、事件は起こさない。起こりそうな気配だけ撒く」
「温度管理が難度高いですね。では。やってみましょう」
名雪さんの一行目——『今日は図書館が二駅ぶん遠い。』
ふむ、なかなかの入りだ。一体なぜ二駅遠い図書館に向かっているのか
二行目、“単に、定期を忘れて歩いているだけだ"。
続けて、“でも遠回りは悪くない。知らないパン屋の匂いで、脳が先に到着する。”と、軽口で着地。
「うまいです。嘘→訂正→ユーモア、の波形が綺麗に出てます」
“佐藤友哉ごっこ”は、嘘を嫌わない。むしろ嘘を先に置いて、そこへ正直を呼び寄せる。
ふたりはページの端に“温度計”の絵を描き、段落ごとに目盛りを上下した。
ときどき意地悪な比喩を混ぜ、次の行でそれを自分で笑い飛ばす。
ファウスト世代の語彙を借りつつ、声の主はあくまで今の自分たちだ。
「ねぇ、事件は起きないのに、ちょっとだけドキドキする。これが“予感の演出”か」
「はい。読者の視線が前につんのめります。——では終盤、“あとがきのような一文”で締めてみましょう」
名雪さんは、ひと呼吸置いて書いた。
『私たちは悪夢を食べる貘を持っている。昼間の不機嫌を食べる文章も、たぶん飼える。』
「素敵です。読後に肩が下がります」
「茨木くんも一本、最後に」
俺は少し考え、ペン先を少し立てて、ゆっくり書いた。
『きみが笑うと、独白の余白が増える。だから今日の嘘は、ちゃんと軽い。』
沈黙が、いい感じの行間になった。
店を出ると、夕立あとの湿度がまだ残っている。
帰り道、名雪さんがノートを抱えたまま言う。
「“暗い独白で笑わせる”って、ほんとはやさしさの技術だね。自分の機嫌を自分で持つ、みたいな」
「同意します。先輩の一行目が嘘でも、最後の笑いは本当でした」
「じゃ、このノート、棚に入れよう。“独白の温度計”」
信号待ち、湿ったアスファルトがにぶく光る。
ふたりで並んだ影が少し伸びて、ページの余白みたいに歩道を広げた。
どこにも事件は起きない。
でも、起こりそうな気配だけは、ちゃんと肩のあたりでリズムを刻んでいた。
■ 佐藤友哉
作者が学生自体にハマっていた小説家。「鏡姉妹の飛ぶ教室」がオススメ。