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第20話 触れなかった布

 工房に戻ると、雨の匂いは少し薄れていた。


 荷馬車組合から持ち帰った手戻し布は、作業台の上に三本並んでいる。


 小。


 中。


 大。


 小は、リサの手首に合うよう少しずつ形が落ち着いてきた。


 中は、若い御者の外側擦れを減らすため、当て布の位置をずらしている。


 大は、年配の男の甲に当たる硬さがまだ残っていた。


 今日、直すのは大サイズだった。


 ミリアはそれを両手で持ち、甲の部分を指で押した。


「ここが、まだ硬いです」


 ガルドは向かいで腕を組んでいる。


「厚みを抜くな」


「はい。抜くと、荷布を引いた時に潰れます」


「なら、どうする」


 ミリアは答えようとして、少し止まった。


 甲の硬さを減らしたい。


 でも、厚みは抜けない。


 柔らかくしたい。


 でも、弱くしてはいけない。


 手戻し布は、ただ柔らかければいいわけではない。


 荷を引く手を守る。


 濡れた縄を扱う。


 力を入れても回りすぎない。


 そのためには、硬さも必要だった。


「当たる部分だけ、肌に触れる側を変えたいです」


「何に」


「柔らかくて、でも毛が抜けにくいもの」


「あるか」


 ミリアは答えられなかった。


 工房にある端布は、どれもまだ新しい。


 新しい羊毛布は、張りがある。


 強い。


 だが、手に当たると少し硬い。


 何度も使われ、洗われ、毛が寝た布とは違う。


 ミリアは、そこで倉庫の隅を見た。


 そこには、古い羊毛布が一枚、たたまれて置かれていた。


 色は褪せている。


 端は擦り切れている。


 何度も使われた跡がある。


 けれど、雑には扱われていなかった。


 以前、ミリアが見た布だ。


 見ただけで、触れなかった布。


 指先が、ほんの少し動いた。


 だが、ミリアはすぐに目を逸らした。


 ノアはそれに気づいた。


 今回も、すぐには言わなかった。


 クラリスも、ミリアの視線の先を見る。


「あの布は?」


 ミリアの肩が小さく揺れた。


 ガルドが短く言う。


「古い羊毛布だ」


「見れば分かります」


 クラリスは静かに言った。


「でも、ミリアさんが気にしているように見えました」


 ミリアは唇を結んだ。


 しばらく黙っていた。


 ガルドも急かさない。


 ノアも帳簿を開いたまま、筆を止めている。


 工房の中に、刃物の音も、糸の音もない。


 ミリアは、ようやく小さく言った。


「うちの毛です」


 クラリスは聞き返さなかった。


 ミリアは続けた。


「あの布に、うちが出した羊の毛が入っています」


     ◇


 ミリアの実家は、布を織る家ではなかった。


 羊の毛を扱う家だった。


 春先になると、庭に刈ったばかりの毛が広げられた。


 まだ羊の体温が残っているような毛。


 脂の匂いが強い毛。


 土が絡んだ毛。


 雨の多かった年は、乾ききらない重さが指に残った。


 母は白い毛を指先でつまみ、短い毛を別の籠へ移した。


 父は袋の口を開け、長い毛を奥へ、硬い毛を横へ分けた。


 ミリアはその横で、落ちた毛を拾っていた。


 柔らかい毛ばかりが良いわけではない。


 父はそう言ったことがある。


 柔らかい毛には柔らかい毛の場所がある。


 硬い毛には硬い毛の場所がある。


 短い毛も、混ぜ方を間違えなければ、使えないわけではない。


 ミリアは、それを当たり前のこととして覚えていた。


 だが、商人の前では違った。


 白さ。


 長さ。


 手触り。


 脂の残り。


 混じりもの。


 そこで値段が決まる。


 その年の毛は、高くならなかった。


「雨が多かったんです」


 ミリアは言った。


「乾きも悪くて、脂も残って、色も少し弱くて。短い毛も混じっていました」


 クラリスは静かに聞いていた。


 ガルドは、作業台の手戻し布を見ている。


「だから、高くはならないって、分かっていました」


 ミリアはそこで一度止まった。


 それから、もう一度言った。


「分かっていたんです」


 自分へ言い聞かせるような声だった。


「でも、悪い毛ではありませんでした。柔らかい布には向かないかもしれません。でも、弾力はありました。力がかかる場所なら、使える毛でした。硬さにも、使い道はあると思っていました」


 ミリアの声が、少し揺れた。


「でも、商人には、安い毛だと言われました」


 クラリスの胸が痛んだ。


 安い毛。


 その言葉は、ただの評価ではない。


 家族の仕事が、そう言われたということだ。


「父は、何も言えませんでした」


 ミリアは手戻し布を見つめた。


「母も、袋をもう一度開けて、短い毛を除こうとしました。でも、商人は、もういいと言いました。これ以上手をかけても値段は変わらないって」


 これ以上手をかけても、値段は変わらない。


 クラリスは、その言葉をすぐには受け止められなかった。


 仕事を止める言葉だと思った。


 もっと良くしようとする手を、止める言葉。


「その毛の一部が、ここに来て、布になりました」


 ミリアは倉庫の隅の古い羊毛布を見る。


「でも、売り物にはならなかったそうです。色が悪い。端が弱い。手触りが均一じゃない。そう言われて」


「だから、触れなかったのですか」


 クラリスが聞くと、ミリアは少しだけ頷いた。


「見るのは平気でした」


 嘘ではなかった。


 でも、本当の全部でもなかった。


「いえ、平気ではなかったです。でも、見ることはできました」


 ミリアは息を吸う。


「触ると、分かってしまうから」


「何が?」


「うちの毛が、悪くなかったことです」


 工房の空気が、少しだけ重くなった。


 ミリアは、目を伏せる。


「安く見られた理由があるのは、分かっていました。硬かった。色も弱かった。短い毛も混じっていました」


 そこまでは静かだった。


 だが、次の言葉で声が揺れた。


「でも、安い理由だけで終わるのが、嫌でした」


 ミリアの指が、手戻し布の端を握る。


「悪くなかったなら、どうしてあんなに安いだけの毛みたいに言われたのか、分からなくなります。父と母が黙っていたことも、私が何も言えなかったことも、全部、悔しくなります」


 声は大きくない。


 だが、押さえていたものが、少しずつこぼれていた。


「だから、触りませんでした」


     ◇


 ガルドが、倉庫の隅へ歩いた。


 古い羊毛布を手に取る。


 雑には扱わない。


 両手で持ち、作業台へ置いた。


 ミリアの指が、無意識に引いた。


 ガルドは布を広げた。


 色は良くない。


 全体に少し灰がかっている。


 端は擦り切れている。


 中央は、何度も使われて毛が寝ていた。


 ところどころ、硬い繊維が残っている。


 だが、手で押すと、沈み方に癖がある。


 新しい布にはない、使われた柔らかさがあった。


「売り物にはならなかった」


 ガルドは言った。


 ミリアの顔が少し強張る。


「はい」


「だが、使えた」


 ミリアは顔を上げた。


 ガルドは布の中央を押す。


「端は弱い。色も悪い。均一じゃねえ。まともな値では売れん」


「……はい」


「だが、膝掛けにした。荷を包む内布にも使った。寒い朝に、ここの連中が肩に掛けたこともある」


 ミリアは布を見る。


 何度も使われた跡。


 雑には扱われていなかった理由。


 売れなかったから、捨てられたわけではない。


 売り物ではなかったが、使われていた。


「捨てなかったんですか」


「捨てる理由がなかった」


 ガルドは当たり前のように言った。


「売れねえものと、使えねえものは違う」


 ミリアの目が、少し赤くなった。


 クラリスは、その言葉を胸の中で受けた。


 売れないものと、使えないものは違う。


 分かっていたつもりだった。


 でも、完成した布だけを見ていた時、自分はそこまで見ていなかった。


 原毛がどう選ばれたのか。


 誰が洗ったのか。


 誰が短い毛を除こうとしたのか。


 どの手間が、値段の前で止まったのか。


 そこまでは、見ていなかった。


 ノアの目に、淡い表示が浮かんだ。


【損益眼】

【古い羊毛布】

【販売価値:低】

【原毛評価:低】

【評価要因:硬さ/色の弱さ/短毛混在/脂残り】

【使用履歴価値:高】

【摩耗情報:有効】

【手触り情報:有効】

【推奨用途:甲当たり確認/摩擦緩衝位置の参考】

【注意:切断転用は非推奨】


 ノアは表示を見て、少しだけ目を細めた。


「これは、切る布ではありません」


 ガルドが鼻を鳴らす。


「分かってる」


 ミリアがノアを見る。


「切らないんですか」


「はい」


 ノアは古い羊毛布を指した。


「これは、材料ではありません」


 少し間を置く。


「記録です」


「記録……」


「どこが擦り切れたか。どこが柔らかく残ったか。どこに硬い毛が残ったか。何度も使われた後、どこが手に優しくなったか」


 ノアは静かに言った。


「売れ残りではありません。使われた記録です」


 ミリアの口元が、わずかに震えた。


 その言葉を、ずっと待っていたようにも見えた。


 でも、聞くのが怖かったようにも見えた。


     ◇


 ミリアは、まだ布に触れていなかった。


 古い羊毛布は、作業台の上にある。


 すぐ手が届く。


 だが、指先は布の手前で止まっている。


 クラリスは声をかけようとして、やめた。


 これは、急かすものではない。


 ガルドも黙っている。


 ノアも何も言わない。


 工房の外で、荷馬車の音が遠く鳴った。


 ミリアは、ゆっくりと手を伸ばした。


 指先が、古い羊毛布に触れる。


 その瞬間、彼女の肩が小さく揺れた。


 布は冷たくなかった。


 硬くもなかった。


 古い。


 色も悪い。


 端も弱い。


 けれど、中央は柔らかかった。


 何度も誰かの膝や肩に触れた柔らかさ。


 洗われ、乾かされ、畳まれ、また使われた布の柔らかさ。


 ミリアは、手のひらで布を撫でた。


「……残ってる」


 小さな声だった。


 クラリスは聞き逃さなかった。


「何が?」


「毛が」


 ミリアは布を押す。


「うちの毛、残ってます」


 涙はこぼれていない。


 でも、声は揺れていた。


「硬いところもあります。でも、ここは柔らかい。ここは潰れてない。ここは、毛が寝て、手に当たっても痛くない」


 ミリアは布の中央を何度も撫でた。


「悪くなかった」


 誰に言うでもなく、そう言った。


「うちの毛、悪くなかったです」


 クラリスは、喉の奥が詰まるのを感じた。


 ここで謝るのは違う。


 ミリアの家の毛に値段をつけたのは、クラリスではない。


 硬い。


 色が弱い。


 短い毛が混じっている。


 その理由で低く見られた原毛を、クラリスが直接買い叩いたわけではない。


 けれど、領主代行として見ていなかったものはある。


「ミリアさん」


「はい」


「私は、その毛に値段をつけた人間ではありません」


 ミリアは少しだけ顔を上げた。


「はい」


 クラリスは、そこで言葉に詰まった。


 何を言っても、きれいにまとまりすぎる気がした。


 原毛の価値まで見ます。


 完成品だけでは足りません。


 そんな言葉は、正しい。


 だが、今すぐ言うには軽い。


 ミリアの家で止まった手間を、自分は今初めて聞いたばかりなのだ。


 クラリスは、古い羊毛布を見た。


「……私は、布になった後ばかり見ていました」


 それだけ言った。


 ミリアは何も言わなかった。


 ノアも、すぐには補わない。


 クラリスは続けた。


「この布の前に、毛を洗った人がいた。選んだ人がいた。もう一度袋を開けようとした人がいた」


 声が少し硬くなる。


「そこを、見ていませんでした」


 ミリアは布に触れたまま、静かに言った。


「クラリス様のせいだとは、思っていません」


 クラリスは黙って聞いた。


「でも、安い理由だけで終わるのが、嫌でした」


 その言葉は、静かだった。


 静かだからこそ、刺さった。


 硬い。


 色が弱い。


 短い毛が混じっている。


 だから安い。


 そこで話が終わる。


 そこに残っていた弾力も、使える場所も、家族の手間も、誰にも見られない。


「誰かが悪いって言えたら、まだ楽だったと思います」


 ミリアは言った。


「でも、理由があるから仕方ないって言われると、何も言えなくなります」


 クラリスは唇を結んだ。


 それは、値段の怖さだった。


 理由があれば、人は納得させられる。


 だが、理由があることと、価値がないことは違う。


 ノアが静かに言った。


「原毛は、布になる前に一度値段をつけられます」


 クラリスは頷いた。


「白さ、長さ、脂、汚れ、硬さ、混ざりもの」


 ミリアが、小さく続けた。


「そこで、うちの毛は高くなりませんでした」


 ノアは頷く。


「はい」


 ミリアは布の中央を撫でた。


「でも、この毛は、ここで残っています」


「はい」


「高くならなかった毛です。でも、使えない毛ではありませんでした」


「はい」


 クラリスは、そのやり取りを聞いていた。


 ノアが説明するのではない。


 ミリアが、自分の手で確かめている。


 クラリスは、ようやく言った。


「安い理由だけで終わらせないようにします」


 それは約束というには、まだ小さい。


 宣言というには、まだ弱い。


 だが、今のクラリスが言える、一番正直な言葉だった。


「どこなら使えるのか。何に向いているのか。そこまで見るようにします」


 ミリアは、ほんの少しだけ頷いた。


「はい」


     ◇


 ミリアは古い羊毛布の中央に、手戻し布の大サイズを重ねた。


 年配の男が痛いと言った甲の位置。


 そこに、古い羊毛布の柔らかく残った部分を当てる。


 切るのではない。


 重ねて、触り方を見る。


 布の毛が、どの方向に寝ているか。


 手を曲げた時、どのくらい逃げるか。


 硬い繊維がどこに残るか。


 ミリアは、指で確かめていく。


 さっきまでの揺れは、まだ消えていない。


 でも、手は動いていた。


「甲の当たりは、厚みではなくて、毛の向きかもしれません」


 ミリアが言った。


 ガルドの目が少し鋭くなる。


「続けろ」


「新しい布は、毛が立っていて、押すと戻ります。でも、ここは寝ています。手に沿って逃げる。厚みはあるのに、当たりが弱いです」


「つまり?」


「内側に当てる布は、厚さより毛の向きを見ます。硬さを抜くのではなく、当たる方向を変えたいです」


 ガルドは黙って聞いていた。


「やれるか」


「試します」


「試すじゃねえ。どこを触る」


 ミリアは手戻し布を指した。


「甲の中央はそのまま。端の内側だけ、毛の寝る方向を手首側へ向けます。擦れた時に、逆毛にならないように」


 ガルドは少しだけ手を伸ばし、自分でも古い羊毛布を押した。


 それから、手戻し布の大サイズを押す。


「違うな」


「はい」


「だが、濡れたら分からん」


 ミリアの顔が少し引き締まる。


「はい」


「今日は、乾いた時の当たりだけだ」


「はい」


「雨の日に、もう一度見る」


「はい」


 ミリアは頷いた。


 そこで終わりではない。


 成功でもない。


 でも、前には進んだ。


「やれ」


 ガルドが言った。


 ミリアは顔を上げる。


「はい」


 その返事は、今までより少しだけ強かった。


     ◇


 ノアは帳簿に新しい項目を書いた。


【古い羊毛布】

【扱い:保管見本】

【用途:摩耗確認/手触り確認/毛向き確認】

【切断:禁止】

【由来:ミリア家原毛】

【価値:使用履歴価値】


 ミリアがそれを見た。


「由来まで書くんですか」


「必要です」


「でも、うちの毛は……」


 そこまで言って、ミリアは止まった。


 以前なら、安く見られた毛です、と続けていたかもしれない。


 だが、今は違った。


 ミリアは古い羊毛布に手を置く。


「うちの毛です」


 短く、そう言い直した。


 ノアは頷いた。


「はい」


「高くは見られなかった毛です。でも、それだけじゃありません」


「はい」


「使われた毛です」


「はい」


 クラリスは、そのやり取りを静かに聞いていた。


 ミリアの声はまだ震えていた。


 だが、折れてはいなかった。


「ノアさん」


「はい」


「この布、倉庫の隅じゃなくてもいいですか」


 ノアは答えず、クラリスを見る。


 判断は、クラリスのものだった。


 クラリスはミリアに聞いた。


「どこに置きたいですか」


 ミリアは少し迷った。


 作業台の上。


 それは、日々の仕事の邪魔になる。


 棚の奥。


 それでは、また隠れる。


 ミリアは工房の壁際を見た。


 布見本や糸束が掛けられている場所。


「見本の棚に」


 小さな声だった。


「でも、一番前ではなくていいです。使う時に取れる場所に」


 クラリスは頷いた。


「そうしましょう」


 ガルドが無言で釘を一本取った。


 壁際の見本棚に、古い羊毛布を置くための木板を足す。


 大げさな台ではない。


 ただ、倉庫の隅ではない。


 見ようと思えば見える。


 必要ならすぐ取れる。


 そういう場所だった。


 ミリアは古い羊毛布を両手で持った。


 今度は、ためらわなかった。


 布を棚に置く。


 端を整える。


 少しだけ、指で撫でる。


「ここで」


 ミリアが言った。


「はい」


 クラリスは答えた。


     ◇


 夕方、荷馬車組合へ戻る前に、ミリアは大サイズの手戻し布を仕上げた。


 甲の内側の当たりは、前より柔らかい。


 厚みは残っている。


 毛の向きを変えただけで、手に沿う感触が違っていた。


 ガルドはそれを自分の手に巻き、荷布代わりの重い布束を引いた。


「悪くねえ」


 ミリアは息を止めた。


「本当ですか」


「乾いてる時はな」


 ミリアの顔が少し引き締まる。


「はい」


「濡れたら分からん」


「はい」


「戻ってきたら、また見る」


「はい」


 ガルドは手戻し布を外し、ミリアへ渡した。


「持っていけ」


 ミリアは受け取った。


 その手つきに、さっきまでの迷いはなかった。


 クラリスは言った。


「ミリアさん」


「はい」


「今日は、あなたが説明してください」


 ミリアは驚いた。


「私が、ですか」


「はい。年配の方の甲の当たりを、どう直したのか。なぜそうしたのか」


「でも」


 ミリアはガルドを見る。


 ガルドはぶっきらぼうに言った。


「お前が見た。お前が触った。お前が直した」


 ミリアは手戻し布を握った。


「はい」


 声が、少し震えた。


 でも、逃げていなかった。


     ◇


 荷馬車組合で、年配の男は相変わらず帳場の椅子に座っていた。


 ミリアが大サイズを差し出すと、眉を上げる。


「直ったのか」


「試してください」


 ミリアは言った。


 いつもより声が前に出ていた。


 年配の男は手戻し布を巻く。


 甲を曲げる。


 荷布を引く。


 一度、力を入れる。


 もう一度、引く。


 黙ったまま、手を開いたり閉じたりする。


 ミリアは息を詰めて待っていた。


「……ましだな」


 いつもの言葉だった。


 ミリアの目が揺れる。


 だが、年配の男はすぐに続けた。


「ただ、今日は乾いてる」


「はい」


「雨の日にどうなるかは、分からん」


「はい」


「濡れて重くなったら、また甲に当たるかもしれん」


「はい」


 ミリアは一つずつ頷いた。


 がっかりした顔ではなかった。


 むしろ、ちゃんと見られている顔だった。


「毛の向きを変えました」


「毛の向き?」


「はい。厚みは残しています。でも、手に当たる内側だけ、毛が逆らわないようにしました」


 年配の男は手戻し布の内側を見る。


「そんなことで変わるのか」


「乾いている時は、変わりました」


 ミリアは言い切った。


「濡れた時は、まだ分かりません」


 年配の男は、少しだけ口元を動かした。


「正直だな」


「見ていないことは、分かりません」


「それでいい」


 年配の男は手戻し布を外さなかった。


 そのまま、もう一度荷布を引いた。


「今日は使う」


 短い言葉だった。


 ミリアの顔が、くしゃりと歪みそうになった。


 だが、彼女はこらえた。


「ありがとうございます」


「礼は、雨の日にも使えたら言え」


「はい」


 リサが戻り札を差し出した。


「じゃあ、今日はどう書く?」


 年配の男は戻り札を見た。


 痛かった場所、甲。


 また使う。


 使う。


 直れば使う。


 使わない。


 年配の男は少し考えた。


「今日は使う。雨の日は未定」


 リサが眉を上げる。


「項目がない」


 ノアが横から言った。


「追加します」


 リサはノアを見る。


「また増やすの?」


「一つだけです」


 リサは少し考えて、戻り札の端に小さく書き足した。


雨の日に再確認


 年配の男はそこに丸をつけた。


 ミリアは、その丸を見た。


 成功ではない。


 でも、否定でもない。


 次を見るための丸だった。


 クラリスには分かった。


 あの古い羊毛布は、今日ようやく倉庫の隅から出た。


 ただし、まだ終わっていない。


 雨の日に、もう一度問われる。


     ◇


 帰り道、ミリアは手戻し布の戻り札を胸に抱えていた。


 何度も見ている。


 雨の日に再確認。


 小さな丸。


 それだけのものだ。


 だが、ミリアにとっては、ただの保留ではなかった。


「ミリアさん」


 クラリスが声をかける。


「はい」


「今日は、よく説明してくれました」


 ミリアは首を振った。


「まだです」


「まだ?」


「まだ、直ったわけではありません。濡れた時も見ないといけません。乾いた時と違うと思います」


「そうですね」


「でも」


 ミリアは戻り札を見る。


「触ってよかったです」


 クラリスは頷いた。


「はい」


「あの布、ずっと見ないふりをしていました」


「ええ」


「でも、使われていました」


「ええ」


「うちの毛は、高くは見られませんでした。でも、使われていました」


 クラリスは、静かに聞いていた。


「それを、今日初めてちゃんと触りました」


 ミリアの声は、もう震えていなかった。


 クラリスは言った。


「取り戻しましたね」


 ミリアは少し考えてから、頷いた。


「少しだけ」


「はい。少しだけ」


 ノアが横で帳簿を開いた。


「少しだけ、は重要です」


 ミリアが少し笑った。


「ノアさんらしいです」


「はい」


 クラリスも、少しだけ笑った。


 王都南区の道には、まだ泥が残っている。


 だが、雨はもう上がっていた。


 ミリアの手の中には、戻り札がある。


 工房の見本棚には、古い羊毛布がある。


 売り物には戻らない。


 けれど、価値は戻り始めた。


 すべてではない。


 少しだけ。


 そして、雨の日にもう一度。


 それでも、確かに。

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