1話 管理部の朝
私、橘さくら。29歳。
新卒でこの会社に入って、今年で7年目になる。
社員数は120人くらい。大きすぎず、小さすぎず、よくある普通の会社だ。
朝の社内は、部署ごとに空気が違う。
営業部は朝から騒がしい。
「佐伯さん、十時の資料できてます!?」
「今印刷してる!」
「部長もう来てるんだけど!」
「うそでしょ!?」
朝からそんな声が聞こえてくる。
一方で管理部は比較的静かだ。
パソコンを立ち上げて、メールを確認して、それぞれ自分の仕事を始める。
私は管理部の総務部所属。
総務の仕事は幅広い。
会議室予約、来客対応、備品発注、健康診断の手配、社内案内の作成、設備関係の連絡、社用車の鍵管理などなど。
誰の担当とも言えない仕事は、だいたい総務に来る。
今日の私は、朝から来週分の会議室予約を整理して、健康診断の案内メールを全社員へ送って、少なくなっていたコピー用紙を発注していた。
その合間に代表電話を取り、宅配便を受け取り、社長室の加湿器のフィルター交換日も確認する。
いつものことだ。
「橘さん、忙しそうねぇ」
左隣の三上さんが、お茶を飲みながら言った。
三上由美さん、42歳。総務部の先輩。
仕事ができて頼りになる人だけど、人に仕事を頼むのも上手い。
「細かい仕事が多いんですよ」
「総務だもの」
「便利に使われてる気しかしません」
「実際便利だからねぇ」
三上さんは普通に言った。
否定してほしかった。
そして、私の右隣には今日も静かな人がいる。
田中さんだ。
経理部、田中真さん。32歳。
私が入社した時からずっとこんな感じだった。
無口。無表情。仕事が正確。電話が短い。雑談しない。飲み会にも来ない。
あと、とにかく静か。
キーボードの音も小さいし、席を立つ時も静かだ。
気づいたらいなくなっていて、気づいたら戻ってきている。
たまに本当にそこにいたのかわからなくなる。
私は財布から領収書を取り出した。
タクシー代、1,800円。
本当は昨日までに出すはずだったものだ。
「田中さん、この領収書……」
私が差し出すと、田中さんは内容を見て言った。
「……先月分ですか」
「ごめんなさい」
「……締めは終わってます」
「ですよね……」
完全に忘れていた。
月末バタバタしていて、そのまま財布に入れっぱなしになっていたのだ。
もう諦めるしかないかな、と思っていると、
「……今月分に混ぜます」
「本当ですか!?」
「……今回だけです」
「ありがとうございます……!」
「……次からは締切前に出してください」
「はい……」
そのタイミングで、営業部の佐伯さんが書類を持って走ってきた。
「田中さん! 俺のもお願い!」
田中さんはちらっと書類を見た。
「……先月分ですね」
「お願いします! マジで!」
「……嫌です」
「なんで!?」
「……常習犯なので」
「橘さんはよくて俺ダメなの!?」
「日頃の行いじゃないですか」
「総務が冷たい!」
佐伯さんは大げさに騒ぎながら営業部へ戻っていった。
三上さんがぼそっと言う。
「毎月見てる気がするわ」
「学ばないんですね」
「学んでたら営業向いてないのかも」
「偏見ですよ、それ」
昼休みになると、営業部の人たちは外へ食べに行って、フロアが少し静かになる。
三上さんは人事の森さんとランチへ行き、私は机でコンビニのサンドイッチを食べることにした。
田中さんも席で弁当を食べている。
焼き魚、卵焼き、きんぴらごぼう、ブロッコリー。
かなりちゃんとしている。
「田中さん、それ手作りですか?」
「……はい」
「すごいですね」
「……普通です」
「私なんて昨日の夜ごはん、ポテチでしたよ」
「……それは夜ごはんではないです」
「真顔で言わないでください」
少し間が空いて、
「……体に悪いです」
「心配してくれてます?」
「……一般論です」
私はちょっと笑ってしまった。
午後。
健康診断の受診一覧を確認していた私は、会議室予約表を見て固まった。
「あっ」
15時、会議室AとBが両方埋まっている。
でも同じ時間に来客予定が入っていた。
「三上さん!」
「どうしたの」
「会議室ありません!どうしましょう!」
三上さんは資料を見たまま言う。
「なんとかなるんじゃない?」
「総務で一番信用できない言葉です、それ」
その横から、静かな声がした。
「……応接室」
「え?」
「……部長、外出です」
田中さんだった。
「使っていいんですか?」
「……確認すれば」
「田中さん、よく見てますね」
「……管理部なので」
意味が広い。
私は急いで管理部部長へ確認して、無事に来客対応を終えた。
席へ戻ると、田中さんは何事もなかったみたいに電卓を叩いていた。
「助かりました。ありがとうございます」
「……いえ」
「なんでそんなに色々把握してるんですか」
「……仕事なので」
終業時間が近づいて、営業部の人たちも戻ってくる。
フロアがまた少し騒がしくなる。
私は大きく伸びをした。
「疲れた……」
「橘さん」
三上さんが帰る準備をしながら言う。
「避難訓練の案内文、明日までね」
「今言います?」
「今思い出したの」
「絶対うそですよね」
三上さんは笑いながら先に帰っていった。
ひどい先輩である。
私も鞄を持って立ち上がる。
「お先に失礼します」
営業部の誰かが返事をして、右隣から静かな声が聞こえた。
「……お疲れさまでした」
私は少しだけ嬉しくなる。
「田中さんも、残業しすぎないでくださいね」
「……あなたもです」
「私は明日から本気出します」
「……毎日、聞いてます」
「えっ」
「……いえ」
またそこで会話を終わらせる。
私の隣の田中さんは、今日も静かだ。
静かで、少し優しくて、たまに変なことを言う。
明日もきっと、こんな感じなんだと思う。




