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第六章  鬼核ノ咆哮

 第一節 影の胎動


 風が止んでいた。

 かつて人々の声で賑わっていた桐原の城下町は、今や見る影もない。瓦は崩れ、土壁は黒く焦げ、往来を彩った行灯の灯りもとうに消えて久しい。

 家々は軋みながら傾き、かつて子供らが駆け抜けた石畳にはひびが走り、瘴気が黒い靄となって漂っていた。


 草木すら息を潜め、川のせせらぎも遠くかすかにしか届かない。まるで天地そのものが、沈黙しているかのようだった。

 ただ鬼の王の胎動だけが、廃墟の街を支配していた。

 

「……来るぞ」

 

 葵は右腕を押さえ、息を殺した。肘から先に広がる鬼の痣が、熱を帯びるように疼いている。燈が振り返り、不安げに葵を見つめた。

 

「……あの感じ、また……?」


「鬼の気だ。だが、今までのものとは違う」

 

 蓮真の声は低く沈み、まなじりに険しさを増す。掌に握った封祓が小刻みに震え、幾重もの呪文が勝手に紡がれ始めていた。

 百合丸は腰の短刀にそっと触れながら、廃墟となった家屋の影に目を走らせる。

 

「三下の気配じゃねえな。……もっと、根っこから腐ってる」


 次の瞬間、大地の奥底からどろりとした黒煙が溢れ出した。それは瘴気とも、鬼気ともつかぬ、粘りつくような闇の奔流。崩れ落ちた祈祷所の地下から、ぶくぶくと泡立つように湧き上がり、村を覆い尽くしていった。


「……影月」

 

 蓮真が呟いた名に、葵は息を呑む。

 影月――かつて人であったものが、幾世代にも渡り呪いと因縁を喰らい、ついに鬼の核そのものへと至った存在。もはやひとつの生命ではなく、鬼という概念の結晶。その胎動が、地の底から響き渡る。

 廃墟の地面が割れ、幾筋もの裂け目が広がる。そこから無数の手のような黒い影が這い出し、瓦礫を飲み込みながら蠢いた。

 呻き声が重なり合い、耳をつんざく。子供の泣き声、女の悲鳴、老人の嘆き……すべてが交錯し、影月の胎内から溢れ出していた。

 燈は両耳を押さえ、膝をついた。

 

「……聞こえる……みんなの声が……っ!」


「燈、気をしっかり持て!」

 

 葵が抱き寄せる。だが彼自身も右腕の痣に引きずられ、眩暈に似た衝撃を覚えていた。


「これは……過去に喰らわれた魂の残響か」

 

 蓮真の声には僧らしい静けさがあったが、その額に浮かぶ汗が恐怖を物語っていた。

 

「影月は、喰らったものを決して離さぬ。……この地に縫い止められた無念の総てが、今、産声を上げようとしておるのだ」

 

 百合丸は奥歯を噛みしめ、地割れの向こうを睨み据えた。

 

「冗談じゃねえ……あんなもん、どうやって斬れってんだ……」


 影が形を持ち始める。まずは無数の顔――泣き顔、怒り顔、苦悶の顔。すべてが黒い粘土で拵えられたように歪み、そして一つの巨躯へと収束していった。

 大地を割るほどの巨躯が立ち上がり、虚空を仰ぐ。その胸の奥、心臓の位置に、異様に輝く赤黒い核が脈打っていた。

 影月の核。人間にとっての心臓でも、鬼にとっての魂でもない。それはただ、世界を蝕む呪の塊であった。


「……あれを討たねば、何も終わらぬ」

 

 蓮真が封祓(ほうふつ)を掲げる。葵もまた、夜哭丸を抜いた。右腕の痣が熱に灼かれ、鬼の爪が皮膚の下から今にも生え出しそうになる。

 

「影月……ここで終わらせる」


 だがその時――。影の中から、ひとりの影が歩み出た。長い裾を引きずるように纏った衣。かつて見慣れた背の高さ、肩の広さ。そして何より、首に光る紫の勾玉。


「――父上……」

 

 葵の声が震えた。

 影月の胎動と共に現れたのは、全身が鬼の痣に侵された男だった。瞳は紅く染まり、腕の先にある禍々しい大きな爪からは血が滴る。

 葵の記憶にある父とは似ても似つかない異形の姿。だが、確かにそこにいるのは、桐原朔真だった。

 右腕がずきりと脈打つ。影月の胎動に呼応するように、鬼の気が血の中で暴れ出そうともがいている。

 目の前に立つ父の姿は、あまりに生々しかった。かつて藩を束ね、己を叱咤し、導いた武人の姿はどこにも無い。その瞳に宿るのは、もはや理性ではない。紅の光に染め上げられた眼差しは、ただ鬼の核に操られる人形のようであった。


「何故ですか……」

 

 葵は声を絞り出す。返答はない。ただ影月の瘴気がぶわりと膨れ、周囲の空気を圧し潰す。燈が小さく悲鳴を上げた。

 

「燈!」

 

 百合丸が彼女を庇うように前に出る。

 

「下がってろ。こっから先は……鬼と人の因縁の場だ」


 蓮真は一歩踏み出し、封祓を強く握りしめる。

 

「桐原朔真――すでに影月の器となり果てたか」

 

 その声には僧としての無念と、ひとりの人間としての怒りが滲んでいた。

 

「影月は鬼を喰らい、人を喰らい、いずれこの世を呑み込む。器となった者は例外なく滅ぶ定め……」


 その言葉に、葵の拳が震えた。

 

「……父を……斬れと言うのか」


 誰も答えられなかった。

 ただ大地が唸り、影月の巨躯がさらに形を整えていく。朔真の姿はその前に立つ影の代弁者のように、影月の気をまといながら葵を睨み据えていた。


「葵……」

 

 蓮真は視線を逸らさぬまま、低く言った。

 

「おぬしの父は……おぬし自身の刃でしか、解き放つことはできぬ」


「解き放つ……?」


「そうだ。斬ることは、殺すことではない。呪から、人から、鬼から――解き放つことだ」

 

 その声は厳しくも、僧としての慈悲に満ちていた。

 

「迷うな。迷えば、影月に呑まれる」


 葵は唇を噛んだ。

 父を救うために、父を斬らねばならない。その矛盾が胸を裂くように重くのしかかる。その時、影月の核が強く脈打ち、地割れがさらに広がった。黒煙が吹き荒れ、闇の奔流が彼らを飲み込もうと迫った。


「父上……!」

 

 叫びが虚空に響いた。紅の瞳が、葵を射抜く。そこには言葉も情もない。ただ、ひとつの鬼として、血を求める眼差しであった。

 次の瞬間、朔真が踏み込み、爪を振り下ろした。

 大地を裂く轟音。葵はとっさに夜哭丸を掲げ、火花を散らして受け止めた。

 父と子の宿命の刃が、交わった。



 

 第二節 父子対峙


 瘴気はなおも濃く、夜空に溶けこむように黒雲が渦を巻いていた。

 その中心に立つ男――いや、もはや人の形をした鬼。

 桐原朔真の全身に広がる鬼の痣は、禍々しい紋様を脈打たせ、指先から伸びた爪は鋭い刃となって闇を切り裂いていた。

 その視線の先に立つのは桐原葵。右手に夜哭丸を握り、呼吸を整えながら父の影を見据える。

 風が吹き抜けた。血の匂いと焦げた土の臭気を含んだ風だ。

 静寂の中で、互いの眼差しが絡み合う。


「……やはり、あなたが……」


 声が震えていた。言葉を最後まで吐き出す前に、喉が熱で詰まる。

 応える声はなかった。

 だが、その眼光の奥にわずかに揺れる人の記憶の残滓――紫苑と過ごした日々を宿しているように、葵には見えた。


 踏み出した一歩が、大地を裂く。朔真の鬼の爪が地を抉り、黒い火花が舞い散った。

 次の瞬間、影の残像が走った。


「――っ!」


 葵は反射的に夜哭丸を振り抜く。重い衝撃が刃に伝わり腕の骨が軋む。

 爪と刃が交錯する音が夜を裂く。

 足が地を滑り、背後の石畳が粉砕された。

 夜哭丸が朔真の攻撃を受け止める度に、雷鳴のような音が闇を震わせた。二人の間に立ちこめた霧が渦を巻いて弾ける。

 葵は押し返されながらも必死に夜哭丸を支えた。鬼の爪が繰り出す一撃は、ただ受け止めるだけで骨の髄まで震えるほどの重さを持っていた。腕の筋が裂けそうに軋む。

 それでも、目を逸らさなかった。


「父上……!」


 呼びかけに応じる言葉はない。ただ鬼の目が葵を射抜き、黒い炎がその眼窩で揺らめいていた。

 だがその奥に、確かに人の色が残っているように思えた。

 

――全ては俺の招いたこと。いつかお前の刀で、母の仇を取りに来い。


 脳裏に、遠い日の声が響いた。

 あの頃の葵には、父の言葉の本来の意味を理解するには幼すぎた。

――母が、影月を封じる祠で命を落としたあの日。

 絶望に沈む葵に、父はただ静かに言葉を託したのだった。


「……覚えているか。俺はあの日から……」


 言葉は刃と共に叩きつけられた。夜哭丸を横に払うが、返すように爪が弧を描いて振り下ろされる。

 大地が裂け、黒い炎が噴き上がる。葵は身を翻し、すんでのところでかわした。熱風が背を焼き、衣が焦げる。

 荒れ狂う強襲の中で、また声が聞こえる。


――葵、強くあれ。

 

 それは父の声であり、同時に鬼の呻きのようでもあった。

 葵の心を突き刺し、揺さぶる。


「ならば――!」


 叫びと共に夜哭丸を高く掲げた。


「あなたの望んだ強さを、俺はここで見せる!」


 夜哭丸が唸りを上げ、鬼の爪と正面から交わる度に、激しい衝撃音が轟いた。

 二人の影が絡み合い、押し合い、まるで互いの存在を確かめるかのようにぶつかり合う。

 その刹那、再び記憶の声が流れ込んでくる。


――許せ。

――お前を……鬼の血に巻き込んでしまったことを。


 葵の心臓が締め付けられる。それは鬼の咆哮ではなく、確かに父・朔真の声だった。


「……まだ、残っているのか……!」


 夜哭丸が爪を弾き、火花が散る。

 その光の中で、朔真の眼がわずかに揺らいだ。

 次の瞬間、ふたりの影は再び闇の中で交錯した――。

 鬼の咆哮が闇を切り裂き、大地が大きく裂ける。夜の闇がさらに濃くなり、まるで世界そのものが呑まれていくかのようだった。

 葵は歯を食いしばり、夜哭丸を構え直す。腕の震えは止まらない。だがその震えの奥には、確かな意志が宿っていた。


「……父上!」


 呼びかけに応じるように、鬼の双眸が一瞬だけ揺らめいた。だがすぐに猛烈な一撃が黒い炎となって振り下ろされた。


 轟音が衝撃波となって大地を抉る。


 葵は全身で衝撃を受け止めた。骨が軋み、肺が押し潰されそうになる。だが、引かない。


「これ以上……誰も失わせはしないッ!」


 その時、天地を裂くかのごとき雷鳴が響き渡った。夜哭丸が閃光を放つ。

 激しく打ち付ける雨の中、夜哭丸を振り抜いた。

 鋭い斬撃が鬼の肩口を裂く。血飛沫が宙を舞い、瘴気が逆巻く。

 だが朔真は倒れない。傷を抉られながらも、黒炎を纏った拳で葵の胸を打ち抜いた。


「がはッ……!」

 

 衝撃が内臓を震わせ地を転がった。口から血が溢れる。

 それでも、夜哭丸を離さなかった。

 

――お前と紫苑を守れなかった罪、鬼と化したこの身で、人々の命を奪った罪。

――その刃で、俺を終わらせてくれ、葵。


 声は断片的に、途切れ途切れに流れ込んでくる。

 葵は地面に膝をつき、血と雨に濡れた顔を上げると、夜哭丸を杖のようにして立ち上がる。全身は傷だらけで、足もふらつく。だが眼は、炎のように燃えていた。


「俺が罪を終わらせる!」


 夜哭丸の刃が震えていた。

 ただの刀ではない。幾度となく鬼を斬り、血を浴び、葵の心と共に育ってきた。今、その切先は父であり、同時に最強の鬼と化した朔真を捉えている。


「……父上」


 その声は怒号でも叫びでもなく、ただ、幼き日の祈りのように澄んでいた。

 鬼叫びと共に夜哭丸を振りかざし、再び父の影に飛び込んだ。朔真の鬼爪が迎え撃つ。

 黒炎と剣光が交わり、二人の影が再び激突した――。爪と刀が同時に振り下ろされる。雨で煙る闇が渦を巻き、大地が裂ける。それと同時に夜哭丸が白く光を帯びた。右腕に走る鬼の痣が燃え上がり、血管を裂くほどに力が奔流する。


「この一刀に――」


 踏み込む。大地を割り、全身の力を右腕に込める。


「俺たちの絆を、すべて託すッ!!」


 龍の咆哮の如き雷鳴と共に、夜哭丸が真の姿を顕した。

 刀身が長く、より黒く、柄に刻まれた文様が赤く光り、刀から迸る紫紺の波動が、葵の髪を揺らした。


 連斬ーー!!!


 刹那、衝撃が奔り、闇が砕け散る。瘴気が塵のように舞い上がり、視界を遮る。

 

 篠突く雨の中、爪を砕かれ横たわる朔真の姿があった。


「父上……」


 葵は膝をつき、朔真の体を抱き起こした。

 ――鬼の貌は次第に人の姿を取り戻していく。

 

「……葵……」


 その瞳が、幼き日と同じように柔らかく細められる。唇が、かすれるように言葉を紡いだ。


「……強く……なったな……」


 葵の胸に熱が込み上げた。嗚咽にも似た声が漏れそうになるのを必死に堪え、ただ父を見つめる。

 朔真の手が、震えながらも宙をさまよい、やがて、葵の頬に触れた。その温もりは、幼き日に感じた掌の記憶と同じものだった。


「……すまぬ、俺は愛する者を守るどころか……」


 朔真の瞳が、微かに揺れる。そこには一人の父としての慈愛の念だけが宿っていた。


「……お前が生きて……歩んでくれれば……それで……」


 その声は風に溶けるように弱まり、夜哭丸に砕かれた鬼の力と共に、静かに闇に還っていく。

 葵の頬に涙が伝った。


「もっと……もっと早く救うことが出来ていれば……」


 朔真の身体が崩れ、砂の様にサラサラと腕からこぼれ落ちていく。最後の一握が雨と混ざり桐原の土に還る。


「見ていてください、父上。俺は、必ず影月を討ちます。仲間と共に――」

 

 刃も憎しみも越えて残ったものは、父と子の絆だった。


 

 第三節 鬼核の咆哮


 雨は止んでいた。

 杉木立の奥深く――苔むす石段を上った先に、その祠はあった。

 巨岩を刳り抜いて造られた小さな社。石の鳥居は半ば崩れ、柱には幾重もの札が打ち付けられていたが、今は破れ散り、風に舞っているだけだった。

 祠の扉は既に砕け落ち、彫られていた波文や双眸の意匠も判別できぬほどに裂けていた。そこからは、瘴気が黒い潮のように溢れ出し、山の木々を枯らし、谷を覆っていた。

 

 その時、地を震わせる轟音と共に、闇そのものが爆ぜた。沈黙していた祠の奥底から、黒炎が噴き上がる。大地は裂け、空気は焼け、瘴気の奔流が四方へ奔った。


「……っ!」


 葵はとっさに夜哭丸を突き立て、襲い来る瘴気の奔流を受け止める。だが、押し寄せる力は父のそれをはるかに凌駕していた。

 地鳴りの中から、咆哮が響いた。獣とも人ともつかぬ、ただ存在そのものが破壊を告げる声。


――ォォォオオオオオオオオオッ!!


 影月。

 鬼の核がついにその姿を現したのだ。

 漆黒の炎を纏った巨躯が、祠の中心からせり上がる。四肢は獣のように歪み、背にはいくつもの禍々しい角が伸びていた。その目は赤黒く爛れ、幾千の怨嗟が凝縮したような光を放つ。


「……これが……影月の真の姿か……」


 蓮真の声が震えた。幾多の怨霊を見てきた彼でさえ、その存在の凄絶さに息を呑む。


「退け、蓮真! 燈を守れ!」


 葵の叫びに、燈は首を振った。


「私も戦う!」


 燈の瞳が、影月の咆哮に呼応するように光を帯びる。彼女だけが、その鬼の核の声を聴くことができた。


――奪う。喰らう。全てを、我が身に――。


 押し寄せる悪意に、燈の体は震えた。それでも彼女の目には炎が宿っていた。


「……負けられない。絶対に……!」


 黒炎が再び爆ぜた。

 大地が裂け、草木が宙を舞う。


「来るぞ!」


 葵が叫び、夜哭丸を構えた次の瞬間、影月の巨躯が闇を切り裂いて突進してきた。闇の中に巨大な影が覆い被さる。


「来いッ!」


 叫びと同時に鬼の爪が振り下ろされる。その一撃は大地をも両断するほどの力を宿していたが、葵は夜哭丸で受け止めた。両足が地面にめり込むほどの衝撃に、金属が悲鳴をあげた。葵は血を吐きそうになりながらも踏みとどまり、夜哭丸を返して影月の腕を切り裂いた。黒い瘴気が飛び散る。しかし傷は瞬時に塞がった。


「化け物め……!」


 その背後で、蓮真が呪を唱えた。


「封印術・鎮陰符――」


 地面に描かれた符が青白い光を放ち、影月の足元を縛る。霊力の鎖が絡みつき、巨体をわずかに停滞させた。


「葵! 一瞬だ!」


「承知!」


 葵は叫び、夜哭丸を振り抜く。だが影月は鎖を力任せに引きちぎり、灼熱の息を吐き散らした。


「っ……来るぞ!」


 次の瞬間、轟音と共に黒炎の奔流が走った。

 その中を、疾風のように駆け抜ける影があった。


「……百合丸!」


 百合丸は火炎の隙間を縫い、影月の死角へ滑り込む。手には香薬玉が握られていた。


「喰らえ……!」


 弧を描いて投げられた玉が影月の顔面に炸裂し、眩い閃光と香煙が広がった。鬼の咆哮が戦場を震わせ、黒炎が揺らぐ。


「今だ!!」


 百合丸の叫びに応じ、蓮真が動いた。数珠を鳴らし、印を切る。


「――封印術・五芒星結界!」


 地に光の陣が走り、影月の脚を縫い止める。黒炎が暴れ狂い結界を食い破ろうとするが、蓮真はさらに真言を重ね、結界を強引に押さえ込んだ。


「燈!」


 結界が影月の動きを鈍らせたその瞬間、燈は両手を合わせ、数珠を高く掲げる。


「――祓い、浄め給え……!」


 数珠が強烈な光を放ち、蓮真の結界に伝わって駆け巡る。

 白金の炎はただの祈りではない。燈の内に流れる力が顕現し、瘴気を焼く――結火となって解き放たれる。

 炎が影月の胸を撃った。鬼が苦悶の声をあげ、黒い皮膚が焼けただれる。その隙を逃さず葵が突っ込んだ。


「夜哭丸――!」


 夜哭丸が唸りを上げ、鬼の肩を深々と斬り裂いた。瘴気が噴き出す。しかし影月は反撃の爪を繰り出し、葵の体を弾き飛ばす。


「っぐ……!」


 地面に叩きつけられたその瞬間、影月が跳躍し、黒炎を纏った爪を振り下ろそうとした。


「させるかァ!」


 百合丸が刀を逆手に構え、影月の腕を狙って跳び上がった。

 爪の付け根を斬り裂かれ、鬼が咆哮を上げた。


「縛ッ!」


 蓮真の叫びと共に、祠中の符が再び光を放つ。影月の両足に無数の鎖が絡みつき、その動きを束縛した。


「今のうちだ! 燈!」


「……はい!」


 燈は息を整え、祈りを重ねる。数珠が輝きを増し、炎はさらに眩い金色へと変わった。

 その炎は戦場全体を包み、影月の瘴気を削ぎ落としていく。


「葵さん、今です!」


 燈の叫びに、葵は地を蹴った。夜哭丸を構え、影月の胸へと一直線に突進する。


「――終わらせる!」


 夜哭丸が鬼の胸を裂いた瞬間、影月が獣のような咆哮をあげた。

 祠の石壁が震え、瓦礫が雨のように降り注ぐ。黒い瘴気が渦を巻き、まるで祠そのものが鬼の体内に呑み込まれていくようだった。


「……まだ、だ!」


 葵は刀を引き抜き、次の一撃に備えた。しかし影月は怯むどころか、傷口から溢れ出た瘴気をまとい、その体をさらに膨張させていく。

 骨が軋み、肉が裂け、鬼はより禍々しい姿へと変貌した。漆黒の鎧を纏ったかのような皮膚に、四本の腕が生え、爪は大鎌のように湾曲して光る。


「……こやつ、また形を変えた!」


 蓮真が結界の強化を急ぎながら呻いた。


「気をつけろ、来るぞ!」


 その警告と同時に、影月が四本の腕を振り回した。空気が裂け、鋭い爪が戦場を薙ぎ払う。


「くっ!」


 葵は後方へ飛び退くが、直後に地面が爪で抉られ、破片が飛散する。


「――喰らえ!」


 百合丸が即座に手を走らせ、複数の薬玉を放った。爆ぜた煙が鬼の視界を遮る。


「今のうちに――」


 だが言葉を言い終える前に、煙が一瞬で吹き飛んだ。影月の背から無数の黒い棘のような瘴気の槍が生え、四方八方に射出される。

 瓦礫が砕け、崩れ落ちた岩が地面を揺らし、衝撃波の中で視界が一気に乱れた。


「祈りの炎よ、闇を祓いたまえ!」


 燈の声が響き、彼女の数珠が白い光を放った。周囲を覆う瘴気が一瞬だけ薄れる。

 だがその光を嘲笑うかのように、影月が咆哮を上げた。


「グァァアアアアアッーーー!!!」


 空気が悲鳴を上げる。

 燈の光が揺らぎ、彼女の体が後方へ弾かれるように吹き飛んだ。


「っ……燈っ!」


 葵が駆け寄ろうとした瞬間、前方から四本の腕が同時に襲いかかってくる。反射的に夜哭丸を振るい、一撃を受け止めた。火花が散り、全身が痺れる。


「止まってられるかよっ!」


 百合丸が煙の中を滑るように駆け抜け、影月の死角へ回り込んだ。腰の小刀を抜きざま、影月の脚へ香薬玉を叩き込む。


「破ッ!」


 閃光と同時に瘴気を焼く匂いが立ち上った。影月が足を引き、怒りに満ちた視線が百合丸に突き刺さる。


――来る!


 百合丸はその気配を読んだ瞬間、地を蹴った。轟音と共に闇を裂く爪が地面をえぐり、破片が飛び散る。

 影月は一瞬の間を置かず、黒い炎を纏った腕を振り抜いた。

 香薬玉を投げる動作と同時に、百合丸の身体は宙を舞った。爆ぜる光が瘴気を裂き、煙が一瞬視界を奪う。

 だがその煙をも貫く影の一閃が彼を襲った。


「っ……!」


 鋭い衝撃が胸を裂き、血飛沫が宙に舞う。百合丸は地面を転がり、息を詰まらせながら膝をついた。

 影月が血の匂いを嗅ぎ取り、嗤うような低い唸りを上げる。


「百合丸っ!」


 葵の叫びが響くが、影月の足は既に彼を踏み潰す勢いで迫っていた。


「三重封印・破界結界!」

 

 その瞬間、結界の光が迸り、影月の足を絡め取るように封じた。


「させぬ……!」


 蓮真が額から血を流しながら、封祓の札を次々と叩きつけた。古の呪が影月の周囲に絡みつき、空気が震える。

 しかしその光も、影月の瘴気の奔流にかき消されるのは時間の問題だった。


「これでも、押さえられぬか……!」


 蓮真の身体を黒い炎が舐める。術を維持するための呪力は既に限界に近く、骨の髄まで削られるような感覚が襲う。


「蓮真っ!」


 葵が駆け寄ろうとするが、その瞬間結界が弾け飛び、蓮真は全身血塗れで崩れ落ちた。

 影月が獣のような低い笑いを漏らし、爪を舐めるように光らせる。周囲の瘴気がさらに濃くなり、月明かりさえも呑み込むほどの闇が広がった。


 葵は夜哭丸を構えながら歯を食いしばった。影月はゆっくりと歩を進め、葵の身体をじっと見つめている。


「やはり……お前が、最も相応しい」


 その声は耳ではなく、頭の奥で響いた。影月の視線が葵の右腕へと注がれる。


ドクンッ!!


 葵は咄嗟に右腕を押さえた。黒い痣が脈動し、熱と痛みが鋭く増す。


――器。


 その言葉が脳裏をよぎった瞬間、右腕が暴れ出すような錯覚が走った。

 黒い瘴気が腕から立ち昇り、葵の心に囁きかけてくる。


――こちらへ来い。

――力を与えてやろう。

――守りたいのだろう?


「黙れっ……!」


 葵は必死に夜哭丸を握りしめたが、指先が痺れ、力が抜けていく。影月の気配が頭の中で渦を巻き、意識を侵食する。

 黒い痣が首筋まで這い上がり、視界の端が赤黒く染まった。呼吸が苦しくなり、心臓の鼓動が爆音のように耳に響く。


「葵っ!!」


 燈の声が遠くに聞こえた。彼女の必死の叫びがどこか遠い世界の音のように思えた。


 影月が嗤う。


「お前がこの身を受け継げば、完全なる存在となる。……この世界は、我らのものだ」


 影月の腕が伸び、葵の顔を包むように掴もうとした瞬間――

 燈の数珠が強く輝いた。彼女は血の滲む手で祈りを捧げ、必死に葵の名を呼ぶ。


「葵……! 帰ってきて!」


 光の粒が舞い、葵の胸で揺れる紫の勾玉が淡い光を放った。

 その光の中に、柔らかな面影が現れる。


「……母、上……?」


 葵の瞳が見開かれた。そこには、微笑む紫苑の姿があった。

 影月の闇の中、紫苑の幻影が静かに息子へ手を伸ばす。


「葵……立派になりましたね」


 その声は、かつて子守歌を歌ってくれた夜のように優しかった。

 暴走しかけた右腕の痣が、僅かに鎮まる。紫苑の手が葵の右腕をそっと包むと、熱いものが流れ込み、黒い炎が押し返されていくようだった。


「……小癪な……!」


 影月が苛立ったように吼え、周囲の瘴気が激しく揺らいだ。

 だが紫苑の光はそれを押し返し、燈の祈りの声がさらに強さを増す。


紫苑の幻影が、静かに微笑んでいた。闇の中でその笑顔は淡い月光のように優しく、葵の心を支える。


「葵……」


 その声はかすかに震えていたが、その瞳は揺らがぬ強さを宿していた。


「あなたは……私たちの希望。もう、自分を責めないで。私のことも……父上のことも……」


 紫苑の手が、そっと葵の頬に触れた。涙が頬を伝い、熱く胸を焦がす。


「……母上……!」


 幼い頃に失ったはずの温もりが、今この瞬間、確かにここにある。

 幻であろうとも――それは魂の底に刻まれた真実だった。


「葵……あなたは強い子。……だから、この世界を守って。私の命も……あなたの生きる道を照らすためにあったのだから」


 紫苑の声が静かに響いた瞬間、葵の胸の奥に燃えるような力が宿った。黒い瘴気を押し返すように、右腕に絡みついていた鬼の炎が収束していく。

 燈の祈りの光がさらに強さを増し、紫苑の幻影が葵の背を押した。


――立て、葵。

――お前の道を、切り開け。


「……ああ、父上……! 見ていてくれ……!」


 葵は涙を振り払うように顔を上げ、夜哭丸を握り直した。その刃が月明かりを浴び、白く光輝く。

 影月の咆哮が轟き、地が揺れ、黒い瘴気が津波のように押し寄せた。


「おおおおおおおおッ!!」


 葵は叫びと共に地を蹴った。黒炎を切り裂くように前へ突き進む。

 影月の巨体が彼を迎え撃とうと爪を振り下ろした瞬間――


「ここだァッ!!」


 百合丸の叫びと共に、煙玉が破裂した。彼は血を流しながらも立ち上がり、最後の力で影月の視界を奪う。闇の中で無数の刃が閃き、影月の足元に傷が走る。

 その隙を狙い、蓮真が血まみれの手で最後の結界術を展開した。


「五重封印・破界結界!――!!」


 地面に刻まれた符が光を放ち、影月の巨体を束ねるように絡み付く。術者の命を削る呪文の響きに、影月が苦しげな唸り声を上げた。


「今だ、行け、葵……!」


 蓮真が血を吐きながらも叫ぶ。同時に、燈の祈りの声が闇を貫き、彼女の数珠が白い炎を生み出した。それが葵の体を包み、鬼の腕に絡む瘴気をさらに押し返す。

 

「夜哭丸、これが最後だ」


 その声に呼応するかのように夜哭丸が蒼白く輝いた。刃の先から龍神が姿を現し風が渦を巻く。闇を震わすような咆哮が影月に向けて放たれた。

 葵は仲間たちの思いを背負い、ただ一心に駆けた。


「うおおおおおッッ!!」


 影月の禍々しい姿が膨れ上がる。

 その胸の奥――そこに鼓動する黒き核が見えた。

 世界を蝕む鬼核の鼓動。それを葵は逃さなかった。


 刹那、世界が静止したかのように感じた。紫苑の幻影が微笑んでいる。仲間たちの声が背を押している。

 その全てが、葵に力を注いでいた。


「――これで最後だ、影月!!」


 白い閃光が闇を切り裂いた。夜哭丸が影月の胸を貫き、黒い瘴気を纏った核を正確に斬り裂く。


「ギヤアアアアアァァァッーー!!」


 影月の断末魔の咆哮が響き渡る。闇が暴風のように吹き荒れ、周囲の大地をえぐった。

 しかし、その暴風を祈りの光と炎が包み、仲間たちの結界がそれを押し返す。


 黒い巨体が崩れ、影月の瞳がゆっくりと光を失っていく。最後にその顔に浮かんだのは、恐怖でも怒りでもない――どこか安らかな笑みだった。


 

 闇を覆っていた瘴気が晴れ、月明かりが静かに戦場を照らした。

 葵は膝をつき、荒い呼吸を整えながら夜哭丸を地に突いた。

 振り返ると、仲間たちが必死に立ち上がっていた。燈の祈りがまだ柔らかい光を放ち、彼等の傷を癒す。

 彼女は涙を拭いながら微笑んだ。


「終わったんだね……」


 葵は返事をせず、ただ夜空を見上げた。

 そこには月が輝き、その光の中に――紫苑と朔真の微笑が、確かにあった。

 

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