私
目を開いたわたしが初めに感じたのは体の重苦しさだった。
熱っぽさとだるさで思うように体が思うように動かず、寝る位置を変えようと寝返りをうつだけで、息をするのも億劫になる。それでもさすがにしないのもしないで寝づらいのでと右半身を左半身側へと移動したら、実質的にソファの背と向かい合う格好になってしまい、余計に寝づらくなった。
頭の上のほうで結っていたはずの髪がいつのまにか解かれている。
すっ
すっ
音をできる限りたてないように教育された静かな足音が耳に入り込んできた。わたしがたてるがさつな足音よりもよっぽど整った音だ。
寝返りをうった音に気づいたのか、はたまた違う理由なのか。実際のところそんなことなどどうでもいいが、聞き慣れた足音が近づいてきたことだけは確かだ。
「やっと目覚めたか?」
「……」
絶対に気づかれているとわかっていても起きるのが面倒だから寝たふりをする。それがわたしクオリティ。
「とりあえず起きろ」
「……」
それがわたしクオリティ。
「起きてんだろ?」
「……」
寝てます。
「そろそろ起きねえと髪ひっぱるぞ」
「……」
すいませーん。この人が病人をいじめてきまーす。
「いや、まだいじめてねえし」
「その口ぶりからするといじめる予定があるように聞こえるのは気のせい?」
「やっぱり起きてんじゃねえか」
のっそりと顔をあげると目が合った。私が少し見ぬまに立派な男子高校生の目になっている。そういや、彼の目をじっくりと見つめるのは小学校の卒業式以来だ。それ以降は進学先から違っていたから見つめることなど無きに等しかった。
腕組みをしたままこちらを見つめる彼はよく見てみればまだ制服姿のままである。
……?
「少し質問してもいいかな」
「なんだよ」
「どうしてわたしは君の部屋にいる? そしてなぜわたしはここに寝かされている?あと、なぜ制服を脱いでいない?」
見つめ合っている彼の目が若干細くなり、表情がだんだん怒りの表情へと変化してきた。
「お前な……どうしたもこうしたもねえよ。まさか覚えてないのか?」
「覚えてない」
「本当に覚えてないのか?お前、海にいただろ!?」
「覚えてるのは海に行ったところまで。後は覚えてない」
これは半分が嘘で半分が事実だ。もちろん自分が海に行ったことや…………その後の行動も覚えている。もちろん、死にかけたわたしを彼が助けてくれた事も。鮮明に覚えている。
だが、きっとそれを覚えていると言ったら間違いなく「その後の行動の理由」を聞かれるに。……それだけは絶対に言いたくない。
何も言えないわたしは口をつぐみ、言うべきことに迷う彼も口を開かない。
慣れない沈黙が二人の間の空気を覆う中、まだ納得しきれていない表情の彼が先に口を開いた。
「まあ、それは後回しでいい。それよりも、お前のその格好はなんだよ。お前、セーラー服の学校に行ったんじゃなかったのか?なんでこっちに戻ってきてるんだよ」
「……そっちにも噂はまわってるはずだけど」
さっきからわたしの視界に映っているこの制服はわたしが現在通う高校の男子制服で間違いない。
ということなら、あることないことで彩られた馬鹿みたいなわたしの噂も間違いなく彼の耳に入っている。
「あんなくだらん噂はどうでもいい。俺は真実が知りたい。助けてやった礼に真実を全部話せ。……あんなに頑張って勉強してたお前がこっちに戻ってきたんだ。それなりの理由があるんだろ?」
「わかったような口きくな。それよりも……噂の内容が知りたいんだけど」
さっきまで見つめあって一度もそらさなかった目が今初めて彼のほうからそらされた。両手の拳をきつく握り締めてうつむく彼からは悲しさにあふれた空気がにじみでている。
「俺は……俺だって、噂をすべて聞いたわけじゃあない。実を言えば、噂が流れているのはちょくちょく耳にしてたが、実際に聞かされたのは今日が初めてなんだよ」
「前置きはいい。内容を単刀直入に言って。内容がなんであれ張本人はわたしだ。わたしがそれを知る権利だってある」
改めてこちらを向いた彼の目はやはりどこか悲しげだ。
「転校生がいるって初めに言われたんだ……。みんなとは……全然違う中学から来た女で、めちゃめちゃみんなよりできるって。だけど、その転校理由がヤバすぎるって話で。その理由が……教師と援助交際して追い出されたってやつで……。でも、俺そんなやつがこんなド田舎に帰ってくるわけがねえって思ったんだよ。それで突きつめた先がお前で……」
「今日……って……」
聞かされたのが今日ということは、私のことをよく知っている彼がこの時期になるまでわたしがいることに気づかなかったのも無理はない。
今日聞かされた……。今日……いや、今さっきのあれは……。だが、そうだとしても話がとおりすぎてはいないだろうか。
彼が噂を聞かされたのは今日。噂の人物とわたしが彼の中で合致したのはおそらく穂の同時だろう。
そして、今日あの行動をしたのも今日……。そのまえに、アレを聞かされたのが今日であるからしてあの行動になったのだ。
「とりあえず……俺は聞かれたことすべてお前に話した。次はお前のばんだ」
わたしがなにかあったとわかっていながら封じ込めていた過去をわざわざ掘り返そうとするやつなんぞにこんなこと話してたまるものか。
「話すまで家から一歩も出さねえぞ。というか無理だろ」
「だったら無理矢理でも出ていくまでだ」
掛けられていたタオルケットを勢いよくはいで立ち上がりかけた……が、虚しいことに熱がでていることをすっかり忘れていた
。
立つと同時に活動してたはずの頭が急に真っ白になり、前後に大きくよろめいた身体は頭からフローリングに向かって弧を描き――
すんでのところで受け止められた。
「ほら言わんこっちゃない」
「うる……さいっ……」
「もう逃げられないことはよくわかったろ?このままの体勢でいいから話せ」
いいわけあるか!と言ってやりたい気持ちは山々なのだが、そうしようにも身体が心と比例してくれず、立ち上がる気力がどこにも残っていない。
本音を言ってしまえば楽だったりする。この……上半身を後ろから抱かれている体勢。
そういや、たしか彼との出会いは小学六年生のときだ。
小学六年生のときのわたしは中学受験を目下に控えていて、専ら朝から夕まで勉強に明け暮れていた。もちろん幼きわたしはそんな毎日に耐えられるはずもなく精神的にも行動的にも荒れ狂っていたのを覚えている。
そんな荒れているわたしに近づくものなんぞ普通に考えれば男女問わずいるわけがない。だが、皆が蔑む目でわたしを見る中で彼だけはどんなに荒れ狂う日も普通に接してくれていた。彼のおかげで私立中学に合格したといってもあながち間違いではない。
そう、今のこの状況、あのころと全然変わっていない。ああ当たり前だが、この体勢という意味ではなく、状況的な意味でだ。
怒りと少々の呆れを交えながら開きかけた口につんっとに突き刺さるようなにおいが入りこんでくる。常人なら誰もが口をそろえて「焦げくさい」というに違いないこのにおい。わたしは、このにおいをあまり好きになれない。このにおいを好む人間といったら極度のヘビースモーカー以外に思い当たらないが、さて未成年のみが集うわたしのクラスにもそういう人間はいるだろうか。ああ、もちろん煙草を吸う人間かどうかではなく、このにおいを好むかどうかだ。もしいるのであれば是非とも一度お目にかかってこのにおいの良さを聞いてみたいものだ。
ぴりっとしたような独特の生臭さが混じる焦げ臭さはたんぱく質特有のものだと、まだ両親とも日本にいた中学生時代に聞いた覚えがある。数少ない両親との思い出がこんなものぐらいしかないなんて、考えるだけでため息が出る。振り返れば、わたしが物心つく前から自分の命以上に大切だと言っていたほど娘命だったはずの両親。
中学二年の冬、父に急遽海外転勤の命が言い渡された瞬間にすべてが変わり、それがすべての終了を示す合図だったように思える。母はついて行こうと言って聞かなかったが、私立の中高一貫校と大学に通うわたしと姉は無論日本を発つなんてことをを聞き入れる気はなかった。一度だけ開いた家族会議は母と姉の口論によって無念にも強制中断し、それ以降は母も姉も目が合うたびに睨み合い、会話などできるはずもなかった。
その三日後のこと。両親ともに忽然と姿を消すこととなる。
わたしと姉は両親に捨てられた。
二人とも自然と悲しみの感情が生まれることはなかった。
わたしも姉も「しょうがない」と思うことで開き直り、「しょうがない」とでも思うことで気持ちを奮い立たせていた。
中学三年になったわたしは中学二年間続けていた部活を思い切って辞め、放課後の時間を公立高校を受けなおすための勉強と食費のためのバイトに費やした。大学一年になった姉も同じように学校生活とバイトを両立させ、養うことはできないがせめてもと祖母が借りてくれたボロアパートで二人暮らせるできる限りのことを努力してきた。
二人で頑張ろう。そう誓い合ったのは中学三年の春。
だが、すぐにわたしの望みは断ち切られ、二度目の裏切りを経験することとなった。
姉はいつでもその可愛さや性格のよさ麗しさゆえにさまざまな年代の男から好意の目で見られてきた。十九歳という歳からして彼氏という存在ができてもおかしくはないし、姉自身が「彼女」という存在になってもおかしくはない。二人で覚悟を決めてすぐ三ヶ月のこと、姉の口からとある男の名が度々口にされるようになった。そして直後、姉は無言失踪の行動にでた。姉の口から直接聞いたわけではないが、おそらく失踪先は男の家と思われる。
もう追いかける気力さえ残っていなかった。
普通は信じられるだろうか?
中学三年といえど、心は成長しきっていない年頃のわたしにその現実はあまりにも重すぎる。できるのなら今すぐにでも平和なあのころに戻りたい。
だが、良い現実も悪い現実も人間を決して裏切りはしない。
わたしがどんなに願っても、祈れる限り存在しうるすべての神という存在に祈っても、泣いてもわめいても、誰もわたしの元に帰ってきてくれることなどなかった。
――そう、わたしは天涯孤独の身となった。
「これで中学時代のわたしの説明はすべて」
「……」
反応なし。
「ショックを受けているのか呆然としているのか知らないけど、そろそろ蚊取り線香が虫除けの役目を終えているころだと思うんだけど」
「……えっああ、おう……」
この話は彼にとって相当ショッキングな内容だったようだ。これまた随分と顔が引きつっている。先ほどからずっと、少し顔を上げて口を開きかけたかと思ったらまたうつむいて下唇を噛むの繰り返しだ。
彼の気持ちはわからなくもない。久しぶりに出会った友人が自分の知らぬ間に今のわたしのような環境になっていたら誰だって驚くはずである。もちろん、今のわたしが聞いてもなにひとつ驚かないだろうが。
「……あっその……もう何個か、質問させてくれ」
「どうぞ」
「お前は中学をきちんと卒業できたのか?いままでどこで寝泊りしてたんだ?あと……なんであんなところにいたんだよ」
「中学は、元々素行も良かったこともあってか卒業まではいさせてくれた。その間は中のいい先生が泊めてくれてたんだけど、中学卒業と同時に出てきた。そのあとはずっと、バイト先の人の家を転々としてたけど、あくまでも理由は家出だったから。あそこにいたのは……」
言いかけて口をつぐんだ。ここまではわたしを助けてくれたお礼に聞かれたことをすべて話すということで話していたが、このことまで話すのはいくらお礼といってもそう簡単に口にすることができない。
彼が聞きたいのは、わたしを助けてくれたあそこでわたしが何をしていたかということのはずだ。
言えない。
言いたくない。
言うことができない。
どんなに言葉を選んでもやはり出てくるのは「言う」という行動を「拒否」する気持ち。
だって、
「……死のうとしてたんじゃないのか?」
「なんで……?」
「じゃなきゃあんなふうに海の中になんて歩いていかない」
そう言った彼の目は涙であふれていた。
抱かれた体がぎゅうっと強く抱きしめられる
「あのころみたいに、すぐに気づいてやれればよかった……」
わたしの目からは一粒も涙は零れ落ちなかった。
二人で、なにも言わずにただただ静かにうつむいていた。
後ろから抱擁されるというのは意外にもとても心地がよく、後ろに彼がいるということで確かな安心感が生まれていた。
随分と会っていなかったのにわたしの短い説明で涙を流してくれるのはとても感謝してもしきれない。自分もそういう状況におかれてみなければわからないものを、そういう状況下にない人間にわかってもらえることの嬉しさのなんたることか。
さっきも言ったが、本当に心地よかった。
心地よかった。
だが、わたしが読んだことのある本ではたいてい心地よい時間というものは決まって誰かしらの手によって乱されてしまっていた。
それは現実世界でももちろんありうることだが……
ぴん、ぽ~ん……
ほらね。
初めにびくっと反応したのは後ろの人間で、音を認識した瞬間に即座にわたしの身体から飛びのいた。わたしの身体が支えをなくしたのは物理法則に乗っ取れば言わずもがなな話であり、それを認識したのは背中からフローリングへ短時間ダイブした後のこと。平たく言えば、背中というより頭とフローリングが正面衝突まがいのことをした。
「いったああああぁぁぁぁ!!!!」
「すまん!気がつかなかった!!」
後ろを振り向くと顔を紅潮させて口をぱくぱくする中村が逃げの体制をとっていた。
頭が固いものに勢いよく当たると半端じゃないほどに痛いことをよく知っておいていただきたい。まるで、頭だけが超高速ジェットコースターで垂直落下したあとのような痛さだ。
頭を押さえて痛がるわたしをよそに中村はドアのほうへ小走りに向かっていった。もし熱がでていなかったらいますぐあいつにヘッドロックをかましているところである。小学生のころのわたしなら間違いなくランドセルを背中に投げつけていただろう。
衝突した格好のままかたまるのもそろそろ嫌になって上半身を上げた。
そして初めて気がついた。よく考えてみれば当たり前だが、わたしは中村が住む家に連れてこられていたらしい。周りを見渡す限りわかるのは、とてつもなくぼろぼろなアパートということと、生活感のあまりない小さな部屋であること。
なぜだかわからないが、来たことなど一度もないこの家に既視観をおぼえた。
既視感の正体がつかめぬままドアが開かれた。
「どうもっ毎度ご利用いただきまこっとにありがどうございます。今日もニコニコ現金商売。お呼びであれば地球のかなたのどこへでもあなたの幸せ運びます。たんぽぽ宅配速達便です」
キャッチフレーズが異様だ……。そして異常に長い……。
……じゃなかった。
「一体なにが来たんだ?」
「現金」
「は?」
「だから金だよ」
「はあ?……誰から?」
「蒸発未遂の兄から。最近就職したらしくて、給料の一部を送ってくれるんだよ」
「おこづかい?」
「違う」
「じゃあなに?」
「生活費だよ」
……頭が理解するのを非常に拒んでいる。いや、というか理解したくない。
「親はどこにいるの?」
「兄貴と一緒で蒸発した」
……なんかどこかで聞いたような展開だな
「じゃあ、その現金の送り主は?」
「ん?女引き連れてこの前どっかに行ったけどとりあえず生活費のみはこうやってして送ってくれるんだよ。どこにいるのかまでは知らねえけどな。一時期知らねえ女がここで寝泊りしてたから気持ち悪いのなんの。出て行ってくれて助かったぜ」
「……」
ちょっと待て……。ちょっと以上に待て……。
彼は親が二人ともども蒸発したと言った。そして兄も出て行った……。
「あんた、もしかして独り……?」
「おう」
口にした言葉とはまったく釣りあわない笑顔で返事した彼はどことなく嬉しそうだ。ただ、やはり寂しさはないわけじゃあない。そういう表情をしている。
彼があんなにまるで自分のことのように泣いてくれた意味がよくわかった。つまり、言葉どおり自分のことだったというわけだ。
前言撤回をする。さっきわたしは自分と同じような状況に置かれた人間を見ても別段驚かないと言った。嘘だ。今まさに驚いている。綺麗な蝶だと思って近づいたらそれが実は蛾だったというくらいに驚いている。
「なんでそれを先に言わなかった……」
「俺だってまさか自分と同じ状況にお前が置かれてるとは思わなかったんだよ」
そりゃあそうだ。わたしだって君がわたしとまったく同じ状況にあるなんて思いもしなかったさ。だからこんなに驚いてるんだ。
信じられない事実だったが、わたし一人だけの状況ではないことにほっとした。ほっとしたら力が抜けた。ついでに腰やら肩やら一気に抜けてしまいそうだ。すると、さっきまで熱が出ているのも気にせずに動いていたはずの身体が急に鉛のように重くなった。
「なんか、今のわたしは拍子抜けという言葉が世界一似合っていると思う」
「まあいいじゃねえか、似たもの同士は結局のところどこまでも似ちまうって事にしとこ
うぜ」
わたしにとってはもしミクロ単位まで小さくなることが可能なら脳の海馬まで行って伝道ドリルで切除してしまいたい思い出を彼は懐かしみながら嬉しそうにた表情で語る。
似たもの同士。そういやそんなことを小学校時代に言われていたような気がしなくもない。だが、あくまでもそんなことを言っていたのはわたしと彼を「変人」扱いしている“男子”くらいのもので、女子ももちろんわたしのことも彼のことも“変人”扱いしてることに変わりはなかったが……
「女の子を何人も一目惚れさせてきた君に言われたくない。少なくとも外見だけはよろしいからね。内面は……わたしは好きだけど、みんなに変人と呼ばれるだけの変な要素があるのかもね。わたしは君みたいな優しくて純粋な性格にすごく憧れる。だけど、どこを見ても君とわたしは似たもの同士なんかじゃあないな」
せっかく和やかになった空気をわたしが崩壊させたからなのかなんなのかわからないが、話している途中にぱあっと顔を輝かせたかと思ったら直後に顔をムスッとさせた。そんなに気に障るようなことを口にした覚えはないのだが。
腕組みをして数秒考えこんだあとにむすっとした面持ちを崩さずに口を開いた。
「確かに似てないのかもなっ。俺は家族の一人や二人いなくなったくらいなんかで簡単に自分の命投げださねえよ」
…………そっちに話を進めるな。
もう、ここにこれ以上いたらろくなことにならない気がすごくする。
彼はおそらくまだ気づいていないだろうが、あの行動にいたるまでの新の理由をわたしはまだ口にしていない。だが、彼は昔から察しがいい。理由を言っていないことに気づかれたら今までのわたしの意地と親友の必死の努力が水の泡となってしまう。
……それだけは絶対に避けなければ。
一瞬、涙を流す涼音の顔が頭にフラッシュバックした。目の前にはわたし。そして彼女の右手には一枚の写真が握られている。
――涼夏、なんで……なんでよ……
彼女には一言も漏らさず隠し続けていた過去をすべて知られ、気づかれ、初めてわたしの目の前でわたしによって涙が流された瞬間。
無事に中学を卒業することができたわたしは、卒業式のその日に持てる限りの荷物をもって先生の家を出て行った。いつまでも先生のご厚意に甘えてばかりじゃいられないと思ったのだ。
通っていた中学は地元から少しばかり遠いところにあったため、久しぶりに地元に戻ることへのためらいはあった。だが、ためらいよりも元同級生と遭遇することへの恐怖心が勝り、迷いに迷った末に地元を選んだ。
それなりの覚悟を決めて地元に戻ってきたわたし。今思えばよくこれだけのことを半月程度で済ませられたものだと自分で感心する。
地元高校の受験料や制服代は前々から先生に頂いていて貯金していたおこづかいでなんとか済ませることができたが、さすがに住居を借りられるようなお金なんてものは持っておらず、バイトを初めてすぐはバイト先の仲良くなった人の家に泊めてもらっていた。が、家出という理由が長く続くはずもなくどこの家も長くて四日短くて一日程度で出てきた。
結局のところ学校が始まると途端に忙しくなり、夜をバイトで埋めるだけで一日が終わるようにはなったが。
地元でもわりと授業料が安いと有名な県立に無事入学したわたしがまず最初に感じたのは周りの人間の頭の悪さと男女共に不良の多さ。バイト先で聞いた話では、全校生徒四百六十五名の中で不良でないのはわたし含め五人ほどしか存在しないらしい。考えてみれば簡単なことだが、不良なんてものがわざわざ授業料も偏差値もお高いような学校になんぞわざわざ行くはずがない。この学校の異常な授業の安さにもっと早く気づくべきだったといまさらながらに呆れる。
中学三年間を私立という頭の回る人間だけが占める女子校で過ごしたわたしには、一種のカルチャーショックのようなものに感じられた。
まず学校自体が授業に力をいれず、授業中だというのに携帯電話をいじっていても叱りすらしない。テストも明らかにカンニングしているのに注意もしない。
何度、教師もしくは生徒に向かって
「馬鹿野郎!」
と叫ぼうと思ったことか。
それと、女子より圧倒的に男子が多いこともわたしを悩ませる種の一つだった。つい最近まで女子のみの世界に身をおいていた人間が、いきなり全校生徒四百六十五名中女子が三学年すべて合わせても一クラス分にも満たない世界に飛び込んだのだ。もはやカルチャーショックどころの騒ぎではない。
こんなところで目立つとろくなことがないと影を薄くしていたわたしはその薄さに反比例するようにしてある作戦をたてていた。それが、
「馬鹿野郎ばかりのこの学校でも一人くらいは真面目な奴もいるはず!まじめなやつだったら今度の定期試験で絶対に上位にいるに違いない!題して定期試験で一位とって上位の奴と仲良くなろう大作戦」
である。
きっと、孤独の身となったわたしをあの時先生が助けてくれていなかったら、地元に戻ることもこんな作戦も実行なんてできなかった。あの行動をしてしまった後の今でも先生への感謝はわたしの心に大きく存在している。私の心が地球だとすれば、先生への感謝は三大洋とその他の海すべてを掛けあわせてもこれっぽっちも足りないくらいだ。
けれども、その感謝はわたしの奮い立たせる薬でもあり、同時にわたしの大切な親友 涼音の心を傷つける毒でもあったのだ。
定期試験が間近に控えているというのに周りの人間は一人も参考書すら開かない中で、わたしは四週間前からエンジン全開で勉強。
結果はもちろん首位。ちなみに結果発表の紙を見たときは喜びよりも驚きのほうが勝っていた。
一位 波音 涼夏
二位 神川 涼音
三位 川原 爽介
四位 中村 佑希
五位 宇野 斎
六位以下全員赤点。赤点の生徒は次の試験で氏名が載るように努力しましょう。先生も十位くらいまでは名を載せてみたいです。先生のためにも努力してください。あまり期待してませんけどねwww
……マジか。というか追試くらいしましょうよ。
ちなみに、成績が悪い生徒の名すら載せられていない順位表を目にしたのは今まで生きてきて初めてだったりする。
順位表に知ったような名がある気もしたが、なんせ二位の生徒がこの学校では珍しい女生徒ということではじけていたものだから、そっちに気づくはずもなかった。
作戦の結果を言うと、二位の生徒は意外に早く見つかったわけだが正直なところわたしにとっても涼音にとってもバツの悪いシチュエーションで出会ったように思う。
順位発表直後にこの高校でも数少ない女子手洗いへと赴いたわたしが初めに見たのは金髪の同級女子が汚い雑巾入りのバケツに水を入れているところ。その延長線上では、同じく髪の毛を金髪に染めたつもりなんだけど日本人特有の黒髪が抜け切っていない失敗作のヘアーの同級女子が涼音の首を締め上げていた。
「なにいい気になってニヤニヤしてんだよ。学年二位になったからってか。ハッ、そんなんで馬鹿みてえに喜んでんじゃねえよガキがっ」
ここで「あんた語彙力ないね」なんてツッコミを入れたら負けだろうか。もしくは、試験で餓鬼の字すら書けないような奴がよっぽどガキだと言ってやるのでもいいのだが。
だが、そのガキっぽい金髪もどきのおかげで探し物が思ったよりも早く見つかった。そこだけは感謝してやってもいいだろう。する気はさらさらないがな。あと、わたしに見つかったことを後悔するがいい。正義感、責任感は誰にも負けないと自負しているわたしにな。
トイレの敷地内にそーっと一歩踏み出す。バケツを持った女と涼音につかみかかっている女はまだこちらに気づいていない。気づいているのは前期中間試験で見事に二位を獲得した張本人のみ。
口元に右手で人差し指をたてながら一歩一歩前へと進む。
ああ、言っていなかったが、わたしは中学二年のあの事件が起こるまで柔道部員として過ごしていた。諸事情で退部してからも日々のトレーニングは欠かさずやっていた。
ちなみに、得意技は不意打ちと寝技。
ニヤリ。
深呼吸一つ。スーっハーーっ。
「ヤァーっ!!」
二人の後ろで叫び、振り返った瞬間に技かけ開始。
わたしの推測どおり不良の皆様は運動不足のようで、約二年間も部活をしていなかったわたしでも軽々と倒すことができた。寝技最高。
傍から見ていた涼音にとってはいきなりやってきた奴がいきなり戦いだして随分とおかしな光景だったと思うが、当の本人は驚きも呆れもせずむしろ笑顔だった。
顔をぱぁっと輝く笑顔にしたままわたしに近づき、衝撃の一言。
「好きです」
……
「はい……?」
出会ってすぐの会話がこれである。
もちろん丁重にお断りしたが、その後も「だったら付き合うくらい!」としつこく付きまとってきた。どんな理屈だ!と言ってやりたい。いつのまにかポジションが変わっていることに気づいたころには時すでに遅し。わたしの後ろにはいつのまにか涼音がぴったりとくっつくようになっていた。
でも、それが嫌かといわれると実はそうでもなく、いつからかわたしのほうから涼音のもとへ行くことも増え始め、わたしの後ろに涼音がいる状態からわたしの隣に涼音がいる状態へと変化した。涼音は、同性愛をしているところを除けば、この学校でわたしを含め二人しかいないといわれる、真面目な女子の一人。やっと見つけられたことへの素直な喜びもないわけではない。
教室で目立たないように近づき、周りから不審の目で見られないようにそーっと会話する。これがわたしたちの唯一の楽しみとなった。
「涼音が一番好きだ」
「わたしも涼夏大好き!」
もちろん友好的な意味でだが、そんなことも自信を持って言えるほどわたしは涼音が涼音はわたしが大好きだった。こんな学校でできたお互いを信じあえる存在。絶対になくしてはいけない存在であるのは明らかだった。
定期試験の前後くらいからわたしに関する妙な噂が学年を越えて学校全体で流れるようになった。
一年の波音 涼夏は中学時代に教師と援助交際して学校から追放された
わたしが知ったのは涼音の口から。涼音も廊下を通った時に偶然耳にしたらしい。
わたしはそんなことをした覚えなど一度もない。やったこととすれば先生の家にしばらく居候させてもらったことくらいだ。
あっちの学校の生徒はみんな物分りが良かったから、わたしがきちんと説明してもしなくても大体のことは理解してくれていた。
ここの学校の生徒は、そんな生易しいことを言ってくれるはずがない。わたしも涼音でさえも気づかぬうちに、噂がまわり、瞬く間にわたしと涼音は学校全体で標的にされた。
だとすれば、それを耳にしたこの学校の誰かがわざわざわたしに対して流したとしか考えられない。
「そんなこと……してない……」
涼音はわたしのことを疑いはしなかった。
わたしも涼音のことを信じた。だが、わたしが不可抗力で居候していたことまでは言えなかった。それだけは、涼音にでさえ言うことをわたしのなかで禁じていたのだ。
今日、昼休み。机の上に参考書を広げたわたしのところへノートの切れ端のようなものが届けられた。
神川はもうすべて知った。第一理科室にいる。来たければ来い。
紙を右手で握って第一理科室に向かったわたしの視界に涼音の姿が入る。彼女は一人だった。
彼女は手には一枚の写真。うつむいた彼女がわたしに向かってそれを見せる。
わたしと先生が抱き合う写真
姉がいなくなってすぐで心も身体も廃れきっていたわたしを先生が助けてくれた時のものだ。涙を流すわたしの頭を優しくなでて、包み込むように抱きしめてくれた。
「涼夏、なんで……なんでよ……」
「違う!それは…………そうじゃないん……だ」
「嘘つき!涼夏のうそつき!本当のこと教え……」
言葉を聞きおわらぬうちに教室から飛び出した。
背後から驚く彼女の声が聞こえた気がした。
「……帰る」
「はあ?帰るってどこにだよ」
「……帰るというか、バイトがあるから」
「バイト?小遣い稼ぎか?というか、さっきから聞こうと思っても聞けなかったんだが、まずお前、家あるのか?」
さっきからこいつは……。デリカシーなんてものはあいつの脳内辞書には存在しないのだろうか。
「……そんなものとっくにない」
「じゃあどこに帰るんだよ」
「……だからバイト先」
「……お前何のバイトやってるんだ?」
「言うの面倒」
「言え」
「ヤダ」
「言え!」
「……そんなにたいしたことやってない」
「だったらなおさら言え。もしかして人には言えない感じの――」
すかさず拳を振りかざす
「ラブホテルとか間違ってでも口走ったら本気で殴る。……銭湯の受付とコンビニと喫茶店」
ちなみに授業が終わると真っ先に図書室に行って仮眠を取り、銭湯のバイトをしてそのついでに銭湯を借り、コンビニのバイトをしてそのついでに夕飯をもらい、朝方に喫茶店でバイトをして朝飯を頂く、というのが普段の生活リズムである。
「お前から独りっぽい雰囲気がしない謎がやっと解けた……。だけど、睡眠時間はまるっきりなしか」
「……まあ、仕方がない。だけど、家がない以上そんなことでもしてないと夜の時間を潰せないから。それに、もう慣れた」
「慣れたって……でも、そんなことしてると本当に死ぬぞ」
そんないかにもな心配顔せんでも結構。約数時間前に自分で投げ出した。
両手をぎゅっと握ったからてっきり殴られるのかと思っていたら腕組みをしてなにやら考え出した。はっきり言ってしまうと、まじめなふりをしようと努力をしているのはわかるのにいまいちそう見えない受験生の男子みたいだ。
まあ、彼の場合はふりなんかではなくてきちんと何かを考えているんだろうが。ただ、なにやらわたしが一瞬で顔をしかめそうなことをのたまう気がするのは第六感の故障で合っているのか。
「……だったら。もういい、いっそのことこうしたほうがいい」
「なにが」
即座に切り返して目を合わせると彼の顔が一気に紅潮した。真っ赤としか形容できる言葉が見つからないほど顔を赤らめている。
大きく二回深呼吸すると、目をきりっとさせて真面目な表情になった。相変わらず顔は真っ赤だが。
「お前もここに住め!」
……。
一瞬、なにもない私の心にいっぱいの喜びがあふれた。
そして、一瞬でそのあたたかさは漆黒の刃と成り果て、わたしの心を突き刺している。
涼音の涙で濡れた顔が改めて思い出される。親友をあんなふうに裏切っておいて自分はここでのうのうと生活する……。
罪悪感にまみれる私の心。
「……嫌」
「嫌って……お前家ないんだろ?俺もお前も独りならいっそのこと、いっ一緒に住みゃあいいじゃねえか。それに、お前一人にしておくと何かと危なっかしいんだよ、それに、俺がせっかく助けてやったのにまた自殺まがいの事されるのは俺が嫌だ。だったらこうするのが俺にとってもお前にとっても善策だ」
早口で言うな。興奮するなっ。わたしを見るなっ!
「勝手に決めるな!わたしが死のうがなにしようがあんたに決められる筋合いなんてない!大体さっきから同情するだけして自分の過去持ち出して結局のところあんたはなにがしたいんだ。なんでここに連れてきた。なにがしたいんだ。さっきはわたしがあんたの言うことを聞いた。今度はあんたのほうががわたしの言うことを聞いていただきたい」
言い返した途端に思いきり睨まれた。
睨まれるようなことを言った覚えがない。むしろ怒りたいのはわたしのほうなのだ。
さっきもそうだ。彼がいったい何に対して怒っているのかがわからない。
恥ずかしそうに顔を赤らめていたはずが、それがいつのまにか本気の怒りへと変わっていた。
ただわかることは……
本気の怒りをわたしに向けているということ
こんなに怒っているのなんて三年前以来だ
あの時もこんなふうに怒られた
あの時はただ恐ろしさしか感じられなかった。
いまわたしが持つのは恐ろしさじゃない。
彼と同じ。怒りだ。
「勝手なんかじゃねえ!お前を助けたのは俺だ!あんとき俺が気づいてなかったら間違いなくお前は死んでた!!もう、お前のその命はお前だけのもんじゃねえんだよっ!少なくとも半分以上は俺のもんでもあるんだ!だったらその半分に値する分俺の言うとおりにしろっ!お前の生死に関わるものはすべて!」
「ふざけっ
ぴん、ぽ~ん
またもや邪魔をするのはインターフォンである。
体中で怒りを彷彿とさせた彼がいらついた手つきで扉を開けた。
「はい、どちらさ……おまっ
「すずかぁーー!!!」
扉の向こうにいたのは黒髪をツインテールにした女の子。わたしたちの高校に通っていてわたしのことを涼夏と呼び捨てにする女子なんてそうそういない。いても……一人。
靴を脱ぎ捨て、走って飛びついてきた彼女は
「……涼音?」
「そうだよそうだよ涼音だよぉっ!」
「なん……で」
「なんではこっちだってば!」
「は?」
逆にこっちの台詞だ。あの時確かに恨むような目でわたしを見つめていたはずの彼女が今ここにいる。そして抱きつかれている。
「だっていきなり出てっちゃうんだもん」
あの状況であそこにいつづけられる人はよっぽど強靭な精神力の持ち主だと言えよう。
「怒ってるんじゃ……ないのか?」
わたしのなかでは怒っていると処理されていたはずの彼女はいつもの能天気な笑顔である。
「怒るってなにを?」
「……わたしと、先生のこと……隠してて…………」
言いながらうつむく。彼女は間違いなく援助交際をしていたと思っているはずなのに、いまさら弁解したところで信じてもらえるとは到底考えられない。
「だーかぁーらー!それを教えてもらうためにわざわざああしたのに涼夏がいきなり出て行っちゃうから!」
展開についていけずにちらっと彼のほうを見ると、今にも笑い出しそうな顔をしている。
「中村、わたしの頭パンク寸前なんだけど……」
彼の含むような笑いは止まらない。
「涼夏。お前はもう少し人を信じるべきだ。そして俺も馬鹿だった」
「はあ?」
わかったような雰囲気をかもし出す二人に無性に腹が立つ。
「……全部説明しろ。二人共……!!」




