幕間 払われない仕事
勇者パーティの宿部屋には、乾いたはずの布の匂いが残っていた。
雨の遠征から戻って、二日。
包帯は干した。
魔術紙は選別した。
保存食は分け直した。
矢羽根も、湿ったものと使えるものに分けた。
以前なら、そこまでで終わっていた。
だが、今は終わらない。
補給係マイルの前には、帳面が三冊並んでいる。
一冊は数量。
一冊は状態。
一冊は、次回補充の予定。
以前の彼なら、数量だけを書いていた。
黒パン、残り二十。
包帯、残り十四。
聖水、残り一本。
矢、残り三十六。
それで足りると思っていた。
だが、今は違う。
黒パンは、硬いものと割れたものを分ける。
包帯は、清潔なもの、軽傷用、雑用布、廃棄に分ける。
矢は、実戦用、訓練用、修理待ちに分ける。
魔術紙は、結界用、攻撃補助用、廃棄に分ける。
分けるだけで、半日が消える。
マイルは、筆を置いて額を押さえた。
「……終わらない」
小さな声だった。
部屋の隅で矢を見ていたエリカが顔を上げる。
「何が?」
「補給です」
「数なら昨日見たでしょ」
「数は見ました。でも、状態を書いて、用途を分けて、次に誰が確認するかまで書くと、終わりません」
エリカは矢を一本持ち上げた。
羽根の先が少し曲がっている。
「これ、訓練用」
「はい」
「こういうのを、全部書くってこと?」
「はい」
「面倒ね」
「はい」
マイルは素直に頷いた。
エリカは悪気なく言っただけだった。
だが、マイルの肩は少し落ちた。
聖女リーナは、その様子を見ていた。
机の上には、薬草袋がある。
彼女も同じだった。
治癒に使える薬草。
熱冷まし用。
痛み止め用。
煎じれば使えるが、遠征には向かないもの。
乾燥が甘いもの。
今までなら、薬草は薬草だった。
足りるか、足りないか。
それだけを見ていた。
けれど、ノアがいなくなった後、足りるはずのものが足りなくなった。
あるはずのものが、使えなかった。
使えるはずのものが、場所の奥に入っていて取り出せなかった。
ノアは、それを嫌われるくらい細かく見ていた。
今、その細かさが部屋に戻ってきている。
ただし、ノアはいない。
「マイル」
リーナは静かに声をかけた。
「今日は、全部終わらせなくていいと思います」
「でも、次の遠征までに」
「優先を分けましょう」
「優先……」
「治療物資と魔術紙と保存食を、先に。訓練用の矢の細かい記録は、明日でも間に合います」
エリカが矢を見た。
「私の矢、後回し?」
「実戦用は今日。訓練用は明日」
「ああ、それならいい」
セレスが窓際から口を挟む。
「魔術紙は今日見たいわ。湿ったものを放置すると、さらに悪くなる」
リーナは頷いた。
「では、魔術紙を先に」
マイルは慌てて帳面に書く。
だが、すぐに筆が止まった。
「これ、誰が決めるんですか」
誰もすぐには答えなかった。
以前は、ノアが決めていた。
補給係だから。
金の話ばかりするから。
細かいから。
任せておけばいい。
そう思っていた。
リーナは、静かに言った。
「今は、私たちで決めるしかありません」
その言葉は正しい。
だが、軽くはなかった。
◇
夕方、アレスは宿へ戻った。
外套には、まだ少し雨の匂いがある。
彼は王都騎士団への報告を済ませてきたところだった。
討伐は成功。
東の村道は安全を回復。
商人たちからは礼を言われた。
戦果だけなら、問題ない。
だが、部屋に戻ると、空気が違った。
机の上に帳面。
床に分けられた袋。
壁に立てかけられた矢束。
乾燥中の魔術紙。
リーナが薬草を分け、セレスが魔術紙に印をつけ、エリカが矢羽根を見ている。
マイルは、顔色を悪くして帳面を書いていた。
「まだ終わっていないのか」
アレスが言うと、マイルの手が止まった。
「すみません」
反射的な謝罪だった。
アレスは少しだけ眉を動かした。
その謝罪を聞いて、リーナが顔を上げる。
「アレス」
「何だ」
「それは、マイル一人が謝ることではありません」
部屋が静かになった。
アレスはリーナを見る。
以前なら、ここで言い返したかもしれない。
補給係の仕事だ。
任された者が終わらせるべきだ。
そう言ったかもしれない。
だが、アレスは部屋を見た。
薬草。
魔術紙。
矢。
保存食。
清潔な包帯。
軽傷用の包帯。
雑用布。
廃棄。
どれも、戦場では使う。
使えなければ、誰かが困る。
そして、今まで誰がこれをやっていたのか。
答えは分かっている。
「……そうだな」
アレスは低く言った。
マイルが驚いた顔をした。
アレスは机に近づき、保存食の袋を一つ開けた。
「俺は保存食を見る」
マイルが慌てる。
「アレス様が?」
「誰の役でもないものは、俺の役だと言った」
アレスは硬い黒パンを手に取った。
割れている。
食べられないわけではない。
だが、遠征中に馬上で食べるには向かない。
「これは?」
マイルが急いで答える。
「割れたものです。煮れば食べられますが、移動中には向きません」
「なら、遠征初日の夕食用」
「はい」
「硬いが割れていないものは?」
「移動中用にできます」
「豆は?」
「煮る時間が必要なので、野営がある時だけ」
アレスは黙って頷いた。
戦うより、面倒だ。
だが、戦う前に必要なことだった。
セレスがぽつりと言う。
「ノアは、これを一人でやっていたのね」
エリカの手が止まる。
マイルは何も言えなかった。
リーナも、包帯を握ったまま黙っていた。
アレスは保存食を見たまま言った。
「一人でやらせていた」
その言葉は、部屋に重く落ちた。
誰もすぐには返せなかった。
◇
夜になっても、整理は終わらなかった。
ただ、形は見え始めた。
セレスは魔術紙と触媒を見る。
エリカは矢を見る。
リーナは包帯と薬草を見る。
アレスは保存食を見る。
マイルは全体の数量と次回補充をまとめる。
完璧ではない。
むしろ、不慣れで遅い。
だが、少なくとも全部を一人が背負う形ではなくなった。
マイルは、少しだけ息をついた。
「ありがとうございます」
リーナが首を振る。
「あなたの仕事を増やしすぎていました」
「でも、補給係は僕です」
「補給係でも、一人で全部は見られません」
マイルは帳面を見る。
「ノアさんは、見ていました」
リーナは答えられなかった。
ノアは見ていた。
だが、それは「見られるから見ていた」のではない。
誰も見なかったから、見ていた。
嫌われても。
金の話ばかりだと言われても。
仲間を信用していないと言われても。
リーナは小さく息を吐いた。
「マイル。明日、補給品を買いに行きますね」
「はい」
「私も行きます」
「リーナ様が?」
「薬草と包帯は、私が使うものですから」
セレスが言った。
「魔術紙も、私が行くわ」
エリカも矢を置く。
「矢も私が見る。今まで店任せだったけど、羽根の質くらいは見ないと」
マイルは驚いたように皆を見る。
「でも、皆さんの時間が」
そこで、アレスが口を開いた。
「時間を使う」
全員がアレスを見た。
「戦う者が、補給に時間を使わない。その分を補給係が払っていた」
アレスは保存食の袋を閉じる。
「それを続ければ、また誰かに払わせることになる」
リーナは、胸の奥が少し痛んだ。
アレスは、まだノアに謝っていない。
ノアを追放した判断を、間違いだったとは言い切っていない。
だが、少しずつ変わっている。
自分たちが払っていなかったものを、見始めている。
◇
翌朝、マイルとリーナは薬草問屋へ向かった。
セレスは魔術紙の店へ。
エリカは矢師の店へ。
アレスは保存食を扱う商人の倉庫へ行くことになった。
全員で行動するのではなく、それぞれが自分の使うものを見る。
それだけで、いつもの朝より時間がかかった。
マイルは薬草問屋の前で、少し緊張していた。
「リーナ様、本当に一緒でいいのですか」
「私が使うものです」
「でも、値段交渉は」
「そこは、あなたに教えてもらいます」
マイルが困った顔をする。
「僕も、まだ得意ではありません」
「では、一緒に覚えましょう」
薬草問屋の中は、乾いた草の匂いで満ちていた。
棚には袋が並ぶ。
熱冷まし。
痛み止め。
傷薬。
煎じ薬。
遠征用に乾燥を強めたもの。
価格はそれぞれ違う。
店主が二人を見る。
「勇者パーティさんか。今日はノアさんじゃないんだな」
リーナの足が止まった。
マイルも、表情を硬くした。
店主は気づかず続ける。
「あの人は細かかったねえ。乾き具合、袋の縫い目、湿気、虫食い、全部見るんだから。正直、面倒だったよ」
リーナは静かに聞いていた。
「でも、あの人が選んだ薬草は、遠征先で駄目になりにくかった」
店主は棚から袋を下ろす。
「今日はどれにする?」
マイルは、帳面を見た。
薬草の名前は書いてある。
必要数もある。
だが、袋の縫い目。
乾き具合。
湿気。
虫食い。
そこまでは、見慣れていない。
リーナは袋を手に取った。
乾いている。
だが、強く握ると、少し湿りが戻る。
遠征には向かないかもしれない。
「これは、救護院なら使えますか」
店主が頷く。
「使えるよ。すぐ煎じるなら問題ない」
「遠征では?」
「湿気るかもね」
リーナは袋を戻した。
「遠征用を見せてください」
店主が少し意外そうに笑う。
「聖女様が、そういうことを聞くんだね」
リーナは答えた。
「聞かないまま使って、現場で困りました」
その言葉に、マイルが小さく顔を上げた。
店主は少しだけ表情を改め、奥から別の袋を出した。
「なら、こっちだ。高いが、遠征には向く」
高い。
その言葉に、マイルの筆が止まる。
リーナは袋を見た。
「高い理由は?」
店主は今度こそ、驚いた顔をした。
「乾燥を強めてある。袋も二重。湿気止めの葉を少し入れてる」
リーナは頷いた。
「では、それを必要数だけ」
マイルが小さく言った。
「全部こちらにすると、予算が」
「全部ではありません」
リーナは帳面を見る。
「遠征用は半分。救護院に寄る前提の短い行程なら、通常のものも使えます」
店主が笑った。
「ノアさんみたいなことを言うね」
リーナは、一瞬だけ目を伏せた。
「まだ、あの人ほどではありません」
◇
一方、アレスは保存食商人の倉庫にいた。
倉庫の中には、黒パン、乾燥肉、豆、塩、硬い焼き菓子が並んでいる。
商人は、アレスを見て少し緊張していた。
「勇者様自らとは、珍しい」
「保存食を見に来た」
「必要な数を言っていただければ」
「数だけではない」
アレスは黒パンを手に取った。
固い。
割れてはいない。
「移動中に食べやすいものはどれだ」
商人は目を瞬かせた。
「移動中、ですか」
「野営で煮るものと、馬上や歩きながら食べるものは違う」
「それは、そうですが」
「今まで、誰がそこを見ていた」
商人は少し気まずそうにした。
「以前は、ノアさんが」
また、その名だった。
アレスは表情を変えなかった。
だが、手の中の黒パンが少し重くなった。
「彼は何を聞いていた」
「人数、日数、移動距離。熱を出した者でも食べられるか。雨の日に濡れにくいか。袋が破れにくいか。あと、余った時に町で売れるかどうかも」
アレスは黙った。
そんなことまで聞いていたのか。
戦闘には関係ない。
そう思っていた。
だが、熱を出した者が食べられなければ、行軍は遅れる。
袋が破れれば、食料は減る。
余ったものが売れれば、次の補給費になる。
戦闘の前後に、全部つながっている。
「同じように見せてくれ」
アレスは言った。
商人は、慎重に頷いた。
「分かりました」
◇
その日の夕方、勇者パーティは宿に戻った。
いつもより疲れていた。
戦っていない。
魔物も斬っていない。
だが、全員の顔には疲れがある。
エリカは矢束を置いた。
「羽根の質を見るだけで、こんなに違うのね」
セレスは魔術紙を机に置く。
「安い紙は、結界には使いたくない。今までよく混ざらなかったわね」
「混ざらないようにしていた人がいました」
マイルが言った。
誰も否定しなかった。
リーナは薬草袋を並べる。
「遠征用と救護院用を分けました」
アレスは保存食の袋を置いた。
「移動中用、野営用、病人用に分けた」
マイルは帳面を開いた。
昨日より、項目は増えている。
だが、昨日より少しだけ、意味が分かる。
全員がそれぞれ見てきたからだ。
「これなら、僕もまとめられます」
マイルが言った。
声に、少しだけ力が戻っていた。
リーナはそれを聞いて、胸が軽くなる。
だが、その軽さと同じくらい、重さもあった。
今さら、見えてきた。
ノアが何をしていたのか。
自分たちが何を見ていなかったのか。
アレスは全員を見た。
「次の遠征から、この形で行く」
誰も反対しなかった。
「マイルは全体をまとめる。だが、各物資の使用者が確認する」
セレスが頷く。
「魔術紙は私」
エリカが言う。
「矢は私」
リーナも言った。
「包帯と薬草は私が」
アレスは保存食の袋を見る。
「保存食は俺が見る」
その言葉は、まだ少し不慣れだった。
だが、以前のように誰かへ預ける言葉ではなかった。
◇
夜、リーナは一人で救護院へ寄った。
昨日の少年は、もう足を引きずらずに歩けていた。
老人の咳も、少し落ち着いている。
院主は、薬草の袋を見て言った。
「今日は質が良いですね」
「遠征用とは分けました」
「聖女様が?」
「はい」
リーナは少しだけ笑った。
「まだ、慣れませんが」
院主は優しく頷いた。
「続ければ、慣れます」
リーナは救護院の棚を見る。
包帯。
薬草。
聖水。
どれも、ただ置かれているだけでは足りない。
使える状態であること。
次にも残ること。
誰が見ているか分かること。
それが必要なのだと、ようやく分かってきた。
救護院を出る時、院主が言った。
「そういえば、南区で噂を聞きました」
「噂?」
「エルネスタの令嬢が、馬車宿や荷馬車組合で布を売っているとか」
リーナの足が止まった。
「クラリス様が?」
「ええ。悪女だなんだと言われていましたが、最近は少し違う話も聞きます。半値では売らないとか、使えないものは売らないとか」
半値では売らない。
使えないものは売らない。
リーナはその言葉を胸の中で繰り返した。
以前の自分なら、冷たいと思ったかもしれない。
困っている人がいるのに、なぜ売らないのか。
なぜ配らないのか。
なぜ全部治さないのか。
でも、今は少し違って聞こえる。
使えないものを売らないことも、守ることなのかもしれない。
半値で売らないことも、誰かの仕事を守ることなのかもしれない。
リーナは、雨上がりの夜道で立ち止まった。
「クラリス様……」
小さく呟く。
いつか、話さなければならない。
ノアのこと。
あの日、目を合わせなかったこと。
善意の残数のこと。
そして、値段をつけることを、冷たいと決めつけていたこと。
◇
宿へ戻ると、アレスがまだ起きていた。
机の上には、保存食の袋がある。
彼は一つ一つに印をつけていた。
移動中。
野営。
病人用。
字はあまり綺麗ではない。
だが、分けている。
「リーナ」
「はい」
「遅かったな」
「救護院へ」
「そうか」
短い会話。
それで終わるかと思った。
だが、アレスは保存食の袋を見たまま言った。
「今日、商人に言われた」
「何をですか」
「以前はノアさんが見ていた、と」
リーナは黙った。
アレスは続ける。
「どの店でも、その名が出る」
「はい」
「俺たちの中では、金の話ばかりする男だった」
アレスの声は低い。
「だが、外では違ったらしい」
「違った、というより」
リーナは言葉を選んだ。
「私たちが、一部しか見ていなかったのだと思います」
アレスはすぐには答えなかった。
窓の外は暗い。
雨は止んでいる。
「彼を戻せばいい、という話ではない」
アレスは言った。
リーナは顔を上げる。
「アレス」
「俺たちは、彼を追い出した。今さら、困ったから戻れとは言えない」
「はい」
「だが、彼が見ていたものを、見ないまま進むこともできない」
リーナは静かに頷いた。
「はい」
アレスは、移動中用と書いた袋を持ち上げた。
「これは、まだ下手だ」
「ええ」
「だが、俺が見る」
「はい」
「見なかった損失を、また誰かに払わせないために」
リーナは、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
謝罪ではない。
まだ、そこまでは届いていない。
でも、アレスは少しずつ、ノアの言葉に近づいている。
金の話ではなかった。
損を誰かに押しつけないための話だった。
◇
深夜、マイルは帳面の最後に新しい欄を作った。
【確認者】
保存食:アレス
薬草・包帯:リーナ
魔術紙・触媒:セレス
矢:エリカ
全体数:マイル
それだけの欄だった。
だが、マイルはしばらくその欄を見ていた。
全部を一人で背負わない。
全部を誰かに押しつけない。
それは、補給係として未熟だからではない。
続けるための形だ。
マイルは筆を置き、小さく息を吐いた。
「ノアさんなら、もっと早かったんだろうな」
その呟きに、誰も答えなかった。
けれど、部屋の中にいた全員が聞いていた。
リーナも。
セレスも。
エリカも。
アレスも。
誰も否定しなかった。
外では、雨上がりの風が窓を揺らしていた。
払われなかった仕事に、ようやく名前がつき始めていた。
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